池田浩さんの文芸誌時評『No.002 S-Fマガジン 2012年6月号』をアップしましたぁ。池田さんの時評で初めて知ったのですが、「1998年にはS-Fジャンルにおいて単行本が一冊も出ない状況に陥った」ようです。でんぐり返りするくらいびっくらしました。文学出版はこのところずっと低調ですが、それは純文学系に限ったことで、大衆文学はそこそこ売れていると思っていました。しかしS-Fはいわゆる大衆文学には含まれていないようです。
日本の小説は純文学と大衆文学に大きく区分けできます。簡単に芥川賞と直木賞の区分けだといってもいい。出版点数が圧倒的に多いのは大衆文学の方です。今に始まったことではなく明治大正時代からずっとそうなのです。僕らが学校の教科書などで慣れ親しんできた作品のほとんどは純文学ですが、その数は大衆文学よりも圧倒的に少ない。
大衆文学は文字を使ったエンターティメント商品です。どの業界でも安定した利益を生む商品は必要であり、大衆小説は文学ビジネスの基本です。そこで大衆小説では労力をかけて作家を育てる努力がなされてきました。時代小説や推理小説の売れっ子は常に必要で、空席ができると誰かがそれを埋めてきたのです。しかし大衆小説と比べるとさほど読まれない、売れもしない純文学が書き続けられてきたのは、それが文学という芸術の核心をなす表現だという社会的な認知が存在したからだといえます。
読者を楽しませることを最大の目的にする大衆小説の姿は、今も昔もほとんど変わりません。読めば面白く、それなりに新しい発見もあり、人生哲学なども教えてくれます。でも純文学は大きく変わりました。単につまらない、売れないだけの小説になりつつあります。純文学では私小説といった従来の「枠組み」ばかりが目立ち、中身は空虚になっています。純文学の衰退の原因を端的に言えば、時代を捉えられない、現代の本質を言語化できていない、ということになるのでしょう。
考えたこともなかったですが、池田さんが言うように「S-Fというジャンルの状況は、日本の文学状況のメタファーになっている」のだとしたら、とても興味深いことです。時評者のどなたかが書いておられましたが、日本でS-Fが盛り上がらないのは時代小説があるからだという説があります。日本のように長い歴史を持つ国では、わざわざ小説の舞台を未来に設定しなくても、過去を探れば作家がその主題を表現できる時代状況が必ず存在するからです。
欧米には日本のような純文学のジャンルはなく、S-Fは日本の時代小説と同様に純文学と大衆文学が入り混じったジャンルです。ただS-Fの傑作といわれる作品は主に東欧圏とアメリカで生まれています。20世紀の東欧圏は社会主義体制で表現を制約され、アメリカは過去の歴史があまりない国です。恐らくそのあたりに欧米のS-Fと日本の純文学がどこかでリンクしてくる理由があるのでしょうね。
小説は基本的に現実世界を舞台にしますが、大衆文学と純文学ではその捉え方が違います。大衆文学では現実は物語を紡ぎ出すための確かな土台です。社会風俗などがそのまま小説の主題になるからです。しかし純文学ではきっかけに過ぎません。純文学は本質的には現実の上位にある抽象的観念を表現しようとします。そのためどこにも存在しない世界を舞台とする欧米のS-Fと近似してくる面があるのかもしれません。