小原眞紀子さんの文芸誌時評『No.005 小説TRIPPER 2014年春号』をアップしましたぁ。辻原登さんの連載『東大で文学を学ぶ―ドストエフスキーから谷崎潤一郎へ』を取り上げておられます。辻原さんは既に『東京大学で世界文学を学ぶ』を本にまとめておられますが、その続編の完結です。辻原さんは近代小説を探偵小説、冒険小説、家族小説に分類して批評しておられます。
小原さんは『探偵小説を、制度とそれを破壊する力と捉えると、父性とそれに成り代わろうとする力と重なり合う。このようにして探偵小説は家族小説と響き合い、そこには「秘密」という共通項もある。探偵小説には秘密は付き物だし、父は息子にとって秘密と力に満ちている。それは母親を支配する力でもあろう』と書いておられます。このような視点は合理的かつ実践的ですね。辻原文学理論の大きな特徴だと思います。
『東大で文学を学ぶ』などを読めば、辻原さんが批評家としても十分活躍できたことがよくわかると思います。批評家にならなかったのは、小説作品を書くことに魅せられ、そこにほとんどの時間を取られるようになったからでしょうね。また詩人・小説家には辻原さんタイプの作家が大勢います。批評の形でその思考を公表していないからといって、詩人・小説家に批評的思考がないとは言えないわけです。
不肖・石川は、文学ジャンルといふものは、その垣根を崩そうとしても崩れないと思います。ジャンルごとにその本質的な表現目的が異なるからです。現在、ジャンルの垣根が曖昧に見えるとすれば、それぞれのジャンルがその本質を見失いかけているからだと思います。しかし本質を掴まないままジャンルを越境しようとする試みは失敗するでしょうね。各ジャンルの本質を掴んだ作家だけが、ジャンルの垣根を跳び越えられると思います。
柄谷行人さんのポスト・モダニズム批評以降、文芸批評は創作化しています。綿密に作品を読解して文学のある本質を明らかにしようとするのではなく、作品をダシにして批評家個人の思想や観念を表現しようとする試みが非常に多い。これは批評ジャンルの枠組みを逸脱しています。だったら批評家は、作品批評抜きで独自の思想論を書いた方が良い。作品批評を隠れ蓑にした、創作化した評論は無駄です。中途半端な思想表現、中途半端な作家・作品論にしかならない。
文芸批評は作品の緻密な読解によって、現代文学のあるパラダイムを明らかにするものです。現在ではそれは、専門の文芸批評家よりも、辻原さんのような作品創作者の試みで為されつつあると思います。創作者の批評は具体的かつ実践的です。それは作家たちに影響を与える力を持っている。批評を書いてもそれが作家たちにすら読まれない、影響を与えないのであれば、文芸批評はますます力を失ってしまふでしょうね。
■ 小原眞紀子 文芸誌時評 『No.005 小説TRIPPER 2014年春号』 ■