外賀伊織さんの 『 Ongaku & Bungaku by Kingyo 』 『 No.011 清志郎の愉楽-『サン・トワ・マミー』 』 をアップしましたぁ。まだ土日がありますからお正月ですぅ。不肖・石川が酔っぱらっていられる日が二日も残っているのでありますぅ。そんで文芸誌時評だとお正月気分が吹き飛んでしまひそうなので、外賀さんの音楽評をアップすることにしました。2009 年に亡くなられた忌野清志郎さんの 『サン・トワ・マミー』 について論じておれれます。この曲、岩谷時子さん作詞の越路吹雪さんの代表曲でしたが、最近の方は清志郎版の方がなじみ深いかもしれません。
音楽批評を掲載しておいてなんなんですが、音楽の好みについて議論することほど不毛なことはありません (爆)。不肖・石川も学生の頃にそんな愚かな議論をした苦い経験があります。音楽はいってみれば一種の宗教ですな。親鸞聖人は宗教を教・行・信・証に分けてお考えになりました。教は経典、行は修行、信は信仰、証は奇跡であります。ほんで論理的に考えればまず教えを学んで修行し、信仰を深め、ついに奇跡が起こるといふことになります。
ところが実際は逆なんですな。まず証=奇跡がある。奇跡といふと大げさですが、雷に打たれるように信仰の道に入り、それから経典を読んで修行するといふのが一般的な宗教家の道です。音楽も似たようなところがあります。まず、ああこれだと思って好きになるところから音楽ファンが生まれます。理屈は後からついてくるのです。
では音楽批評はムダかというと、そうではありません。ヒット曲は必ずある時代の精神を反映しています。それを読み取るのも音楽批評の一つの役割です。もちろん根本には好き嫌いといった純感覚的なものがありますから、ある人が書いた批評に強い反発を覚えられる方もいらっしゃると思います。そういう時は捨て台詞ではなく、自分で新たに批評をおお書きになるとよろしい。
音楽評に限らず、他者が書いたもの (創作) に対する異和感や反発は批評発生の原理です。それをきちんきちんとまとまった文章にまとめていけば、逆接的に、他者の書いた文章の手強さがわかってくるということもあります。もちろん書き手を目指しておられない方は、これ好き、これ嫌いでいいのです。ただ物書きのプロを目指そうとするなら、それでは不十分です。たいていの場合、俺の方が、わたしの方がいい文章を書いたと感じるくらいで他者と同レベルです。うんといい文章だという手応えがあれば、他人が読んで、うん、まあまあイケてると評価してくれるかもしれません (笑)。
■ 外賀伊織 『 Ongaku & Bungaku by Kingyo 』 『 No.011 清志郎の愉楽-『サン・トワ・マミー』 』 ■