小原眞紀子さんの 『文学とセクシュアリティー 現代に読む源氏物語』 (第 021 回) をアップしましたぁ。第二十九帖 『行幸 』と第三十帖 『藤袴』 の巻を取り上げておられます。ほんで連載評論が始まると、今年も本格始動だなぁといふ気がしてきます。不肖・石川も、今日明日で一日中酔っぱらいモードから抜け出さなくては (爆)。
今回小原さんは、ポストモダニズム哲学や心理学を援用して、ダブルバインドについて論じておられます。ダブルバインドとは 『一つの言葉、あるいは存在に対する意味の二重性』 (小原) のことです。心理学的よく使用されるタームです。たとえば親が子供を愛しているふりをしながら、心の底では憎んでいるという状況があるとする。子供は言葉などの表層では親の愛を信じますが、ノンバーバルなレベルで親の憎悪を感受してしまう。そうすると人格が引き裂かれて心理学的な病を発症してしまったりするのですね。
小原さんはこのダブルバインドを社会にまで範囲を拡げて論じています。これは斬新な視点です。『ダブルバインド状態から生じるものは、ある事象に対する二通りの説明、解釈です。すなわちその事象の内部、もしくは解釈する私たちの内面に留まるものであり、新たな何かの事象を創出するというものではありません』 が、 『そこから一歩踏み出て、それらの関係を相対化することができれば、創作が可能となり、作品としてそれを構造化することもできます。そしてそこへと踏み出るためには、自身の欲望 = 思想という核が、暫定的にであれ必要とされ』 るわけです。『源氏物語』 にはもちろんこのダブルバインド構造が意識的に援用されています。小説の思想は暫定的なものであり、その本質的 〝思想〟 は作品の有機的構造として提示されるといふことであります。
今現在書かれている文芸批評は、ポストモダニズムの衣をかぶった意味的印象批評がほとんどです。結局のところ、誰が何を言ったのか、つまり作家は何を伝達したいのかを相も変わらず意味的に読解することを繰り返しています。難しそうな前置きを飛ばして読めば、読書感想文的批評だと言えます。しかし文学金魚の批評は違います。それは構造主義的分析によってポストモダン的現代を読み解こうとしています。情報が無秩序に散乱して、かつその世界としての一体性を決して喪失しないポストモダン的現代を読み解くには構造主義的分析が不可欠だということです。今年はそろそろ文学金魚的な批評を世に送り出したいですね。ま、新年の誓いほどあてにならないものはないんですけんど (笑)。
■ 小原眞紀子 『文学とセクシュアリティー 現代に読む源氏物語』 (第 021 回) ■