池田浩さんの文芸誌時評『No.002 三田文学 2012年春季号』をアップしましたぁ。ちょい前に大衆文学の姿は明治大正時代からあまりかわっていないけど、純文学は大きくかわりつつあると書きましたが、『三田文学』についても同じことがいえるみたいですね。最近の『三田文学』について、池田さんはかなり違和を感じておられるようです。
話はちがうんですが、金魚屋のリアル会合のあとでちょっと飲んだときに、テレビのお笑いの話になりました。お笑いの世界は競争が激しいですが、僕が「とんねるずのどこがおもしろいのかわかんない」といったら、谷輪洋一さんが、「とんねずるの偉業は、業界ってところが、どれほどいい加減でくだらないところか、テレビをとおして日本中に周知徹底させたところにあるっ!」と酔っぱらいながら叫ばれたのです(笑)。
批評家ってなんでも考えてるんだなと、感心しながらちょいとあきれたりもしたわけですが、なるほど谷輪さんのいうとおりかもしれません。シナリオはあるけど、即興の反射神経で笑いをさそうバラエティ番組では、出演者のプライベートを含めた全人格が笑いの対象になります。そこには当然業界ネタが含まれるわけです。また僕らは確かにとんねるず的教育の薫陶を受けています。テレビ業界に縁のない僕らでも、ときおり業界人のような話しかたをしますものねぇ。あのタレントさん、もっと仕事選んだ方がいいよ、とか(笑)。
文学業界では編集者の顔は基本的に見えません。見えなかったというべきかもしれません。テレビなどと同じように、文学者(出演者)がメインで編集者は黒子だからです。しかしそれも変わりつつあります。特に純文学雑誌の世界の話ですが、純文学が低迷している状況の中で編集者の姿がじょじょに目立つようになっています。本が売れないばかりか、雑誌に原稿を掲載してもらうだけでも苦労を重ねなければならない作家が、以前よりさらに編集者の顔色をうかがうようになっているという状況もあります。
しかし文学の世界は、テレビのお笑いの世界と違って、編集者は基本的にあくまで黒子のままです。純文学がもし本気で現在の低迷から抜け出したいのなら、文学者自身が激しく奮起するか、編集者が明確な意図をもって仕掛けてゆくか、2とおりの方法しかないと思います。編集者に話を限れば、現在のところ、純文学系の編集者は淫靡な黒子的権力者として振る舞うことに満足しているように感じます。言うまでもないことですが、あまり健全な状態ではありません。このような状況は変わった方がいいに決まっています。
金魚屋の文芸誌時評で知ったのですが、講談社刊(星海社に版元が変わるようです)の『ファウスト』は絶対的な1人編集長の雑誌です。金魚さん(齋藤都代表)が書いておられたように、それは「出版不況と呼ばれる実態をよりラディカルに暴」く試みです。『ファウスト』が成功するか失敗するどうかは別として、このような試みの方が文学界を活性化させる要因になるのではないかと思います。
『三田文学』は大学雑誌ですから、商業誌と大学PR誌の中間的存在です。池田さんの時評を読む限り、そのあいまいな中間性を活用して、同人小説誌と商業誌の橋渡し的役割をになうことに満足しはじめているようです。また編集部は10年近く変動がないようです。大学雑誌だからそれでいいのでしょうが、普通に考えればかなり長い。でも編集方針はあまり明確ではない。むしろヌエ的。『三田文学』が『文学界』を頂点とする純文学商業文芸誌の下部組織になるなら、編集部が『文学界』にこびていると受け取られかねません。
商業文芸誌のように必ずしも採算ノルマを課されていないという意味で、『三田文学』は特権的フリーハンドの利点を持っていることと思います。『三田文学』がこの先も同じ体制で続けられるならなおのこと、いわば編集者の顔が見える形で、もっとラディカルに仕掛けていただいた方が文学界はおもしろくなるだろうと思います。