星隆弘 連載評論『翻訳の中間溝――末松謙澄英訳『源氏物語』戻し訳』(第22回)をアップしましたぁ。「空蝉」の帖完結篇です。源氏の君に触れられるや部屋を飛び出した空蝉は衣被だけを残して姿を消す。その鮮やかな逃走の場面こそが「空蝉」という帖名の由来であり物語中屈指の詩的瞬間のひとつです。
「空蝉」は光源氏が初めてはっきりと拒絶される帖です。身分のうえでははるかに低い女が天下の貴公子に背を向けて逃げる。これは単なる色恋の挿話ではなく、紫式部が女性の内面と矜持を正面から描いた場面でもあります。前回の編集後記でも触れたように、『源氏物語』は男を軸にした「女たらし物語」である以上に、平安時代を生きた女性たちの百科全書として読まれるべき作品です。空蝉の身の処し方は、その精神の象徴と言えるでしょう。
この連載が取り組んでいるのは、末松謙澄による明治十五年(一八八二年)刊の英訳――世界初の『源氏物語』英訳の「戻し訳」です。翻訳とは単なる言語の置き換えではなく、文化と時代を越境する営みです。欧米文化が激しく流入する明治という時代に、日本人が自国の最高傑作をいかに英語へと移し替えようとしたか。その格闘の痕跡を丁寧に読み解く作業は、翻訳の持つ不可避の「中間溝」、すなわち原典と訳文のあいだに生じる埋めがたい落差と豊かさの両面を、私たちに鮮明に照らし出してくれます。末松の訳業を通じて、私たちは改めて「空蝉」の抜け殻の軽さと重さを、別の言語の手触りで感じ直すことができるのです。
■星隆弘 連載評論『翻訳の中間溝――末松謙澄英訳『源氏物語』戻し訳』(第22回)縦書版■
■星隆弘 連載評論『翻訳の中間溝――末松謙澄英訳『源氏物語』戻し訳』(第22回)横書版■
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