小原眞紀子さんの『Ongaku & Bungaku by Kingyo』『No.018 『エンジェル・ウィズ・ア・ラリアット』 k.d.ラング&ザ・リクラインズ』をアップしましたぁ。k.d.ラングを論じておられます。k.dは小文字ぢゃなきゃ〝ダメよ~ダメダメ〟なのであります(→youtubeで日本エレキテル連合をチェキラですぅ)。k.d.ラングさん、詩人で小説家のe.e.カミングスがお好きで、彼にならってk.d.を小文字にしておられます。e.e.カミングス、いい作家ですよ~。詩では藤富保男さんの名訳があります。小説『巨大な部屋』も良かったなぁ。あ、話題が脇道にそれました。
k.d.ラングの『エンジェル・ウィズ・ア・ラリアット』はカントリー調の作品です。小原さんは『ご本人はカントリーはお好きではないようで、好きでないから新しいものができる、ということはあると思う』と書いておられますが、そうかもしれませんね。k.d.ラングさん、言いにくいですが、若い頃からやぼったい雰囲気がございました。それがカントリーによく合っていたんですね。北米のカントリー・ミュージックって、日本の演歌のやうなものです。不動の大御所がいて、氷川きよしさん的若手アイドルがいる。ほんでもってカントリーは、ダサさを脱構築して新しい音楽を作り出す素材でもあります。k.d.ラングさんの場合、アイドルなのか脱構築なのか、よくわからんところに魅力があったやうに思ひます。
小原さんが書いておられるやうに、k.d.ラングさんはレズビアンであることをカミングアウトしたことでも有名になりました。小原さんは『「これが本心、これが実態」とカミングアウトしたところで、後から後からいくらでも謎は生まれる。文学はそのような「本心」をそう簡単に信じない。が、音楽のかぎりないとりとめのなさに、あるいは歌詞の言葉にこそカミングアウトの決めゼリフが潜んでいるのだ、と錯覚する。それこそがしかし、天使の投げたラリアットに捕えられているのである』と論じておられます。
この深読みといふか、錯覚の構造は音楽全般に言えますね。絵画にも適用できるかもしれない。文学の場合、言葉は必ず意味に結びついていますから、その読解は厳密にならざるを得ません。もちろん文学は、できるだけ意味に沿って厳密に読んだ方がいいのです。ただどんなに厳密に読解しても、どうしても読み切れない作品は傑作です。意味を持つ言葉で書かれているにも関わらず、作品全体が意味内容を超えているからです。文学が音楽や絵画に近づくのは、そういった作品においてだけでしょうね。
■ 小原眞紀子 『Ongaku & Bungaku by Kingyo』『No.018 『エンジェル・ウィズ・ア・ラリアット』 k.d.ラング&ザ・リクラインズ』 ■