釈照太さんの時評『角川『俳句』2012年5月号』をアップしましたぁ。昔、週刊誌で『待ってました停年』という連載エセーが掲載されていましたが、角川『俳句』の『今すぐはじめる!60歳からの俳句入門』はそれを思い起こさせます。もちろんなにを始めるにしても遅すぎるということはありません。でも、「還暦ともなれば社会経験が豊富にあり、『人生の喜びや悲しみ』を詠む材料には事欠かない」、「俳句を作る満足感の一つは詩人としての、日本の文化を継ぐ一人としての誇りを持てることである」と言われると、そうかな、と思ってしまいます。
釈さんが言われるように、それは『文芸』の話であり、『文学』の問題ではないだろうと思います。人生経験が豊富だから秀れた俳句を詠めるわけではないですし、俳句を詠めば誰もが日本文化を継ぐことができるわけでもない。要はみんなで俳句を詠んで楽しもうよと言っているわけです。そのためには結社に参加して発表の場と仲間を確保して、吟遊のための名所観光旅行に出かけ、その合間に角川『俳句』などの商業誌を購読して知識を蓄えた方がいいよと誘っているわけです。
俳人の方々は「啓蒙は無駄ではない、俳句人口が増えれば増えるほど、『俳句文学』の基盤は厚くなる」とおっしゃるかもしれません。でもそれはウソです。習い事としての『俳句文芸』を支える下部組織が厚くなるだけのことです。多くの俳人は結社や雑誌が潤えばそれでいいのかもしれませんが、そのような勧誘をいくらやっても『俳句文学』にはなにひとつ寄与しません。俳人の方は、そんなことは重々わかっておられると思います。俳人の方々が大好きや芭蕉や蕪村、正岡子規らは『俳句文芸』に甘んじるほどぬるい作家たちではなかった。外から見ていると俳句の世界の議論はそうとうにレベルが低いと言わざるをえません。
ちょっと過激な内容になってしまいましたが、それは金魚屋での議論を重ねるうちに、僕自身、『俳句文学』の重要性に気がついたからです。このブログで何度も繰り返しているように、金魚屋の方針は『文学総合主義』と『文学原理主義』です。文学を総合的に考えるためには俳句は避けて通れません。また文学を原理的に考えるためにも俳句文学とはなにかを探求する必要があります。僕はそれを俳人の方々が明らかにしてくれることを心から期待しています。
俳人の方たちにはもっと頑張ってもらわないと困ります。多くの俳人の方々は、内輪話と状況論に終始するジャーナリスティックな原稿書きには、もう飽き飽きされているのではないでしょうか。そろそろ俳壇外の文学界を視野に入れた原理論を書いていただけると『俳句文学』に大きく寄与することになると思います。僕はそれが俳句に対する本当の愛だと思うのですが。