『はなのの絵本 りょうの空』は林桂氏の第五句集である。句集の表題になっている稜(りょう)と花野(はなの)は林氏のお子さんの名前である。句集は『りょうの空』『はなのの絵本』『父の旅』の三部から構成されている。子供の誕生を契機に作品が書き始められたわけだが、俳句による子育て日記ではない。林氏は句集の意図を次のように説明している。
一読してお分かりいただけるように、子育ての中から発想を得て書き続けたものである。しかし、その日常を描いたものではない。多行形式は、そうした発想を違った世界に結実させる方法として有効だった。自ら楽しんでいるところがあるとすれば、意外なところに多行形式を発見した喜びだったのかもしれない。
(『はなのの絵本 りょうの空』『あとがき』より)
林氏は『はなのの絵本 りょうの空』は、子育ての実体験(日常)を別次元の言語世界に昇華した句集だと定義している。そして別次元の言語世界とは、本質的には新たな多行形式の試行を指す。氏はこの句集の試みで、『意外なところに多行形式を発見した喜び』があったと書いておられる。
簡単に説明しておくと、多行形式では自由詩のように行を切って俳句を表記する。この試みを初めて意識的に行ったのは高柳重信であり、林氏は重信の弟子にあたる。ただ多行の実践者は俳句の世界では決して多くない。むしろ重信の死後、実作者は徐々に減っている。林氏はその可能性を探究し続けている俳句作家の一人である。
臼餅(うすもち)の
ごとき
赤子(あかご)の
抱(だ)きどころ
(『りょうの空』『稜誕生』)
ほっぺた大尽(だいじん)
手餅(てもち)に
眠(ねむ)くなり
候(そうろう)
(『はなのの絵本』『花野誕生』)
二人の子供の誕生を寿ぐ作品である。いずれも『餅』がキーワードである。意味的に読めば、『臼餅の』では軽く柔らかい赤ん坊を抱いたときの感覚が表現されている。『ほっぺた大尽』は、ふくふくとしたほっぺたを餅をこねるように触っているうちに、赤ん坊が眠ってしまったことを詠んでいるのだろう。ただ形式を検討すればまた別の読解が可能だと思う。
作品は四行で表記されている。十七文字の俳句定型に即せば、『臼餅の/ごとき赤子の/抱きどころ』で五七五になるが、多行でなければ『ごとき』で切ることはまずないだろう。同じく十七文字定型に即せば『ほっぺた大尽/手餅に眠く/なり候』は破調で八七六である。多行でも『臼餅の』は俳句定型(十七文字)を守っているが、『ほっぺた大尽』はそれを逸脱している。つまりこの二作品は質の異なる俳句の試みである。
四行で行を切る俳句は重信が試行錯誤の末に編み出した形式で、林氏はそれを踏襲している。俳句を十七文字とすれば、多行形式は原理的には二行から十七行まで可能である。しかし重信以降の多行俳句では四行が一つの指標になっている。安井浩司は『なぜ四行なのかというのは、長いこと俳句を書いているとわかるんです』(『安井浩司「俳句と書」展』インタビュー)と語ったが、それは俳句の生理に即した形式である。
俳句は五/七/五で切れるのが原則である。そのため多くの俳人が色紙などに揮毫する際に三行に分けて作品を墨書する。意図的な多行ではないが、形式ではないと言うことはできない。単純化して言えば、俳句では五/七/五の言語ブロックで世界を表現する。三つの言語ブロックで世界を分節して表現するのである。従って三分節以外の多行形式は、俳句の王道的世界分節方法を拒否してその可能性を拡げようとする試みである。
ただ二行に分けても多行(新たな世界分節)の意図は伝わりにくい。五行にすると短歌の分節方法を意識せざるを得ず、六行以上だと一行が二、三文字になって表現に支障をきたす。四行が多行俳句の指標となったのは、ギリギリのところで俳句形式に留まりつつ、かつ俳句に揺さぶりをかけることができる形式だからである。四行は俳句王道の世界分節方法を崩すには必要充分な行数であり、かつ三言語ブロックよりも遙かに多様な意味・イメージ・音韻分節が可能なのである。
飛行機公園(ひこうきこうえん)に
翔(と)ばざる
日々(ひび)を
柴(しば)の山(やま)
(『りょうの空』『稜の空』)
空(むな)し
虚(むな)しの
腹(はら)に仕(つか)えて
一生(ひとよ)かな
(『はなのの絵本』『花野の絵本』)
猿(さる)の竿(さお)
引(ひ)く蛸(たこ)
蛸(たこ)引(ひ)く
脚(あし)の蛸(たこ)
(『はなのの絵本』『花野の絵本』)
引用一句目は第一行目の『飛行機公園に』が文字数的に一番長く、かつ作品全体を規定している。『飛行機』があるから子供と過ごした『翔ばざる/日々』が導き出され、かつそれが『公園』の『柴の山』のイメージに定着されるのである。二句目は第一、二行目が軽く、そのため第三、四行目で作品主題が表現されている。三句目は四行全てが三文字であり、かつ『さ/ひ/こ』音の韻が多用されている。そのためどの行にも意味・イメージの軽重のないノンセンスなライトヴァースになっている。様々な俳句表現方法が試行されているのである。
俳句は五七五に季語を含む形式だと定義する多くの伝統俳人は、これらの作品を俳句とは認めないだろう。ただ五七五プラス季語は絶対ではない。俳句文学は日本独自の世界分節(認識)表現だが、形式の奥に〝俳句原像〟を有している。二音から三音の単語が多く、一文字の助詞が多い日本語の特性に即せば五七五が日本的世界分節に最も適した形式だと言える。しかし無季無韻でも俳句は成立する。問題はこの〝俳句原像〟をどこまで可変と捉え、形式的自由を許容するかにある。
以心(いしん)
牛丼(ぎゅうどん)
替芯(かえしん)つんつん
春彼岸(はるひがん)
(『はなのの絵本』『花野の歌』)
しんしんと
薄(すすき)
つんつん
風(かぜ)の夢(ゆめ)
(『はなのの絵本』『花野の散歩』)
両句とも『ん』音を多用したノンセンス・ライトヴァースである。『はなのの絵本 りょうの空』では、これらの踏韻やオノマトペ(擬音)を援用した作品が最も優れているのではないかと思う。多行俳句は俳句文学に適した五七五定型をあえて逸脱する試みである。伝統俳句と比較すれば異端であり、前衛的試みにならざるを得ない。そのため多行俳句作家であるためには強靱な表現者の意志(覚悟)が必要になる。しかしこれらの作品には作家の強い意志(述志)がまったく認められないのである。
最初の句は花野ちゃんの日常描写かもしれない。『牛丼』食べたいと思うとそれがママに伝わり(『以心』)、シャープペンシルの『替芯』を『つんつん』しながらお遊び(あるいは勉強)している『春彼岸』の一日を歌った作品と読める。次の句はタイポグラフィで花野ちゃんの『散歩』を表現している。『しんしん』は『薄』に掛かっているが、『つんつん』は『薄』と『風』の両方に掛かるのだろう。薄の穂が尖り、冷たい風の中を歩く、『夢』のような子供時代のひとときを捉えた作品である。
これらの句には作家がどうしても読者に伝達したい〝意味〟がない。言葉(単語)が喚起する意味やイメージを素直に受け取り、韻や擬音を楽しめば良い。特定の意味に収斂しないという点で、作品は最も伝統的な俳句の表現に近接している。新たな俳句形式を創出しながら、従来とは異なる方向から〝俳句原像〟に迫っているのである。
ただ言うまでもなく、これらが新たな〝俳句形式〟として定着するかどうかは別問題である。作家自身が『あとがき』で『意外なところに多行形式を発見した喜び』があったと語ったように、この形式は子供を題材にした一度限りの作品集でしか援用できないかもしれない。しかしここには前衛俳句=多行俳句の成熟がある。俳句では馴染み深い〝無〟が表現されているが、その質が伝統俳句とは異なるのである。
鶴山裕司
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