池田浩さんの文芸誌時評『No.010 小説新潮 2014年04月号』をアップしましたぁ。山本一力さんの新連載『マックでよい』を取り上げておられます。幕末にクジラを追って日本近海にたどり着いたアメリカ人青年が、まだ鎖国下の日本への上陸を目指すといふ物語です。日本文化・社会を思いっきりワンダーランド的に捉えた作品です。池田さんは『特権を持たず、囲い込まれもしない状態で「日本」にアプローチしてゆく場面に、新しい可能性がありはしないか、と思う。なぜならそれは日本人である私たちが「日本」を見い出すときと、存外に変わらないからだ』と書いておられます。
日本の小説において、時代小説は一種のSF的役割を果たしています。現代を舞台にすると作品は自ずから様々な制約を受けますが、時代小説ではそのやうな縛りが緩い。もちろんSFのやうな未来社会を描くことはできませんが、日本は歴史が長いですから、作家の好みにあった出来事や時代設定を見出すことができる。過去の社会の枠組みは抽象的であるといふ意味でSFの未来社会のそれとあまり変わりません。現代よりは相対的に緩い社会的縛りの中で、作家はその主題をよりストレートに表現できるやうになるわけです。SFでも時代小説でもたいていの場合、特定の社会的制約がデフォルメされて表現されています。その制約の設定自体が作品主題に直結しているわけです。
ただま、作家なら誰でも時代小説を書けるのかといふとそーでもなくて、芥川賞系の純文学作家が活路を見出そうとして時代小説を手掛けると、えっらい悲惨なことになってしまふこともありまふ(爆)。理由は簡単で、作家が表現したい主題と、それを逆接的に活かしてくれる社会的抑圧のバランスが取れていないわけです。もっとはっきり言えば、作家に最初から表現したい主題などなく、時代小説なら少しは売れるだろうくらいの考えだからそうなる。
歴史に詳しければ歴史小説が書けるだろうと考えるのは誤りです。歴史は調べれば誰でも知識を得ることができる。どの史実に沿って、その時代の何が主人公(人間存在)を抑圧する要素であるのかを措定するのかが最も重要です。鷗外さんが言った『歴史そのままと歴史離れ』はいまだに正しいわけです。時代小説は歴史に沿いながら、ほんのちょっと歴史離れしている必要があります。
山本一力さんは手練れの時代小説作家で、池波正太郎をこよなく愛する作家さんであります。今回の新連載『マックでよい』は、老練な時代小説作家でなければ書けない掟破り的な作品かもしれませんね。時代小説に慣れていない作家が山本さん的な設定で書き始めると、作品がグダグダになってしまふ可能性大でありますぅ(爆)。
■ 池田浩 文芸誌時評 『No.010 小説新潮 2014年04月号』 ■