水野翼さんの文芸誌時評 『No.003 群像 2012年06月号』 をアップしましたぁ。蓮實重彦さんの映画評を取り上げておられます。蓮實さんと柄谷行人さんは、一昔前の 『群像』 を代表する批評家という感じがしますねぇ。当時はポスト・モダニズム批評とか、ひとくくりにして呼ばれていましたが、時間がたつとずいぶん違うタイプの批評家だったように感じられますです。
柄谷さんの批評は、乱暴に言えば柄谷行人という作家のプロモーションだったように思います。夏目漱石やマルクスを批評の対象に取り上げても、その本質を解明することが目的ではなかったのではないでしょうか。常に柄谷行人という特権的知性が際立っていました。批評を創作として書いた初めての作家と言うことはできるでしょうが、それが本当に創作の名に値するのかは疑問が残ります。むしろ創作への敵意のようなものもあったのではないでしょうか。彼の著作は文芸批評でも哲学でもなく、柄谷行人の本としか言いようがないと思います。
蓮實さんの批評は、ペダンティックで博覧強記という意味では柄谷さんと共通する部分がありましたが、文学や映画という創作への愛が常に感じられました。最近、文芸批評はあまり書かれないようですが、一時期、蓮實さんの創作批評は確実に文学界に影響を与えていたと思います。内部から文学制度を壊すことには限界があったにせよ、日本の文学制度に対して初めて明確に疑義を呈したのは蓮實さんだったように思います。
水野さんは 「蓮實氏は、文学に対してと同様に、映画への愛に満ちている。だがもしかして私たちの蓮實重彦氏への安心感は、その愛ゆえでなく、その視点が作品のすべて、またその先行作品もことごとく視野に入れ、すでに 「観てしまった」 感を与えるところからくるのか」 と論じておられます。蓮實さんは愛の批評家ですが、水野さんがおっしゃるように、それを少しだけ逸脱する部分があったからこそ、1980年代から90年代にかけて、僕らは彼の批評を楽しく読んだわけです。
優雅なペダンティストが、ちょっとだけ本気になってしまった、そんな雰囲気が蓮實さんにはあります。蓮見さんは文章を書いて何かを論じるなど、本来、自分がすべきではない下賤の仕事であり、「この程度ね」 とつぶやいて、ただ創作を消費していれば十分だという高貴な感じを漂わせていました。それが時代の巡り合わせで少しだけ批評に深入りしてしまった。当然、彼の目には全ての創作の底が見えてしまっているわけです。蓮實さんの映画評が 「すでに 「観てしまった」 感を与える」 のは、そういうことでしょうね。
ただ非常に乱暴な言い方ですが、蓮見さんと柄谷さんの時代は終わりました。時代がそれを終わらせたのか、彼ら自身の問題なのかは、僕らが考えればいいことです。また、その先を考えるのも僕らの仕事です。文学金魚の執筆者の皆さんには、是非、次の時代の文学的パラダイムを構築していただきたいと思います。