金井純さんの『親御さんのための読書講座』『No.032 たまごを持つように』をアップしましたぁ。児童文学者のまはら三桃(みと)さんの『たまごを持つように』を取り上げておられます。児童小説は多かれ少なかれ少年少女成長小説、あるいは教養小説の側面を持っています。いわゆるビルドゥングスロマンです。金井さんは『たまごを持つように』を読解しながら、例によってこのジャンルについて面白い考察をしておられます。
金井さんは『成長とは一つの結果、それも成果である。ぶっちゃけた話、偏差値が45から52になるようなものだ。しかし小説の力学とは本来、偏差値表そのものを破き、制度を壊してしまうエネルギーにある。もちろん大人は、そういうエネルギーを子供に期待してもいるのだ。一方で、偏差値表を破るのは、一度は上の方に行ってからにしてくれ、とも思っている。制度の破壊が、制度からの逃げになってはならない、と思っている』と書いておられます。これは小説の内容だけでなく、児童文学についての批評でもあるでしょうね。児童書には内容面でも形式面でも、小説ジャンルの枠組みをはみ出してしまう部分があるわけです。
そのあたりのところを金井さんは、『児童文学にも二通りある、ということだろうか。大人が自らの子供時代、あるいは子供性への憧れをそのまま作品化したものと、もう一つは子供に課せられた成長という義務に寄り添い、応援するものと。前者に少しでも後者の要素が混ざると、説教臭くなって失敗する。しかし後者の作者は、前者の要素を完全にあきらめることはできない。それをなくしてしまうと、「小説」ですらなくなってしまうからだ』と分析しておられます。的確な批評だと思います。
〝子供時代〟を描く作品はファンタジーになりがちです。しかし〝成長〟を中心に描くと教訓的な作品になってしまう。たいていの児童書はこの二つのベクトルを揺れ動いています。また児童小説作家、あるいはファンタジー作家、いじめ問題を好んで描く社会派作家がそのジャンルでは秀作を書けても、一般読者を対象にした作品では苦労する理由もそのへんにありそうです。ではこのアポリアはどのようにすれば超克できるのでしょうか。
まず問題をできるだけ明確な形で整理することでしょうね。混乱してるなぁ、同じことを繰り返してるなぁと感じながら、問題点を整理し直視しないからいつまでも同じ場所をぐるぐる巡ることになる。批評を書くかどうかは別として、作家に分析的批評精神は必須です。金井さんはその点について、『弓道は禅に通じると言う。そこには単なる成長では済まされない思想の可能性が、ほんの少し覗く。それもまた「立派な達成」に回収されてしまっているきらいはあるものの、それが便宜上の物語に過ぎないことは、少なくとも「成長」した読者なら察するだろう』と書いておられます。
■ 金井純 『親御さんのための読書講座』『No.032 たまごを持つように』 ■