金魚さん(齋藤都代表)の総評『現代詩手帖とは』をアップしました。金魚屋の協力スタッフには詩人、俳人さんたちがいらっしゃるのですが、彼らに詩壇・俳壇のことを聞いても正直よくわからんですぅ。詩集、句集、歌集はその大半が自費出版だそうです。自費でなくても著者の買い取りなどで、限りなく自費出版に近い形態もあるそうです。じゃあ出版社が企画出版している詩集が文句なく優れているのかといえば、「そうともいえないな~」というのが彼らの共通した回答でした。
「別に今に始まったことじゃないけど、名詩集ってそのほとんどが自費出版なんだよ」
「たとえば?」
「萩原朔太郎『青猫』、中原中也『山羊の歌』、宮沢賢治『春と修羅』、石川啄木『一握の砂』、数えればきりがないな」
「現代でもそうですか?」
「まあそうだね。詩の伝統みたいになっちゃってるね」
それじゃあ「どうやって作品の評価が決まるんですか?」とお聞きしたら、「10年、20年、あるいは30年くらい経ったらおのずと評価は定まっていくだろうなぁ。リアルタイムで評価が決まるってことは、まずないね」ということでした。こりは難しい。彼らが「詩壇には短期の状況なんてないんだよ」と言ってる意味がわかるような気がします。30年後にはっきりする作品評価は本質的なものかもしれませんが、それぢゃあジャーナリズムは作りようがありませんねぇ。
でも僕は気短なところがありますから、「それってすんごくモヤモヤしててイヤですぅ」と言ったら、「本質的問題だけ考えていればいいのよ」という回答が戻ってまひりました。彼らによれば、数十年たたなければ評価が決まらないような文学ジャンルでは、その期間内に存在するジャンル固有の問題もあまり変わらない。だから根本的な問題だけを考えて創作活動を続けていても、状況から取り残されることはないのだといふことでした。あ~そういふ文学への取り組み方もあるのねぇ。文学原理主義は金魚屋の基本思想ですから、詩人さんたちの態度は金魚屋向けではありますけど。
そんで今日でGWも終わりです。悲しいですぅ。明日からまた仕事なので今日はお酒を控えめにしなければならんですぅ。石川はけっきょくGW中にはどこにもお出かけせず、おうちでず~っとお酒を飲んでテレビを見ていました。僕は単なる酒飲みですが、お酒自体が好きで、あんまり飲みに行く必要を感じないってところが少しだけ変わっているのかもしれませんねぇ。