小原眞紀子さんの連載評論 『文学とセクシュアリティ 第011回 「澪標」海=生と欲動のエネルギーによって』 をアップしましたぁ。小原さんは『社会学的に言えば、「女流」などというのは差別概念でしかないのかもしれません』と書いておられます。まあおおむねそうですね。文学に限らないですが、役職など目に見える社会的地位にこだわるのは男性が圧倒的に多いです。この社会制度をガッチリと構築する男性原理が、それに興味を示さない女性を軽視する傾向があるのは確かだと思います。
しかし男性は女性に弱いのであります (笑)。単に男が女に弱いということを言っているわけではありません。時に社会制度を内部から崩壊させるような女性の声に怯えるのであります。制度を構築する男性原理は抽象的な砂上の楼閣でもあります。その制度にほころびが見え始めたとき、あるいはその制度から男性が弾き飛ばされそうになっているときに、女性の言葉に滑稽なほど動揺してしまう。
たとえば大義を掲げて闘ってきた戦争がどうやら負けになりそうな時期や、会社をリストラされたときを想像してもらうといいかもしれません。こういう時、男性が一番追いつめられるのは、制度とは無縁に生活してきた女性の 『だいじょうぶなの? これからどうなるの?』 という言葉だと思います。それまで聖戦を唱え、会社人間として過ごしてきたらなおさらこたえますね。
男性・女性という生物学的な性差を超えて、人間全般の心理に内在する男性性 (制度的指向) と女性性 (非制度的・制度解体的指向) は普遍的なもののように思えます。多くの優れた文学者がそれに意識的でしたが、これを理論化したのは小原さんが初めてかもしれません。『文学とセクシュアリティ』、続きが楽しみであります。
■ 小原眞紀子 連載評論 『文学とセクシュアリティ 第011回 「澪標」海=生と欲動のエネルギーによって』 ■