りょんさんの詩誌時評 『 No.004 現代詩手帖 2012 年 11 月号 』 をアップしましたぁ。『詩にとってセクシュアリティとは何か』 といふ特集なのですが、りょんさんが書いておられるように『なんでいつもいつも「詩にとって」が問題なの?』 といふ疑問に石川も賛成です。はっきり言えば詩は読まれていません。『現代詩手帖』 に執筆している人と執筆する可能性がある人が 『現代詩手帖』 を読んでいるだけです。そのくらい詩の状況は悪化しているわけです。『詩にとってセクシュアリティとは何か』 といふ設問は、詩作品でセクシュアリティをどう表現するのかいう技術論を意味すると思いますが、詩といふジャンルそのものがグズグズになっている現状ではあまり意味がないと思うのであります。
何度かこのブログでも書きましたが、金魚屋は詩を 『自由詩』 と定義しており、『現代詩』 は20世紀後半に現れた思想を含む一つの詩の書き方だと定義しています。不肖・石川のように頭の悪い人間でもこの定義は恐らく正しいだろうと判断できます。『現代詩』 といふ呼称は、あと数十年後には、『ああ、あの小難しい詩の書き方ね』 と相対化される可能性がとても高いと思います。実際、現在 『現代詩手帖』 に掲載されているほとんどの詩作品はかつての 『現代詩』 とは異質です。『現代詩』 の時代は終わっているわけです。その意味で 『現代詩手帖』 といふ雑誌は、ほとんど存亡の危機に面しているのではないかと、余計なお世話ながら心配しているのであります。
まず当たり前のようにたくさんの読者を抱えた詩 (現代詩でもいいですよ~) と呼ばれる文学ジャンルが盤石に存在しているという考え方を改めた方がいいのではないでしょうか。俳句の雑誌は毎号のように初歩的な俳句の書き方や、初心者にでも理解できるような過去の俳句作品の評釈を掲載しています。そういった、書き手や読者を育てようという姿勢が 『現代詩手帖』 にはまったく見られません。『現代詩』 という書き方も読者も空洞化してしまっているのに、それが確固たるものとして存在しているように振る舞うのは、とても危険だと思ふのでありますぅ。
■ りょん 詩誌時評 『 No.004 現代詩手帖 2012 年 11 月号 』 ■