池田浩さんの『早稲田文学 第4号』の時評をアップしました。池田さんの文芸誌時評は『三田文學』に続いて2誌目です。池田さん、お疲れ様です。でも頑張ってどんどん書いちょうだいな。金魚屋は池田さんを応援しています。あ、逆か。
そんで『早稲田文学』は東日本大震災関連の特集のようです。池田さんによると、1960年代実存主義時代のサルトル-大江健三郎さんの、「飢えた子供の前で文学は可能か」という命題が巻頭に掲げられているそうです。池田さんは「餓えた子供の前で、文学が可能かどうか考えようとすること自体、どうかしてるんじゃないか」と書いておられますが、わたくしも池田さんに賛成ですぅ。
僕がサルトルを知った時には実存主義ブームはとうに終わっていたのですが、戦前の代表作『嘔吐』(1938年)を読むと、彼が無神論的虚無主義者だったことがはっきりわかります。キリスト教世界においては呪われた思想家です。しかし第二次世界大戦の惨劇と混乱という激動の時代が、不幸な虚無主義者であったサルトルに、「アンガージュマン」(社会参加)という救いを与えたように思います。「飢えた子供の前で文学は可能か」というサルトルのテーゼはアンビバレントなものです。第一次世界大戦の悲惨とヨーロッパの没落を経験したサルトルにとって、自分の仕事である文学は最初から役立たずです。でも目前の悲惨な現実が人を急き立てる時、文学を超えた行動が必要になるということではないでしょうか。
吉本隆明さんは「生死の境を見ない思想は無駄だ」と言いましたが、これにも賛成です。「飢えた子供の前で文学は可能か」という命題は、誰がそう言うのかが問題なのであって、テーゼそのものを一人歩きさせても空しいと思います。サルトルのように地獄を見た人がそう言うのなら、多くの人々がその発言に耳を傾けるということではないでしょうか。確信的思想を持つ人の発言なら、それでも文学を書くという帰結でも、文学を捨てて社会活動を行うという結論でも、僕たちは納得すると思います。
それにしても、震災特集、考えさせられますね。僕が文芸誌の編集者だったらどうしただろう。特集で10部でも20部でも売上が伸びるなら、きっとやるだろうな。でもどうせたいした原稿は集まらないと見切っていると思う。非常に僭越な言い方だと思いますが、この企画に乗っかる著者をどこかで軽く見るような感覚が生じるんじゃないかと思います。
最近、出版社の社員編集者がテレビのコメンテータになっているのを見かけます。出版社としては、それで売上が伸びるならやってみ、ということなのでしょう。でもどこかで編集者と著者の逆転現象が起きているのではないでしょうか。文芸誌の震災特集ではそれを感じます。作家は真剣に取り組むでしょうが、編集者はあまり期待していないだろうな。
作家は表現者として自己の孤塁を守らなければならない。しかし編集者は0.1ミクロンの耳学問的な知識で世界全体を見渡せる認識を持っている。あるいはそうだと錯覚している。僕は編集者なので同業者の勘違いに対しては特にコメントはありません。問題は作家の方です。孤塁を守らざるを得ないなら、それを掘り下げ、地球を突き抜けて反対側に飛び出すくらいの覚悟と努力が必要なのではないでしょうか。