
人間の行動範囲は案外狭いものだ。必然的にそこで経験する事柄も限られてくる。突拍子もない事件などめったに起こらないし、たいていの人は起こってくれては困ると考えている。実生活は平穏無事がいいに決まっている。しかし小説の世界なら安心だ。あらゆることが起こり得るし体験できる。小説の魅力は見ず知らずの主人公が、自分とはぜんぜん違う生活をしている登場人物たちが現れ、いつしかその世界に引き込まれて泣いたり笑ったりすることにある。物語の力である。
しかし〝純文学小説〟となると話しが違ってくる。〝純文学小説とは何か?〟の定義は人それぞれだろう。というか誰も定義できていないのではなかろうか。漢字の文字面を文字通り解釈すれば、純文学小説とは〝文学における最も純粋な何かが表現されている小説〟ということになる。すると次は〝文学における最も純粋な何かとは何か?〟という問いが続くはずだ。これを観念的に捉えてしまったのでは混乱するだけだろう。どうすればいいのか。現実に即してとりあえずの着地点を探るしかないように思う。
日本では芥川賞受賞作が純文学小説を代表していると言っていい。芥川賞は純文学小説に与えられる賞で直木賞は大衆文学の賞だという漠然としたコンセンサスが成立している。また芥川・直木賞は日本で一番有名な小説賞だからその影響力も大きい。直木賞受賞作はたいてい面白い。少なくとも読んだ人の六〇パーセント近くは楽しめる小説だから、ああ大衆向けの文学だなと納得できる。しかし芥川賞はよくわからない。さまざまなタイプの小説が受賞する。たいていの芥川賞作家はいわゆる文芸五誌の新人賞を受賞して、何度か芥川賞候補に挙がってから受賞する。が、ヒット作が出ないと芸能人の第一作目にいきなり賞を与えたりする。案外定見がないとしか言いようがなく、純文学とは何かというポイントを絞りにくい。
素朴読書体験から言うと、最低でも芥川賞受賞作の三分の二はつまらない。つまらないどころか読むのが苦痛だ。極端な言い方をするとこれは禅の修行ですかと言いたくなるほど読むのが苦痛である。茫漠とした風景描写にこれまた茫漠とした主人公の心理描写が延々と続く。印刷された文字の並び(形)を見ただけで純文学だなとわかってしまうパターン化がある。会話で主人公と主要登場人物が激しく対立することもまれだ。読者を意外な場所に連れて行ってくれる物語展開が希薄なのだ。しかし僕を含めて善良な読者はそれを読み通すことが〝純文学〟を感受することだと刷り込まれている面がある。
芥川賞受賞作がつまらない理由は乱暴に言えば二つある。一つは私小説の引き延ばしの弊害である。日本の純文学が何かと言えば、それに最もよく当てはまるのは〝私小説〟である。日本にしかない小説形態だからである。制度的にも当てはまる。私小説とは何かと言えば、私が主人公で私の行動、感情、思念しか描かれておらず、肥大化した私の自我意識の中で私と同じくらい身勝手な他者とぶつかり合う小説のことである。極度に作家の自我意識を濃縮しなければ優れた私小説にはならなず、必然的に私小説は短編になる。
この私小説が日本の純文学のコアに当たる理由は日本文化には救済がないからである。能や浄瑠璃といった古典芸能と同じである。成仏や心中はいっときの救済に過ぎず主人公はこの世の煉獄を永遠に彷徨う。正確にはこの世の究極の苦しみの最中に救済とも言えないような静謐な悟りのような境地に達する。大正時代に現れた葛西善造や広津和郎、嘉村礒多、田中英光、藤澤清造らがその代表である。現代では藤沢の没後弟子を称した西村賢太を最も優れた現代私小説作家として挙げることができる。
菊池寛が芥川賞を創設した際に念頭にあったのは晩期芥川龍之介の私小説である。芥川の『或阿呆の一生』や『歯車』などが私小説を代表する作品かどうかは議論があるだろうが短編だった。葛西善造から西村賢太に至る系譜も短編作家の系譜である。特に西村は〝私小説とは何か?〟をほぼ完全に理解していた。私小説作家はおしなべて佳作だが西村はありえないほど大量の私小説短編を書き残した。余計なことを言えば小説界はツイていない。晩年に〝物語の復権〟を提唱した中上健次も私小説を知り尽くしていた西村賢太も夭折してしまった。文学の世界は作家次第だ。彼らが長命なら今と将来の日本文学は変わっていたかもしれない。
本筋に戻ると短編にならざるを得ない私小説を、ほとんど定型長編にまで引き延ばした最初の作家は志賀直哉だろう。
疲れ切ってはいるが、それが不思議な陶酔感となって彼に感ぜられた。彼は自分の精神も肉体も、今、この大きな自然の中に溶込んで行くのを感じた。その自然というのは芥子粒程に小さい彼を無限の大きさで包んでいる気体のような眼に感ぜられないものであるが、その中に溶けて行く、――それに還元される感じが言葉に表現出来ない程の快さであった。(中略)大きな自然に溶込むこの感じは彼にとって必ずしも初めての経験ではないが、この陶酔感は初めての経験であった。これまでの場合では溶込むというよりも、それに吸込まれる感じで、或る快感はあっても、同時にそれに抵抗しようとする意志も自然に起るような性質もあるものだった。しかも抵抗し難い感じから不安をも感ずるのであったが、今のは全くそれとは別だった。彼にはそれに抵抗しようとする気持は全くなかった、そしてなるがままに溶込んで行く快感だけが、何の不安もなく感ぜられるのであった。
(志賀直哉『暗夜行路』大正十年[一九二一年]~昭和十二年[三七年])
『暗夜行路』は私小説の傑作と言われるがその理由はどこにあるのだろう。主人公謙作は祖父と母の不義の子として生まれその傷を乗り越えて結婚した。が、妻がいとこと過ちを犯したことで新たな苦悩を抱える。『暗夜行路』のクライマックスは大山登山で経験した不思議な「快感」によって謙作が癒され妻の不貞を許すシーンである。大いなる自然が彼の心の傷を癒した。このクライマックスは正確に短歌から俳句へと受け継がれた純日本的な循環的かつ調和的世界観に沿っている。冬の後には春が来る、明けない夜はないといった春夏秋冬の季節の循環性になぞらえられる日本文化の根深い世界秩序思想である。直哉はそれを初めて小説で表現した。この世の煉獄を描く能や浄瑠璃と対立しながらそれと平行して古代から存在する日本的救済思想である。
『暗夜行路』の執筆の苦しみ(完結まで十七年もかかっている)からわかるように、直哉はすがりつくように純日本的な循環的かつ調和的世界観を見出した。だから『暗夜行路』は迫力がある。しかし見方を変えれば短歌に根源を持つ(春夏秋冬の部立を初めて設けたのは『古今和歌集』でありそれが俳句の部立になった)日本的世界観の援用である。ただこれは煉獄的私小説が初めて見出した〝救済〟には違いない。ほとんどの小説家は善人なのだ。以後、日本の長篇私小説と呼ばれる作品のクライマックスはまず例外なく『暗夜行路』のクライマックスをなぞっている。子どもが生まれる、すがすがしい朝の光景に初めて気づいたように心打たれる、雨があがって青空が見える、朝になる、生命力に溢れた緑の若葉に目を奪われるetc.でありほぼ例外はない。
単行本になる小説枚数はおおむね一五〇枚くらいからである。芥川賞の歴史を辿ればすぐにわかるが初期は短編が多かった。いわば純私小説的枚数の短編作品が数多く受賞していた。それがいつの頃からか受賞作一作をすぐに単行本化するという商業目的で長くなっていった。意地悪な言い方をしているように思われるかもしれないが事実である。それにつれ、私小説的な茫漠とした心理描写にストーリーとも言えないような茫漠とした物語展開を設定し、最後は『暗夜行路』的循環・調和的世界観で締めくくる小説が増えていった。たいていの現代私小説が読むのが苦痛である割にはクライマックスでなーんだ、このテのオチかと拍子抜けするのはそのせいである。
ただ小説を読むのは時間がかかる。一五〇枚の小説を読み終えるには普通二時間くらいかかるだろう。人間は自分がかけた労力をムダだと思いたくない動物だ。だからタメになったと信じようとする。芥川賞を受賞した優れた小説――パブリックイメージとしての純文学小説――のはずなんだけどよくわからない、よい作品だと思えないのはきっと自分が悪いのだと思い込んでしまうのだ。これも意地悪なようだが衰弱した私小説風小説が純文学として生きのびている理由である。
芥川賞受賞作がつまらない二つ目の理由は〝前衛〟である。江戸期までの小説を読めばすぐにわかるがそのストーリーは九十九パーセント勧善懲悪であり、例の循環的かつ調和的世界観である。このパターン化された小説の中から異和を探るのが江戸小説を読む醍醐味だがそれについては省く。明治維新後も小説は続いたがここで一本の断絶線が引かれ小説はいわゆる欧米化した。言文一致体、写実主義、リアリズム小説など国語の教科書で習ったような小説の近・現代化が進んだ。欧米小説のように神の位相に作家主体をなぞらえる三人称一視点小説が生まれたわけだが、これがほぼ完全に機能しているのはエンタメ系大衆小説だけだと言っていい。純文学小説はベタリとしたアメーバー状の構造で、作家(主人公)の自我意識が平面を横に横に広がって、狭い自我意識の中で数少ない他者と対立するのが普通である。これが日本の純文学小説の逃れ難い構造的特徴である。
ただ一方で欧米的前衛文学の影響が小説にも及んだ。小説の根幹である物語――優れた私小説はもちろん衰弱した私小説にも主人公はいて最低限の物語はある――をあの手この手で破壊し、まったく新たな小説形態を生み出そうという試みである。ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』やヌーボーロマン、ピンチョン、バーセルミなどの海外前衛小説の影響だと言っていいだろう。では日本の前衛小説で成功作はあるのか。ほぼ存在しないと断言していいと思う。高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』は優れた前衛小説だったがその後の『日本文学盛衰史』などを読めば、彼の小説テーマがいわゆる〝小説における父性の喪失〟にあるのは明らかだ。高度情報化社会の始まりと戦後文学の終焉が重なる時期に現れた作家だがそのテーマは日本文学(小説)の文脈を踏まえていた。
日本文学(小説)の文脈を踏まえない欧米直輸入の日本の前衛小説には無理がある。日本文学で前衛をアイデンティティにしているのは自由詩である。自由詩の作品を追ってゆけば象徴主義や超現実主義など各時代の欧米前衛文学を強引に吸収して日本文学に定着させていることがわかるだろう。自由詩が短歌・俳句と最も違う点は日常言語を使って日常言語以上の表現や内容を生み出そうとすることにある。悲しい嬉しいでは足りない。その究極をなんとしても言語化しようとする。そのため使われている言葉は普段使っている日常言語なのに、全体としては極めて意味を理解しにくいいわゆる〝現代詩〟が生まれた。
しかし小説で現代詩的表現を生み出すのは難しい、というより不可能だ。なぜか。長いからである。詩に比べ短編小説でも圧倒的に文字数が多い。長ければ曖昧な小説的物語断片や心情告白断片の混ぜ物を使うしかなく、現代詩風でありながらどんなに読解しても絶対に意味が通らない単に奇矯な表現が増えてしまう。現代詩を含む優れた、ということは日常言語を使って日常言語を超えようとする極端な言語実験的詩作品を読み慣れた者には日本の前衛小説は児戯に写る。せいぜい入沢康夫の『ランゲルハンス氏の島』を衰弱させたような擬物語になるのが精一杯だ。カフカのように主題が明確な作家なら短編でも前衛小説は書けるはずだが、日本の前衛小説はコンセプトはあるが中身のない一球入魂の長編駄作が多い。
かなり好き勝手なことを書いて来たが、何を言おうとしているのかと言うと、小説の揺るぎない根幹は〝物語〟だということである。なるほど演劇やドラマ、映画にも起承転結の物語はある。それと小説の物語の何が違うのかと言えば心理描写である。視覚・映像表現では絶対に表現できない人間心理の機微が表現されていなければ優れた小説にはならない。スリリングな物語展開と極度に緊張感のある心理描写が優れた純文学小説を生む。その要件を満たしていれば小説の長さは問題にならない。短編でも長編でも優れた純文学小説は生まれ得る。前衛小説もまた然りである。長さや小説内ジャンルの問題ではない。
これは私見だが日本の純文学小説は制度的に硬直・疲弊し、ほぼ限界に達しているように思う。日本の文化の特徴を侘び寂びと呼んで平然としているように、日本の純文学小説についても誰も定見を持っていない。持とうともしない。そして今、小説を含む文学全般が大きな危機に瀕している。ゲームやマンガ、YouTubeなど手軽で楽しいコンテンツが溢れるほどある社会で小説を読ませるのは至難の業になりつつある。
あまりこんなことは言いたくないが、詩や小説を含む文字コンテンツは将来さらに苦しい道筋を辿るだろう。たまさかヒット作が生まれても戦後から一九八〇年代初頭くらいまでのように、ちょっとした作家でも小説で食べてゆける時代は永遠に来ないと思う。大衆作家でもよほど力がなければ難しいのではないか。ただだからこそ小説の原理を踏まえる必要がある。人間存在の根幹を成すのは言語である。文学以外の絵画・科学・経済・政治などあらゆるジャンルで人間存在の無限の可能性を生み出すのは言語だ。言語表現の根幹を成す純抽象表現としての文学の特徴と可能性をハッキリつかみ、貫かないと文学の将来はますます厳しくなるだろう。
単純なことを言えば傑作と呼ばれる小説で読んでいてつまらない作品は少ない。傑作はほぼすべて面白いと言っていいくらいだ。安部公房『砂の女』のような前衛小説もそうだ。面白くないのが純文学だという思い込みは間違っている。優れた小説ではないだけのことだ。物語とハッとするような心理描写で読者を遠い世界に、未知の世界に連れて行ってくれるのが優れた純文学小説である。制度的な純文学と大衆文学の区分は――曖昧であろうと――少なくとも作家は度外視した方がよい。そうでなければ制度的疲弊と一緒に泥船に乗って沈んでゆくことになる。
詩、特に形式・内容両面でまったく完全に制約がない自由詩に比べると小説は手堅い形式を持っている。しかし多くの小説家志望の作家がなぜか小説は自由な表現だと思い込んでいる。一部のプロ作家もそうだ。音楽家や画家を目指す創作者は先生についてテクニックを習い、独学でも一所懸命練習して先行する優れた表現を真似ることから始める。それに対し、詩や小説ではなぜか徒手空拳でも優れた作品が書けると思い込んでいる者が多い。それは幻想だ。あり得ない。特に小説はほとんど自由が利かない堅牢な表現形式である。絶対的執筆ルールがいくつもある。それを踏まえなければ前衛表現など夢のまた夢である。
これまで僕は大篠夏彦のペンネームで純文学小説批評を、佐藤知恵子名義で大衆小説批評を連載してきたがそれを一本化する。純文学と大衆文学の漠然としているが厳然としてある区分に従ってしまうことになるからだ。この連載では制度的純文学小説――いわゆる純文学五誌―文學界、新潮、群像、すばる、文藝に掲載された小説――も小説現代などの大衆文学誌に掲載された小説も取り上げる。目的は優れた小説とは何かを探ることにある。それを純文学と呼ぼうと大衆文学と呼ぼうとどうでもいいことである。大衆作家と思われている松本清張や有吉佐和子、江國香織らの最良の作品は間違いなく純文学である。
同じ文学者でも詩人たちが尊敬し時にかなわないなと怖れる小説家は前衛作家ではなく物語作家である。優れた小説であれば必ず読者の心をつかむことができる。それを多くの作家と共有し、新たな視点で読者を惹きつける努力をしなければ小説の復権は望めないと思う。
鶴山裕司
*『鶴山裕司の小説について考える文芸誌時評』は不定期連載です。
鶴山裕司の短歌・俳句について考える歌誌・句誌時評
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