釈照太さんの詩誌時評 『 No.015 角川 『俳句』 2013年06月号』 をアップしましたぁ。久しぶりの俳句誌時評であります。ま~、大変恐縮なのですが、俳句を巡るあれやこれやの言説にはうんざりしますね。釈さんは大谷弘至さんの 『俳句は進化しない』 という記事を取り上げておられますが、大谷さんの議論は、相も変わらず疑問を投げかけ振り出しに戻るといった内容です。こうやって俳壇は十年一日のごとく平穏無事に過ごしていくのだなぁと思いますです、はい。
釈さんが論じておられる角川俳句さんの 『大特集:季語のギモンに答えます!』 も同様です。日本気象協会が俳句の季語になんか言って、俳人さんたちが怒っているという話には思わず噴き出してしまひました。季語の著作権うんぬんも同じです。俳句雑誌で取り上げるほどの重大事なんでしょうかね。騒ぎ立てても落としどころは最初から見えているんぢゃないかなぁ。平地に乱を起こしているのは日本気象協会なのか俳人さんなのかわからんと思います。俳句ギョーカイ新聞を創刊してそこで議論した方がいいですよ。
俳句に限らず、詩誌というのは強くギョーカイを感じさせる雑誌です。そこに取り込まれると、どうやらギョーカイが世界に見えてくるようです。俳句雑誌を開けば誰でも気づくように、そこには大結社の大会や句会の記事がさも一大事のように紹介されています。つまり大結社に所属して、そこで主宰や編集人などの偉いさんにならなければ、俳壇ではほぼ絶対に注目を浴びられないということです。どんなにいい仕事をしていても、冷や飯食いで終わる。目端の利くいい子ちゃんたちが大結社を引き継いでいくのであります。
でもそれが厳然たる現在の俳壇の既成事実。作品だけを読んで固有の文学的特徴を明確に認識できる俳人などほとんどいない。大結社の利権がらみで新聞などの俳句欄撰などを担当しているから、作品がよく読まれているに過ぎない。そういった俳人の大半は、物故すれば俳句文学史からきれいに消え去る。しかし現世では現世的な秩序が厳然としてあるということです。それはそう簡単に変えられないシステムです。
俳句を文学として真摯に探究する作家はくやしいでしょうね。だったらいっそすっぱりと、そういう現世の俳壇システムから完全に外れてみたら?。完全に既存の俳壇での 「出世街道」 を思い切るのは言うほど簡単ではないと思います。身を切るような覚悟が必要です。でもそういう俳人が増えれば俳句の世界は根本的に変わりますよ。また文学金魚はそういった俳人を応援します。中途半端な姿勢では何も変えられませんよ。
■ 釈照太 詩誌時評 『 No.015 角川 『俳句』 2013年06月号』 ■