大野ロベルトさんの連載評論 『 『無名草子』 の内と外 ― 読み、呼び、詠み、喚ぶ ― 』 (第 009 回) をアップしましたぁ。『無名草子』 の評論も最終部に入りましたね。あと一回で大野さんの連載は完結です。今回は力の入ったコンテンツになっています。『 『無名草子』 もまた、夢幻という衣裳を身にまとうことで権威から自由になった女房たちが、神聖視されてきた過去の物語どもを好き放題に論じる書として見ることができる。『大鏡』 は歴史を対象にそれを行い、かしこき辺りの私生活をさえ、翁の思い出の一つとして開陳してしまった。それを受けて、今度は文学を対象にしたのが 『無名草子』 である』 という指摘は重要ですね。『無名草子』 は唐突に終わってしまひますが、それは開かれたテクストだということを意味します。
また大野さんが 『鎌倉という新しい時代を迎えたとき、前へ進むには、過去の清算が必要であった』 と書いておられるように、過去の文学を検討し、未来に向けたヴィジョンを示唆するためには、何ごとかが終わったといふ認識が必要です。異論のある歌人の方もいらっしゃると思いますが、確かに和歌 (短歌) は鎌倉初期で一つの区切りを迎えました。極論を言えば、源実朝以降、短歌の大作家は現れていない。室町期に入ると連歌が流行し、そこから俳諧 (俳句) が発生してくるわけです。金魚屋のどなたかが書いておられましたが、俳句は短歌の究極の近代化だと捉えられないことはない。鎌倉期をもって、日本の古代的心性の時代は終わったと言っていいのではないかと思います。
大野さんは今回の図版に 『神経ネットワークと銀河団』 を使用されています。こうやって見ると、人間の脳の神経組織と銀河の形状は驚くほど似ていますね。大野さんは 『私たちが考察してきた当代人の文学のネットワークが、いかに自然で根源的な構造を有しているかということを示してくれている』 と書いておられます。短歌は鎌倉期である終わりを迎えましたが、完全に何かが終わったわけではない。短歌は物語と俳句を生み出している。短歌から始まる広大な文学ネットワークが存在するわけです。問題はその原理と生成構造をいかに的確に認識把握できるかにあります。ジャンル横断的知性がなければ、それを明らかにすることはできないでしょうね。
■ 大野ロベルト 連載評論 『 『無名草子』 の内と外 ― 読み、呼び、詠み、喚ぶ ― 』 (第 009 回) ■