高階謙さんの文芸誌時評『No.001 小説 野性時代 第101号(2012年4月号)』をアップしましたぁ。新しいおともだち、ぢゃなくって時評者さんの登場であります『小説野性時代』ってワイルドなイメージがあるんですが、『作家&言葉のプロに訊く【辞書】の読み方・遊び方』なんていふ、ちょっとアカデミックな特集も組んでおられるのですねぇ。
それにしても三浦しをんさんの、「辞書を作る人たちは言葉が湧き出る美しい泉を守っているコロボックル」であり「人とおしゃべりするのは得意ではないので、人間が近づくとささって隠れてしまう」という言葉はナイーブだなぁ。んなわきゃ~ないじゃんってことは、誰もが知っていることですが、この言葉がある一定の読者層に強い力をもって訴えかけているところに、現在の言葉と文学を巡る状況が表れているんでしょうねぇ。
言葉は文脈依存的なものです。キレイ、汚い、美しい、醜いという意味内容を現す単語(言葉)はありますし辞書的定義もできますが、それが文章、面倒だから文学と言ってしまいますが、文学になれば汚い単語で美を表現することもできますし、美しい単語で醜を表現することもできます。文学ではまず作家が何を表現しようと意図しているのかが問題になります。それによって様々な言葉が配列されるわけです。この必ずしも言葉の一義的意味内容に沿ったわけではない言語構造が作り上げられた理由を、大多数の読者が感受することができれば、作家が作品で表現しようとした意図は一定の社会的コンセンサスを得られたということです。
小林秀雄にならって古典的言い方をすれば、花の美しさは表現・伝達できるが、アプリオリに美しい花は存在しないわけです。従って三浦しおんさんの「言葉が湧き出る美しい泉」という言葉は彼女が作品で表現しようとした観念にほかなりません。それは一般概念化できませんが、なぜしおんさんはそれを表現しようとしたのか、どうしてそれが多くの読者に受け入れられたのかは考える価値があると思います。
言うまでもなく「言葉が湧き出る美しい泉」はいまだかつて存在したことはありません。それは現代において言葉の美が危機に瀕していることを示しているのかもしれませんし、滅びつつある言葉の美へのノスタルジーなのかもしれません。新し言葉の美の希求かもしれない。いずれにせよそれは辞書からは生まれません。文学の問題です。
ところでようやく次の『Interview of Gold Fishes』のインタビューイーさんが決まりました。作家の夢枕獏さんであります。近日中にインタビューを行い、来月上旬にはインタビューをアップできると思います。お楽しみにっ!。