りょんさんの詩誌時評 『 No.009 現代詩手帖 2013 年 10 月号』 をアップしましたぁ。また石川がう~と呻いてしまふことを書いておられますなぁ (爆)。しっかしりょんさんがおっしゃることもわからんことはなひわけでして。手帖さんの特集は 『ルイ・マクニールを読む』 と 『広部英一の詩』 の 2 本立てであります。どちゃらの詩人も石川は知りませんでしたが、手帖誌の母胎の思潮社さんから新刊が出ております。番宣特集はどのメディアもやっていますが、いかにも現代詩業界らしい組合わせだな~と思ひます。
不肖・石川、たびたび短歌・俳句誌を読んでいるとうんざりするといったことを書いていますが、それは詩誌でも同じです。でも詩誌には目くらましがあるんですね。海外詩の翻訳がその一つです。自由詩が明治維新以降に欧米詩の翻訳・模倣から始まったのは衆知の事実です。その根底には有史以来の日本人の海外文物好き、もっと俗な言葉で言えば海外ブランド好きの心性があります。日本人は手の込んだ国産籐編みバッグより、ヴィトンの方がなにやらありがたく感じてしまう心性を持っている。
詩誌メディアもある種の詩人さんたちも、それを上手く利用している面があります。自由詩に比べて短歌・俳句の方が読者も創作人口も圧倒的に多いですし、本気で短歌・俳句創作を行おうとすればその困難さは自由詩の比ではないと思います。でも世間一般では短歌・俳句より詩の方が難しいことをしている、詩の方が無条件で現代的なんだと受け取られがちです。そんなことまったくないですよ。薄っぺらな輸入ブランド的ハイカラさを取り除いてしまえば、作品や批評の低レベルは短歌・俳句誌となんら変わらない。
また歌誌・俳誌ではうんざりするほど繰り返されている初心者向け啓蒙を、詩誌がまったく行っていないことも問題だと思います。初心者を啓蒙するためには詩についての基礎的思考を整理する必要があります。それが詩を議論する際の共有認識になるわけです。しかし詩誌での詩人たちの議論はてんでばらばらです。それでは新たな詩の書き手や読者は増えませんし議論も深まらない、噛み合わないでしょうね。
石川は金魚屋アドバイザー詩人さんたちの、詩は一切の形式・内容的制約を持たない自由詩であるといふ基礎定義に深く賛同しています。今のところそれ以外の定義に説得力がないからです。もちろん詩=現代詩と定義することも可能だと思いますが、難しいだろうなぁ。現代詩が単に現在書かれている詩を意味するならわかりますが、たいていの人が思い浮かべる現代詩は、50 年代から 80 年代初頭にかけて書かれた実験的な一連の詩だと思います。やっぱ近い将来、ひとつ時代の詩のエコール (流派) として相対化されると思います。
戦後詩が終わったことに同意する詩人は多いようですが、現代詩の時代も終わってしまったことを、詩人さんたちはそろそろ正視した方がいんぢゃないでしょうか。戦後詩と現代詩って、ほぼ同時に発生したわけでしょう。戦後詩が終わって現代詩だけが生き残るって、ちょっとあり得ないと思いますよ。両者の詩風はかなり重なっているわけですから。
実際、今現在 『現代詩手帖』 さんに掲載されている作品で、過去の現代詩に比肩できるような作品はまずありません。ほとんどが抒情詩なのですが、それを現代詩風の修辞でくるんである。どんな詩であれ現代詩風でないと掲載できないっていうルールでもあるのかなぁ。いっそストレートにじゃんじゃか抒情詩を載せた方が読者は増えると思ひますけんど。不肖・石川、現代詩業界って不自由なところだなぁと思いますですぅ。
■ りょん 詩誌時評 『 No.009 現代詩手帖 2013 年 10 月号』 ■