菜穂実さんの連載小説『ケータイ小説!』(第30回)をアップしましたぁ。今回も目まぐるしく状況が変わりまふ。物語がジェットコースターのやうに疾走し、急カーブを曲がりながら進んでいきます。まるこちゃんの『亮の顔に、枕、押し当ててもいいわけ。芸能人とヒナ人形は、顔が命でしょ』といふ脅し言葉に、不肖・石川は爆笑してしまひました。危機一髪の時でも、まるこちゃんなら言いそうだー。つーかそれがいつものまるこちゃんなんです。
小説文学には型があります。短歌・俳句ほどきっちりしていませんし、短歌・俳句より遙かに長いので、さまざまな型が存在するように思えてしまひますが、そんなことはありません。小説文学は基本的に、会話と地の文から構成される。会話は主人公と主要登場人物が交わすものであり、地の文は原則として非人称的に書かれています。作家は地の部分で主人公の内面を描写し、主人公の言動を相対化する情報を巧みにインサートしてゆきます。
ちょっと乱暴な言い方をすると、小説の地の部分を重視する作品は純文学的であり、会話部分を重視する作品は大衆小説的だと言うことができます。純文学の代表は私小説ですが、地の部分は最初からわたしの文であり、それゆえ非人称的に書かれます。しかし他者との会話は私の心理・思考を補完するために活用されるのが常です。衝撃的な会話であってもそれは主人公の内面に、つまり小説の地の部分に吸収されてゆく。地の部分が作品の主役なのです。
これに対し大衆文学では会話が物語を動かします。未知や謎をはらんだ他者との会話が物語を動かしてゆく。地の部分では、会話によって生じた主人公の内面が必要最少限度に描写され、次の行動に移る登場人物の姿が客観的に描かれてゆきます。できるだけ地の部分の存在感を薄くして、会話によって物語を進めるのが大衆文学の手法です。やってみればおわかりになると思いますが、そうでなければ長い小説は書けないのです。
菜穂実さんのジェットコースター小説『ケータイ小説!』は、純文学と大衆文学の中間にある文体で書かれています。すべてまるこちゃんの一人称一視点で書かれていますが、その内面、つまり小説の地の部分が実に軽い。小説の会話と地の部分がほぼ等価であり、事件(主に会話が担う)と主人公の心理描写(主に地の部分が担う)が絡み合う形で物語が進んでゆきます。『芸能人とヒナ人形は、顔が命でしょ』といふまるこちゃんの言葉は、彼女の内面描写でもあるわけです。
不肖・石川、正直に言えばラノベは楽しく読んでも、それを文学の問題として考えたことがありませんでした。しかし菜穂実さんの『ケータイ小説!』を読んで、ちょっと考えが変わり始めています。人間の内面って、こんな感じぢゃないのかなぁと思ったりします。ジャコメッティはパリのカフェで通行人を眺めながら、人間存在はロダンの彫刻のやうに重くない、もっと軽いんだと確信したそうですが、そんな感じ。菜穂実さん、これを意図的にやっているのならすごいですね(爆)。