今日はりょんさんの『詩とファンタジー 2012年 冬晶号』の時評をアップしましたぁ。りょんさん、口は悪いですが、すんごい可愛いイラストを描くイラストレーターです。文学金魚にもイラスト書いてくださいよ~とお願いしたら、「本業の仕事は高いぜ」と言ってジロッと睨まれました。それ以来、イラストの話は怖くてしてませんですぅ。
『詩とファンタジー』は、巻末の応募券を貼らなければならないですが、読者投稿に力を入れている雑誌なんですねぇ。それが詩に合ったイラストと一緒に見開きで掲載される。それって確かに投稿者には嬉しいかもしれない。雑誌全体が一種の詩画集なんだろうなぁ。今度本屋に行ったら手に取ってみようと思います。
僕は現代詩ってやつが不得意なんですが、金魚屋スタッフには詩人の方が多いので、会議の時に「現代詩ってどうやって読めばいいんですか?」ときいてみました。
「普通の文章と基本的に変わらないです。意味内容に基づく展開か、イメージに基づく言葉の展開になってるはず。難しいはずだと思わずに素直に読めば、だいたいのことはわかるよ」
んんんそうだったのか。で詩誌を手に取って早速読んでみました。確かに意味とイメージのブレーンストーミングといえばそうですね。でもやっぱり作者が何が言いたいのかわからない。「表の意味はわかるんですが、裏の意味があるように思うんですが?」「ない、そんなもん。裏の意味があるように感じられる詩は、下手だと思っていい」ですって。詩人軍団、参考になるアドバイスをくださるけど、乱暴だな~。
で、りょんさんの「投稿子は投稿欄の中で上昇し、そのトップを極めなくては本欄という次の段階を踏めない、という錯覚に陥る」という指摘、確かにそうだと思います。別に詩に限らないです。どうしてこの作品が掲載されているのだろうと考えてしまう小説が、文芸誌にはたくさん掲載されています。「錯覚」は投稿者が抱くものだけど、雑誌編集部から見れば暗黙のルールがあるってことでしょうね。それを飲み込めば投稿(応募)者は作品を掲載してもらえるわけです。
でも雑誌に載るだけで力尽きてしまう作家って、多いように感じます。いや、力尽きてもいいんですよ。雑誌掲載でご飯が食べられるっていう保証が得られるなら。だけど今はますますそうじゃなくなっています。その意味では『詩とファンタジー』、すっきりした雑誌かもしれない。投稿者は応募券を貼って投稿する。投稿された作品は手をかけて掲載される。このシステムを採用する文芸誌が現れたら面白いだろうなぁ。少なくとも新人賞応募件数の売上は伸びまっせ。