星隆弘さんの演劇批評『No.002 ピーター・ブルックの魔笛(A Magic Flute)』をアップしましたぁ。今回は演劇界の世界的巨匠、ピーター・ブルック演出の2010年初演『魔笛(A Magic Flute)』で、世界巡回公演の一つである日本公演のレビューであります。星さんの演劇批評は月1回の予定ですが、ちょい遅れのアップであります。しかしとても力の入ったコンテンツを書いていただきました。星さんお疲れ様でありますぅ。
演劇はなかなか難しいジャンルです。撮影すれば写真や動画は残るのですが、やはりその場にいないと本質はつかめない。ピーター・ブルックは演劇について考え抜いた人なので、星さんの日本公演観劇レビューは貴重だと思います。日本公演では舞台上部に翻訳字幕用のディスプレイが設置されていたようです。星さんは『字幕は、舞台上のフィクションと観客席の実存の世界を分け隔てる境界にある窓のようなものだ』と考察されています。
星さんの演劇論は『錯視』というキーワードを巡って展開されるわけですが、ブルックは錯視効果についてたいへん意識的な演出家であるようです。『魔笛』はフランス語の台詞とドイツ語の歌で構成されるので、ヨーロッパでは自ずから音声的に二元的な演劇世界を形成します。しかし日本公演ではそれが字幕という『覗き窓』によって一元化され、かつヨーロッパとは異なる形で二元化されます。視覚が捉える文字と俳優の動きに分化されるわけです。ブルックはそのズレに意識的であり、またそれを積極的に利用する演出を施したようです。ブルックは俳優にカタコトの日本語で『ケッコンシテクダサイ』という台詞を言わせ、字幕という『覗き窓』の存在を一瞬だけ無くしてしまう。
星さんは『それは観客が演劇行為へ参加すること、俳優によって演劇行為の中に観客を巻き込むことであり、<見える>かどうかではなく、演劇を自覚したうえで<見る><見せる>の錯視的関係の中に俳優と観客を置くということだ』と書いておられます。視覚の中で字幕と舞台に分裂していた演劇が、ふとリアリティを持つ現実のコミュニケーションに変わり、そこでのディスコミュニケーションが、観客に再びフィクショナルな演劇であることを強く意識させるわけです。しかし『覗き窓』が一瞬消え去ったのは重要です。それ以降、字幕の存在そのものが、演劇的錯視効果の装置として、それまでよりも有機的に機能し始めるからです。
星さんのレビューで読んだだけですが、パパゲーノを演じる俳優が『ケッコンシテクダサイ』と日本語を発した時の劇場の空気の変わり方は、ちょっとゾクゾクするものがあります。でもそれは、その場にいて、目の前で演じられるブルックの劇の中に身を置いた人にしか、本当のところわからないものなのでしょうね。