池田浩さんの『J-novel 2012年5月号』の時評をアップしましたぁ。『北区内田康夫ミステリー文学賞』って賞があったんですね。勉強不足で知りませんでした。すいません~。でもこういう賞っていいかもしれない。まさか内田さんが全応募作品を読んでるわけじゃないでしょうが、他の賞よりも一人の作家の意向が強く反映される賞なんでしょうね。賞の選評も読んでないですが、内田さんに詳細に解読してもらえるのなら、それだけで嬉しいかもしれないですぅ。
作品が賞を受賞するのはすんごくおめでたいことですが、賞は微妙なものでもありますよねぇ。優れた作品に賞が贈られるというのが前提というか建前なわけですが、どの作品のなにが優れているのか、誰にもよくわからん状況になってますから、作品の文学的な価値はさておいて、賞はそれによって作品が話題になり、作家は原稿注文が増え、出版社は売上が伸びるという、現世的幸福を追求するためのシステムになっているという面があるのも確かであります。
特に純文学の世界ではその傾向が強いですねぇ。芥川賞などは、3回に2回くらいは『文學界』系の私小説作家さんが受賞されるわけですが、彼らはプロットのある長篇小説の書き方をマスターしていない。内田さんとは正反対のところにいる作家さんたちなわけです。これではまあ、はっきりいっていつまでたっても売れる作品は書けない。勢い芥川賞受賞の時が、多くの作家の社会的ピークになってしまう。じゃあ彼らが守り続ける私小説=純文学に迫力があるのかといえば、そ~でもないというのが正直な感想です。純文学的私小説って、よく似た作品が多いんです。構造的には大衆小説がどれも似通っているのと大差ありません。
そろそろ純文学=私小説っていう枠組みを外してしまった方がいいんぢゃないかなぁ。日本名作全集とか世界名作全集を読んでいると、プロット的にも面白い作品が多いですぅ。僕は小説って現世を描くもので、原則は俗な世界を描く俗な表現だと思うんですよ。ほらよくある種の小説を『詩的だね』って言うでしょう。それは小説が基盤としている俗な世界を、その作品が離れようとしていること、つまり詩に代表されるような、聖なる観念の方に向いているからそういう感覚が生まれるんぢゃないかと思うんです。僕個人の好みでは、詩的な小説より思いっきり俗な作品の方が好きですけども。
で、今日から4連休だ。わ~い。石川はもう飲み始めております。この4日間はきがねなく飲めますなぁ。あ、原稿は少しずつ集まってきております。金魚屋著者の皆様、えらいなぁ。僕は皆さんの原稿があるていどたまったらちゃんと仕事しますのでど~ぞご心配なくっ!。