小原眞紀子さんの連載評論 『文学とセクシュアリティ 第2回 - 「桐壺」 そして谷崎潤一郎』 をアップしましたぁ。小原さんには先月から 『文学とセクシュアリティ』 を連載していただいているのですが、予定通りのアップです。金魚屋執筆陣のみなさん、小原さんを見習って締め切り厳守するよーにっ。なお小原さんの 『文学とセクシュアリティ』 は毎月5日にアップ予定です。
さて、連載2回目で、本題の 『源氏物語』 『桐壺』 の読解の始まりであります。学生さん向けの講義 (という体裁) なので、小原さんは谷崎潤一郎の現代語訳をテキストに使用して 『源氏』 と谷崎文学の両方を論じておられます。ただ近頃では谷崎訳 『源氏』 すら難しいという若い方が増えていて、谷崎訳の訳が必要になりそうな勢いです。森鷗外の 『舞姫』 などはもう完全にお手上げで、口語訳ぢゃなければ読めないという若い人が多いようです。時代は変わりましたなぁ。
んなことはどーでもいいのですが、『桐壺』 の読解には小原さんの講義の根本方針が示されているように思います。『桐壺』 では社会 (「内裏」) の 「堅牢であるべき」 「権力構造」 が、「たった一人の、しかも取るに足りないと思われている女性 (桐壺) の存在によって狂わされて」 いきます。図式的に言えば、男性社会を女性性が浸食し、内部から壊していくわけです。
しかし日本の物語 (小説) では、それは決して権力闘争には発展しませんし、ウーマンリブ運動のような男権 vs. 女権という形も取りません。実際、桐壺更衣は早々とお隠れになってしまいます。そして彼女の意志を継ぐのは男性です。「男性性に象徴される制度構造の頂点 (近く) に立ち、なおかつ制度構造を揺さぶる女たちの女性性=私性に通じることを担わされた主人公、光の君」 が物語を主導していくわけです。ここに日本文学の極めて独自な形態が示されているのは確かなように思われます。
光の君の男性というセクシュアリティは一つの記号に過ぎません。彼は男性というセクシュアリティのベクトルと、女性というセクシュアリティのベクトルを自在に行き来できる人だからです。『源氏』 という物語のおもしろさは、このベクトルの揺れの大きさにあるような気がします。小原さんが書いておられるように、「小説というのは総体としては、小説を成り立たせている構造の中での力学変化、ダイナミズムそのものだ」 ということになるだろうと思います。
このような構造分析は魅力的です。日本の現代文学は構造主義をすっ飛ばしていきなりポスト・モダニズムに飛びつきました。分析し解体すべきものは手つかずのまま残っているのではないでしょうか。文学を原理から考えるのならまず 『源氏』 から。それは僕にはとても正しい姿勢のように思えます。