プロ野球戦力外通告 クビを宣告された男達
TBS
12月30日22:00~
年の瀬にしかあり得ない、といったタイトルの番組である。いずれ年忘れだから、辛いことの見納めということだろうか。少なくとも新年特番で放映されることはあるまい。(そういえば以前は、正月二日に決まってヴィヴィアン・リーの『哀愁』が流されていたが、あれは外人さんなので身につまされはしないってことだろう。)
しかし「クビ」という言い方は、ひどいものだ。契約を更新しない、ということを、こういうニュアンスで言いならわすのは日本語だけではないのか。ギブアンドテイクが根付いた契約社会なら、互いの利益が一致しなくなれば契約は更新されないのは当然だし、なんら恥じるところもないと考えるものではないか。「クビ」というのは、される方に非があって、その組織から放逐されるという意味だ。自身を揶揄して言うのはともかく、めったなことで他人に使う言葉ではないだろう。
もちろん数字を意識してか、こういうサブタイトルをあえて付けて、しかしそれを納得してしまう潔さは、やはりスポーツマンならではだと言うべきだろう。スポーツの世界にいる者たちにもドロドロした人間関係はあるし、学校の運動部など陰湿なものでもあるが、プロに入った(少なくとも一時は)一流であった選手たちには、問答無用の瞬間は動かし難い勝負とともにある、ということは引き受けられている。我々がスポーツの世界に求めるものとは、たとえその多くが幻想であるとしても、最後は一個の肉体のみに還元するしかないところにある。
関係性の中で生活してゆくしかない我々の日常において、一個の肉体として終始するとは、うっとりするような憧れである。社会における我々と違い、「クビ」などという不名誉な言葉を回避しようともしない。つまりは野球ができなくなるということにおいて、まさしくクビなのである、と一個の肉体は思うのだろうか。
そう、まさしくそうである。名誉は常に勝者にしかない世界だ。そしてどのような肉体にとっても、勝ち続けることなどできはしない。土に膝を突く瞬間はいずれ訪れる。わかりきったことだ。ただそれがいつか、今なのかどうか、という問題に過ぎない。
誰もがイチローや松井、田中であるわけがない。不完全燃焼のまま、夢の舞台から去らなくてはならない者が多いわけだし、その一人一人に事情と経緯がある。そんな当たり前のことに気づかされる番組だった。気がつかないのは、そちらにカメラが向くことがないからだ。そして彼らは、我々の社会へと帰ってくる。不完全燃焼での燃え残りを何十年もかけて、日常の中でじりじりと焼き尽くすしかない我々の世界へ。
トライアウトで野球選手として首の皮一枚繋がろうと、完全に一般人として営業職などに転身しようと、我々の目にはすでに同じであるように感じる。本人たちにとっては明暗を分けたということだろうが、そこにあるのは限界を意識した肉体だ。無限の可能性はもはやない。それはそれで、人の姿を垣間見せてくれる。そこにたいてい女性が、それも身重でそばにいるというのが、なんともいえない。その先の主人公は、彼女たちかもしれない。
田山了一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■