田沼泰彦さんの連載評論、大岡頌司句伝外伝 『其の二 書物という物』 をアップしましたぁ。田沼さんは詩誌 『夏夷 leaflet』 で俳人・大岡頌司さんの句の評釈を 『大岡頌司句伝』 というタイトルで連載しておられますが、文学金魚で連載していただいているのはその 『外伝』 で、大岡さんの本や原稿を論じた評論です。大岡頌司さんという俳人にとっては、本や原稿の形態そのものが大きな意味を持っていたようなのです。
今回、田沼さんは 「愛書家」 について論じられています。「愛書家と呼ばれる人がいます。簡単に言えば本好きということですが、本を読むことだけが好きな、いわゆる読書家とは一線を画します」 「彼は読み終わるやいなや本を手に取ってひたすら愛で始めます」 「なにゆえ人は書物を愛するのか。本を愛することができるのか。それは書物が紛れもない 「物」 であるからです」 と田沼さんは書いておられます。
田沼さんはまた、「乱暴な言い方ですが、人は目で見えないものや手で触れ得ないものを愛することが苦手なのです。だから (中略) 「物」 としての書物により確かな愛情を注ぐのです」 「そしてそうした 「本=物」 への思い込みは、本に納められたテクストの量によって強くなったり弱くなったりします。つまり、テクストが多ければ多いほど 「書物」 は 「物」 から遠ざかり、逆にテクストが少なければ少ないほど 「書物」 は 「物」 に近付くのです。小説集より詩集、詩集より歌集、歌集より句集というように、書物という器を満たすテクストの量が少なければ少ないほど、愛書家は書物を 「物質」 と錯覚し易くなるのです」とも書いておられます。
こういう論は刺激的で面白いですねぇ。田沼さんがおっしゃっていることが完全に正しいかどうかは別として、ここには確実な肉体感覚があります。田沼さんは注意深く 「錯覚」 と書いておられますが、僕らが本の物質性を強く意識するのは、確かに小説よりも詩集や句集、あるいは童話などの場合が圧倒的に多いと思います。このような肉体感覚を確信して、その深層にググッと迫ってゆくような文章が僕は大好きです。また深層は真相に通じると思います。
田沼さんが『夏夷 leaflet』 で掲載しておられる『大岡頌司句伝』 を読むと、大岡頌司という俳人が、一種のサンボリストであったことがわかります。言葉やその配列に、通常とは異なる、過剰とも言えるような意味を付加するタイプの詩人です。そのような資質が、大岡さんが手がけた本にもはっきりと現れていることを、田沼さんは明らかにされようとしているようです。
詩人らしい評論だなぁと思います。こういう考察は、小説家などからは、なかなか生まれてきません。文学金魚連載の 『大岡頌司句伝外伝』 は、正伝である 『夏夷 leaflet』 掲載の評論が出てから次作を発表されるということで、「次回の外伝は夏の終わりから秋口あたりの予定」 だそうです。石川としては、とっとと 『夏夷 leaflet』 を刊行して、文学金魚に次作を掲載していただきたいですぅ(笑)。