ようやく少し暖かくなってきましたね。でも気温が上がると同時に花粉がっ!。僕も典型的な杉花粉症です。毎年春になると鼻水が垂れ、喉が痛くなり、目がしょぼしょぼしてまいります。そんで5月のGWあたりになると、花粉症疲れでぐったりしてしまふのですね(笑)。今年は春が遅かったぶん、花粉がいっきに舞い上がった感じで手強そうだぁ。
さて今日は才媛の長岡しおりさん登場であります。長岡さんには今のところ、『すばる』と『小説新潮』を担当していただいています。純文学ではなく、読みのもふうの小説を掲載する2誌です。あ、長岡さんファンの方は、「Latest Entries」なんかに表示されるお名前をクリックしてくださいね。長岡さんがお書きになった全コンテンツが表示されます(ほかの方も同様です)。なかなか便利な機能であります。
で、ものぐさな僕は、もちろん今回長岡さんが時評されている『すばる』を読んでいないし、過去に手にとったこともほとんどないんですが、写真図版の目次を見て、「こりゃきついわなぁ」と正直なところ思ってしまひました。失礼千万ですが、著者名とタイトルを読むだけで、中身がある程度推測できてしまふ。でもほかに駒がないんでしょうね。文芸誌は耐える時期なんでしょ~な~。
でも長岡さんが取り上げておられる伊藤比呂美さんは面白い方だと思います。彼女の『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』(新潮文庫)は新鮮だったなぁ。小説として刊行されていますが、彼女は詩人でもありますから、別に詩として発表されててもいいじゃんと思ってしまひました。『すばる』の対談で伊藤さんは、仏教や死について話しておられるようです。伊藤さんは震災などでそのお考えや感性が変わる方ではないから、震災後の精神風土がどこか伊藤さん的な文学に近づいてきたってことでしょうね。
それにしても長岡さんの時評はちょい厳しい。さすが谷輪洋一さんのご紹介の方だけのことはあります(笑)。ただ批評は常に必要だと思います。文壇的で文壇内を向いた批評ではなく、文壇というものを外から批評する視線が必要とされているのではないでしょうか。もう誰も文学者を特権的な知と感性を持った人とは考えていない。小説文学の根本が問い直されるべき時期にさしかかっていると思うのであります。
ふんで昨日文学金魚では全部情報公開しますと書きましたが、すぐに金魚さん(齋藤都代表)からメールが来ました。内容を簡単にまとめますと、「余計なこと書くんじゃねー、露津まりいさんの『贋物師見習い』なんかは、ミステリーだから、どう公開していくか、今検討中ぢゃ」ってことです(笑)。
おおっ、そうだった。こりゃまた失礼しました。会議の内容を全部頭に入れておくのって難しいのよねん。文学金魚は毎日更新の文芸ジャーナリズム状況誌って性格もありますから、情報公開はジャーナリズム的な言説に限るってことで、当面ご理解をお願いしますですぅ。