大野ロベルトさんの連載評論 『 『無名草子』 の内と外 ― 読み、呼び、詠み、喚ぶ―』 (第 006 回) をアップしましたぁ。今回のタイトルは 『 「モデル読者」 の群れ』 で、『無名草子』 の読者である女房たちの考察です。平安末から鎌倉初期の日本人の識字率がどのくらいだったのか、正確なところはわかりませんが、そうとう限られていたことは確かです。しかしレベルが低かったのかといふと、そんなことは言えないわけでして。
女房たちは 『あの方は、『うつほ物語』 や 『竹取物語』、『住吉物語』 のように、わずかな前例しかない時代、いったいどうして 『源氏物語』 のようなものを書くことができたのでしょうか』 と紫に敬服しています。ほとんど現代人と変わらない感慨ですねぇ。でも傑作が一人の作家の 〝天才〟 によってのみ生み出されることはないわけで、紫もまた 『無名草子』 に登場する女房たちのように、鋭い批評意識を持った読者の一人だったと想像されます。
ある時代を代表する傑作が生まれるときは、それを成立させるための基盤が存在します。『無名草子』 の女房たちは、『狭衣物語』 や 『夜の寝覚』 について批判的な言葉を述べていますが、必ずしも 『源氏』 贔屓であるわけでなく正確な評価です。紫は彼女の時代には飽和に近い状態に達していた何かに形を与えた作家だとも言えます。だいたいの日本文化はそういうものですね。お茶にせよ俳諧にせよ、利休や芭蕉以前は形が定まっていない。しかしある作家が形を与えると、それは古代から続いてきた文化に見えるわけです。
大野さんは次回連載で、『無名草子』 の 『女の、女による、女のためのテクスト、という側面』 を論じられる予定です。日本の古典文学をひもとけば明らかですが、和歌は原初的に女文字 (平仮名) 文学、『伊勢物語』 の作者は男ですが当時は女性を装わなければ説得力を得られず、日本文学古典中の古典 『源氏』 は女流文学です。いよいよ日本文学の核心に迫ってきたといふ感じがしますですぅ。
■ 大野ロベルト 連載評論 『 『無名草子』 の内と外 ― 読み、呼び、詠み、喚ぶ―』 (第 006 回) ■