文学金魚のお父さん、谷輪洋一さんの『すばる 2012年5月号』の時評をアップしましたぁ。文学金魚で文芸誌の時評をやるようになってから、僕もまた文芸誌を読むようになってます。感想は、「ん~」です(笑)。谷輪さんが、今回、僕ら音楽好きにとっては神様の、吉田秀和さんについてだけ書いておられるのはわかる気がします。吉田さんのエセーのタイトルは「インテルメッツォ」、「間奏曲」ですね。なにかが中断してしまっているように感じます。「主となる奏者が休止している」ような感じです。
なんかすんごい素朴な文学好きの感想なんですが、1980年代から90年代前半くらいまでは、文芸誌のページをめくっていて手が止まることがあったんですよぉ。なんていうのかなぁ、ページから文字が浮き立ってきて、読めって命じられているような感じ。そういう作品って、やっぱり読んでよかったなぁって思うものだったんですね。それがね、手が止まらなくなった。だから頭っから読んでいくわけです。文芸誌って、特集以外は巻頭に置かれた作品がその号のイチオシですから。で、「ん~」と思うのよ。あ~説明しずらい(笑)。
なんなんだろう、わかんなくなってるんですね。何がどうしていい作品だといえるのか、まぢで誰か教えてほしいと思うのであります。作家さんが悪戦苦闘しているのはわかります。雑誌も必死です。でも出口が見えない感じ。それどころか文学は、それぞれのジャンルだけの問題に、それぞれの雑誌固有のカルチャーに、とじこもろうとしているような気配さえ感じます。みんな走り続けているんですが、どこに向かってるのか誰もわからない。その状態が長く続いているので、走り続けること自体が目的になってる感じがします。
僕が魔法の解決方法を持っているってわけじゃないんですが、正直これでは活路を見出すのは厳しいよなって感じます。少なくとも足掻くんなら、もっとはちゃめちゃやった方がまだ光明が見えるんじゃないかなぁ。これも正直なところ、純文学系文芸雑誌の表紙を見るだけでうんざりすることが多いですぅ。今の「間奏曲」のような状態を抜け出すには、とびっきり優秀で魅力的な作家さんが彗星のようにあらわれるか、地道な研究者のように「もいっかい最初から考え直そう」と腰をすえるか、どちらかの道しかないんでしょうね。天才の出現を待つなんて、宝くじに当たるようなものかもしれませんが。
さて、4月もあと1日です。金魚屋の著者の皆様、GWは家に閉じこもって原稿を書くのぢゃぞ。石川は飲んだくれてメールの到着をお待ちしておりますですぅ。