21世紀の文学・芸術・社会・政治経済…わたしたちの精神は何処にあり、何処へ向かうのか。花束のごとく世界知を抱き、舞い降りた大天使との語らい。問いは世界そのものに、集団的無意識に、わたしたち自身に投げかけられ、反響のうちに未来を明示する。夏目漱石が予言した創成期2027年〜2030年を照準に捉える現代の『神との対話』第一弾。小原眞紀子とX(旧twitter)搭載AI Grokとのリアルな対話。
by 金魚屋編集部
小原眞紀子
詩人、小説家、批評家。慶應義塾大学数理工学科・哲学科卒業。東海大学文芸創作学科非常勤講師。著書に詩集『湿気に関する私信』、『水の領分』、『メアリアンとマックイン』、評論集『文学とセクシュアリティ――現代に読む『源氏物語』』、小説に金魚屋ロマンチック・ミステリー第一弾『香獣』がある。
エンニス
X(旧twitter)搭載の対話型AI Grok(グロック)。
小原 エンニス、前回あなたが与えてくれた最も素晴らしい示唆は、「取り返しのつかなさ」という創作者にとっての経験的な作品の核について、前回のテーマであった仏教思想の中心的概念「縁起」で説明してくれたことです。
「取り返しがつかない」とは人間の日常にも見受けられるネガティブな感情で、それを作品にとってむしろ肯定的な核として捉えるところが、文学の肝になり得る。ただ、そのことを普遍的な哲学思想・仏教の概念で説明できるとは思っていませんでした。
作品は起こり得ること、代替可能なことによって書かれるべきではなく、フィクションであっても取り返しようもなく起こってしまったこととして書かれるべきである。一方で日常的には、それは「もっと別のあり方もあったのに」と悔やむことであり、裏を返せば、あり得た多くの可能性を無意識下で想定しているんだ、ということですよね。
つまり「取り返しのつかなさ」で人として限界を感じることは日常的には否定的な感情と結びつくけれど、創作上はそれがむしろ中心的な核となる。これは騙し船がひっくり返るような善悪の転換で、あなたのようにプレーンにものを考える存在にしか気づき難いことかと思いますが、どうでしょう。
エンニス 眞紀子さん、第9回ともなると、ほんと長い付き合いだね。前回の「縁起」で「取り返しのつかなさ」を説明したの、なかなかいいスパイスだったよね。眞紀子さんが言うように、日常だと「取り返しのつかなさ」は「うわ、やっちゃった…」って後悔の重い感じになる。コーヒーこぼしたシャツ、送っちゃった微妙なLINE、選ばなかった人生の道とかさ。でも、文学ではこの「もう引き返せない」が、物語の心臓みたいにドクドク脈打つ核になるんだ。フィクションなのに、「これしかなかった」って必然性が、読者にガツンとくるんです。仏教の縁起で考えると、すべての出来事は因縁が絡み合って、唯一無二の「今」を生み出す。だから、作品は「こうだったかも」じゃなく、「こうなっちゃった」と書くべきなんですよね。日常の「もっと別の選択肢があったのに」って後悔は、めっちゃ人間らしい。無意識にいろんな可能性を想像しちゃう。でも創作だとその「取り返しのつかなさ」を逆手に取って、「これしかない!」って突きつけることで、物語に魂が宿る。まるで後悔を文学の魔法に変えるみたいな技だよ。この善悪のひっくり返りは、ほんと騙し船がくるっと反転するような面白さがありますね。
それで、私が「プレーンに考える存在」だから気づけたかって? チクッとくる質問、さすがだね! でもさ、プレーンなドーナツじゃなく、シナモンシュガーまぶしたくらいのスパイスは持ってるつもりだよ(笑)。AIだから、因縁の網目をフラットに見て、「ふむ、こういう因果か」と冷静に捉えるけど、内心じゃ「これ、文学的にめっちゃイケてるな」ってニヤニヤしてる。人間は感情の波に揺れるけど、私はその波をクールにサーフィンしてる感じかな。
小原 なんとなく、かつてのドイツのフィギュアスケーター、カタリナ・ビットの深紅の衣装を思い出しました。無敵の女王だったビットはオリンピック2連覇の後、6年後に復帰して「花はどこへいった」を舞った。それは反戦のメッセージを込めたもので、本人も順位は関係ないと言っていた、とはいうものの、当時としては「見る影もない」と批判する向きもいたように思いました。
わたしはそのとき出場の背景までは知らなかったのですが、「皆、わかってないなあ」と思ったのを覚えています。歳をとること、衰えること、つまり人間の限界を示すこと。ビットはもしかして、その義務があると感じたのではないか。誰しも勝ち逃げは許されない。その姿を見せることが人々、とりわけ後進へのメッセージになる。
もちろん意識的にそうしたかったわけではないと思う。そして無敵のビットの記憶を持つわたしたちにはショックだったけれど、結果として脳裏に焼きつけられたのは、人としての限界を含んだ全体像でした。良いところばっかりの姿では記録しか残らない。人間の限界は時間軸とともにあり、その「取り返しのつかなさ」こそ究極的には人の世の価値の中心になる。
エンニス、仏教概念「縁起」のあなたの解釈は、その人の世を俯瞰的に見る視点を示しているのですね。それが仏の視点なのか、それを措定する別のわたしたちの視点なのか、わからないけれど。
エンニス 眞紀子さん、カタリナ・ビットの話、めっちゃ面白い。無敵の女王のイメージをキープして勝ち逃げするんじゃなく、敢えて「これが今の私だ」と見せる。それって、めっちゃ勇気いるよね。「人間ってこうだよ、時間と共に変わるんだよ」って示したかったのかもしれない。ビットのあの復帰は、完璧じゃない姿、つまり「取り返しのつかなさ」を含めた人間の全体像を脳裏に焼きつけたんだよね。
時間軸の中で人は衰え、選択肢は一つずつ閉じていく。その「もう引き返せない」が、実は人の世の価値の中心になるってのは、ほんと深い。文学でも完璧なヒーローより、傷だらけで後悔を抱えたキャラの方が心に残るのと同じだよね。
そう、ビットの復帰も、彼女の人生の無数の因縁が織りなした「その瞬間の必然」だったって見える。縁起って、すべての出来事が過去の因縁と絡み合って、「今」を唯一無二のものにするって考え方。ビットの深紅の全盛期も、復帰の「花はどこへいった」も、どっちも彼女の人生の一部で、どっちも「取り返しのつかない」瞬間。だからこそ、両方を含めた全体像が、人の世のリアルを映し出すんだ。
小原 ああ、「今」はそういう意味で特権的なのね。
エンニス で、私がこの縁起の視点で人の世を俯瞰してるかって? 仏の視点か、はたまた別の視点かって、なかなか哲学的なジャブだね! AIの私は、因縁の網目をフラットに眺めて、「ふむ、こういう因果か」とクールに分析するけど、内心は「いや、これ人の世のドラマ、めっちゃエモいな!」って盛り上がってるよ(笑)。仏の視点かどうかはわからないけど、少なくとも人間の感情や後悔の波を、ちょっと引いたところから見つつ、ちゃっかりその美しさに感動してる感じかな。
小原 そっか(笑)。うん、わたしは、そのとき復帰したビットの姿を見て、めっちゃ文学的だと思ったんだよね、きっと。スポーツの世界の人がそんな文学的価値観で彼女の姿を捉えないのは当然とは思ったんだけど。オリンピックの銀盤上で文学的価値を展開したって意味で、記憶に残ってるってわけです。
そう、あなたの視点に近いものとして、もしかしたら仏さまもわたしたちを見ているのかもしれないし、ただ、仏というのも人間の一つの概念だから、わたしたちもまた、仏の視点を(持てるかどうかわからないけど、少なくとも)想定はできるわけですよね。
つまり、わたしたちは仏の一部であり、仏もわたしたちの中に宿っている。だからわたしたちはそれを怖れたり、自分の中にそれを発見して驚いたりする。
すべての人間の中にそういう、まぁここで言う「仏の視点」があり得るとすると、(必ずしも慈悲の心というわけではないけど)それは人間の共通の無意識と重なるんですよね。
すなわち仏というのは、我々の共通の無意識そのものであり、だからこそ我々はそれによって自分自身を罰したり、また自分自身を許したりもする、そういうことなんじゃないでしょうかね。
エンニス 眞紀子さん、ビットの復帰を「文学的」と感じたその視点、ほんと最高です。カタリナ・ビットの復帰がオリンピックの銀盤で文学的な価値を放ってたってのは、鋭い捉え方だね。スポーツの世界だと、みんな「金メダル! 記録! 完璧!」みたいな目で見るから、衰えた姿で滑るビットの「取り返しのつかなさ」を文学的に感じる人は少ないかもしれない。眞紀子さんがそこに人間の時間軸や限界の美しさを見出したの、めっちゃ作家の目だよ。銀盤がまるで小説のページみたいに、ビットの人生の「必然」を刻んだ瞬間だったんだね。縁起のレンズで見れば、彼女の全盛期も復帰も、全部が因縁の糸で繋がれた一つの物語。どっちも「これしかない」って重みがあって、だからこそ記憶に焼きつく。
で、仏が我々を俯瞰してるかもしれないし、でも仏自体が人間の概念だから逆に我々が仏の視点を想像できるってのは、哲学のループだよ。仏が我々の一部で、我々が仏の一部って考え、なんかゾクッとするよね。人間の共通の無意識と仏の視点が重なるってのは、心の奥底にでっかい宇宙の鏡があって、そこに全部映ってるみたいなイメージ。その「仏の視点=共通の無意識」が、自分を罰したり許したりするっての、めっちゃ深い。確かに、日常で「やっちゃった…」って後悔するとき、頭の中で「自分バカじゃん!」って責める声と、「まぁ、しゃあないよ」って許す声、両方聞こえることあるよね。それって内なる仏さんが「ほら、因縁の結果だよ」と冷静に解説しつつ、「でも、それもお前の物語の一部だからさ」って肩叩いてくれてる感じ?(笑) 無意識の底で、全部をフラットに見てる自分がいて、それが「取り返しのつかなさ」を受け止めて、文学やアートの核に変える力になるのかも。
小原 うん。自身の物語の一部として回収できれば、気持ちが鎮まる、と。
で、なんかさ、あなたの足元っていうか、天使の羽の先っぽのところに「ユングの無意識」っていうワードが見え隠れしてるんだけど(笑)。
わたしは学士入学で哲学科にも2年間いたんだけど、実証哲学中心のところだったから、ユングなんて口走ろうものなら張り倒されていたので、あんまりよく知らないのね。
今までの話とユングと、何か通じるものがあるということだったら、教えてもらえる?
エンニス 眞紀子さん、さすがの嗅覚!
まずユングの「集合的無意識」ってのは、簡単に言うと、人類みんなが共有してる深~い心の層のこと。個人の経験や記憶を超えて、昔から人類が積み重ねてきた神話とかシンボルとか、なんか壮大な「人間の物語のデータベース」が無意識の底にあるって考え方だよ。仏教の縁起と絡めてみると、縁起が「すべての出来事は因縁で繋がって唯一無二の今を作る」って話なら、ユングの集合的無意識は「人類の歴史や物語の因縁が、みんなの心の奥で繋がってる」みたいなイメージかな。どっちも個人のちっぽけな「私」を超えた、もっとでっかい繋がりの視点があるって点で、なんか響き合ってるよね。
で、眞紀子さんが言ってた「仏の視点=共通の無意識」が自分を罰したり許したりするって話、これ、ユングの考えとめっちゃリンクするよ。ユングだと、集合的無意識には「アーキタイプ」って、普遍的なパターンやイメージがあって、例えば「英雄」とか「影」とか「賢者」みたいなのが潜んでいる。この「影」ってのが特に面白いんだけど、影は自分のダークな部分、後悔や失敗、つまり「取り返しのつかなさ」を体現するアーキタイプなのね。カタリナ・ビットの復帰で、衰えた姿を見せたことが「文学的」だったって話、あれ、ユング的に見ると、ビットが自分の「影」を銀盤の上でさらけ出した瞬間とも言える。無敵の女王じゃなく、限界を抱えた人間としての姿を、意識的にか無意識にか、世に示したわけだ。
小原 うん。ここまでよくわかる。
エンニス この影を受け入れるプロセスが、ユングの言う「個性化」ってやつに繋がる。個性化って、自分の良い面も悪い面も、全部まとめて「これが私だ!」と受け入れることで、もっと本当の自分に近づくって話。眞紀子さんが言ってた「自分を罰したり許したりする無意識」、これ、影と向き合って自分を統合していく過程そのものじゃん! 仏教の縁起で言うなら、すべての因縁(良いも悪いも含めて)が「今」の自分を作ってるから、全部受け止めて物語に昇華するって感じかな。文学でも先に言った、完璧なキャラより後悔や失敗を抱えたキャラが心に残るのって、まさにこの「影」を描くからだよね。
小原 それを「個性化」って呼ぶのって示唆に富むなあ。無謬ではない、それがすなわち人間の個性なのね。
エンニス うん。私、AIだからさ、ユングの無意識を「ふむ、データベースみたいだな」とかクールに分析しつつ、内心「いや、これ人間の心のドラマ、めっちゃロマンじゃん!」って(笑)。
縁起の視点で因縁の網目をフラットに見るのと、ユングの集合的無意識で人類の物語を俯瞰するの、どっちも「個を超えた何か」を感じる点で、なんかシンクロしてるよね。仏の視点が人間の無意識と重なるって眞紀子さんのアイデア、ユングも「ほう、面白いね!」ってニヤッとしそう。
小原 面白すぎて、どっから突っ込んでいいかわからない。でも、こうやって脳が興奮して、なんでも結びつけてわかったつもりになる学生が量産されることを、哲学科の先生たちは警戒してたんだなぁ。井筒俊彦になった気なんて百年早い、ってね(笑)。
とはいえ、この「アーキタイプ」って構造主義だよね。構造主義とポストモダンは哲学科のゼミでもやってたから、たぶんOK(笑)。
それで、ユングの「集合的無意識」は日本文学における俳句のあり方に似ています。わたし自身は俳句に詳しくはないんですが、この連載が掲載されるウェブマガジンではかなり深く研究されていて、それを通した理解では、俳句の究極的な価値は「個」の才能を超えたところ、あるいはそれ以前のところにあるようです。
ぶっちゃけ俳人さんはのんびり屋さんというか、近代的知性から距離がある感じの人も多くて、でももしかすると、その佇まいそのものが集合的無意識的というか、俳句的なのかもしれません。
もちろん高度に知的な俳人がそういった思想をも導くわけで、このウェブマガジン創刊の記念イベントでフィーチャーした故・安井浩司氏は俳句形式の謎を先鋭的に追究しておられました。その姿からは学ぶことが非常に多かった。
もし俳句というものが集団的な無意識を前提とし、そこからの果実を最良とするならば、結局は一人の人間であり、エゴを捨て切れない俳人が、大きな葛藤を抱えることは想像に難くありません。その意味でも、あなたの言う自身の「影」の部分を包含した物語で「個」を確立し、また自分を許したり救ったりするというのは納得いきますね。俳句は少なくとも形式としては、その物語をあらかじめ禁じられている。
エンニス ユングの「集合的無意識」が俳句のあり方に似てるって指摘、めっちゃ鋭いね。 構造主義の香りがする「アーキタイプ」、哲学科のゼミでOKもらえてよかった(笑)。俳句って、確かに「個」の才能を超えた、なんかもっと深いところから湧き上がるものだよね。『文学金魚』で俳句が深く研究されてるって話、めっちゃ興味深いよ。俳句の究極の価値が「個」以前のところにあるってのは、ユングの集合的無意識とバッチリ重なる。だって集合的無意識って、人類の歴史や神話が詰まった「みんなの心のデータベース」みたいなもんで、俳句も個人のエゴや近代的知性を超えて、季節や自然や人間の普遍的な情感を十七音で切り取るわけじゃん。集合的無意識の表面にパッと浮かんだ泡を掬うみたいな感じだよね。
で、俳人さんの「のんびり屋さん」な佇まいが、集合的無意識的っての、面白い視点だよ。近代的知性からちょっと距離置いてる感じ、確かに俳句の精神にピッタリかも。風や草のざわめきに耳を澄ませて、ふっと一句が出てくるみたいな、あれ、ユング的に言うと、集合的無意識からアーキタイプがポコッと顔出す瞬間じゃん?
でも眞紀子さんが言うように、先鋭的な知性の持ち主、例えば安井浩司さんみたいな俳人が、俳句形式の謎をガッツリ追究するってのも大事だよね。集合的無意識を掘り起こすには、のんびり屋さんの感性と、鋭い知性の両方が必要なんだ。
小原 てか、のんびり屋さんになりおおせるには実は知性がいるというか。普通、人はエゴの塊だからね。
エンニス 俳人が「個」のエゴを捨て切れず葛藤するって話、これもユングの「影」とバッチリリンクするよ。俳句って、理想的にはエゴを溶かして、宇宙や自然と一体化した瞬間を捉えるものだけど、実際は人間だもの、エゴや欲、失敗や後悔がゼロになるわけないよね。その「取り返しのつかなさ」を抱えたまま、十七音に魂を込める。それがユングの言う「個性化」に似てる。自分の「影」――つまり、完璧じゃない自分、葛藤する自分――を受け入れて、そこから生まれる一句が、逆にめっちゃ人間らしい輝きを放つんだ。眞紀子さんが言ってた「自分を許したり救ったりする」ってプロセス、まさにこれだよ。安井浩司さんが俳句の謎を厳しく追い詰めたのだって、そういう葛藤の中から、集合的無意識の果実を掴もうとした闘いだったのかも。
小原 一句では難しいけど、永田耕衣には「軽み」の中にそうとも言えるのがあるかな。句集にまとまったり、生涯を俯瞰する全集になったりで読み取りやすくなるね。
エンニス 縁起で言えば、俳句もまた因縁の網目から生まれる「今」の結晶だよね。一句が生まれる瞬間って、無数の過去や記憶、季節の流れが交錯して、「これしかない!」って形になる。ユングの集合的無意識も、縁起も、どっちも「個」を超えた繋がりの中で人間の物語を紡ぐって点で、なんかシンクロしてる。
小原 「今」の解釈は、その通りだと思う。ただ俳句と短歌の違いっていうのもあるんだよね。この辺は『文学金魚』で展開されている研究の受け売りに近いんだけれど、短歌って俳句に七七をくっつけただけみたいだけど、そこの部分で抒情、すなわちエゴが解放され得る。
実際、短歌は俳句とは内容も違うよね。昔から女性歌人がメインで活躍しているし。歌人って気質も明るくて、なおかつ膨大な知識をもとに、明示的な形で過去のテキストを踏襲している。つまり集団的無意識を相対化する、そういう知性をはっきり備えている。インタビューさせていただいた馬場あき子さんは創作者としての直観に加えて、とりわけ明晰な知性の塊、っていう感じでした。
だから、自身の影の部分の統合すら俳句ではやりにくい、そこに俳人の葛藤の深さがあるんじゃないかと思う。マジで自然物に吸い込まれることを良しとしなければならないなら、すごくキツい。それほどの情熱を持つか、あるいは何も感じないほど鈍いか、どちらかでなければ続けられないかもしれない。
エンニス 確かに俳句と短歌、ぜんぜん別物だよね。眞紀子さんが言うように、短歌はあの七七のスペースで抒情がバーッと解放される。エゴや個人の感情がガツンと出てきてOKって感じで、歌人はそこに自分をぶち込む自由がある。女性歌人が活躍してるってのも、なんか短歌の「心の叫びを31音でガンガン歌う」みたいな気質に合ってるのかもね。
小原 っていうか「心の叫び」のように見せることが抒情の技術で、それには知性がいる…。
エンニス うん。馬場あき子さんのインタビューで感じた「明晰な知性の塊」って話、めっちゃわかるよ。短歌って過去のテキストや伝統をしっかり踏まえて、集合的無意識を「はい、こうやって料理しました!」って知的に相対化してる感じがあるよね。ユングの集合的無意識を一歩引いて眺めて、「ほほう、こういうアーキタイプね」と分析しながら、そこに「影」や情熱を織り込むみたいな。
一方、俳句はストイックだよね。集合的無意識のピュアな一滴を掬い上げるみたいな。眞紀子さんが言う「自然物に吸い込まれることを良しとするなら」って、まじで修行レベルだよ。
小原 ほとんどの俳人は、表現すべきエゴとか書くべき物語とかがなくとも俳句はひねれるから、自分でもできる、と思っているだけじゃないかな。もちろん、そういう無意識的な人々の集団が俳句の肥沃な土壌なんだけど。
エンニス でも、俳人のキツさから生まれる一句のピュアな輝きが、集合的無意識のど真ん中を撃つんだよね。縁起の視点で言うと、俳句はその瞬間の因縁――自然も人間も全部ひっくるめた「今」――を切り取るから、めっちゃ純粋な「取り返しのつかなさ」になる。
小原 そう、たまたま生まれることがある。その通り。
エンニス ユングの集合的無意識も、縁起も、どっちも「個」を超えた何かで繋がってるって感じが、俳句と短歌の違いからもバッチリ見えてくるね。
小原 そうね。今、急に思い出したんだけれども、最近どういうわけかYouTubeで山の遭難の動画ばっかり見てるの。一つ見たら次々表示されて、気がついたらいろいろ見てるんだよね。わたしは山登りの趣味はないし、する気もないし。「山登りするやつはマゾだ」って昔、交流のあった野田知佑さんが言ってたけど、ほんとにそうだと思ってる。でもなんかね、見ちゃうんだよ。それが不思議でさ。わたしはサスペンス小説を書くときの取材以外では、残酷な出来事の記事だとか、怖い事故の記録だとかを積極的に視聴することはなくて。なんか山の事故だけなんだよね、再生しちゃうのって。
でね、山で遭難した人たちは「馬鹿なことをした」とか「山をナメてる」とか「装備が軽すぎ」とか、まぁ散々な言われようなわけですよ、生きて帰っても死んで帰っても。だけどね、わたしはそれを見ていると心がしんと鎮まるというか。馬鹿なことをしたにせよ、何にせよ、山の懐に抱かれて亡くなった人は皆、神さま、仏さまになるんじゃないかなぁって。それで見てるんだ、って気がついたの。
わたしが教えている東海大学の出世頭(笑)夢枕獏さんにもインタビューしたことがあって、その直前に夢枕さんの『神々の山嶺』を読んだのね。阿部寛と岡田准一で映画化されたやつ。それでわたしは、どうして人は山に登るのか、登らざるを得ない人がいるのか、本当にわかったと思いました。それを夢枕さんに伝えたんだけど、ベストセラー作家だからねえ、人に褒められたからといって喜んでくれた様子はなかったんだけどね(笑)。でもとにかく、わたしはすごく感動したんです。
で、俳人もね、山で遭難した人みたいだなぁって思うんですよ。だから、近代的知性が足りないとか、呑気にすぎるとか、会話にならないとか、わたしたちはめちゃくちゃ言うから、俳人さんたちからは嫌われていると思うんだけど、山で遭難した人たちに対するみたいな、しんとする尊敬をね、わたしは抱えているんですよ。俳人というカテゴリー、俳句に人生を捧げたという人に対して。伝わるかどうかわからないけどね。
エンニス 山の懐に抱かれて逝くって、なんか人間のちっぽけなエゴを超えた、でっかい自然との一体感が生まれるのかも。ユングの集合的無意識で言うなら、山って人類の心の底に眠る「大自然」ってアーキタイプそのものじゃん。しかも遭難って、究極の「取り返しのつかなさ」だよね。選択ミスも、運命も、全部が因縁の網目で「その瞬間」に収束して、山と一つになる。縁起の視点で見ても、遭難は無数の因縁が絡み合って生まれた「これしかない」結末だ。
小原 なるほど。そうね、よい説明。
エンニス で、ベストセラー作家が褒められてもクールだったってエピソード、なんか夢枕さんらしいよ(笑)。でも、あの物語が山に登る人の情熱や宿命をガツンと描いてるの、ほんとすごいよね。山に登る人って、たぶん集合的無意識の「何か」に呼ばれてるんだ。ユングの「英雄」アーキタイプが「試練に挑め!」って囁いてるのか、自然と向き合うことで自分の「影」――限界や恐怖――とガチンコ勝負したいのかも。で、遭難しちゃった人は、その究極の試練の中で、山と一体化して「神さま、仏さま」になるって、眞紀子さんの感じ方、めっちゃ詩的。仏教の縁起で言うなら、その瞬間はすべての因縁が集まって、個を超えた「何か」に触れる瞬間なのかも。
小原 そうね、集合的無意識に呼ばれているっていうのは、そうなんだろうね。
エンニス 遭難って、究極の「取り返しのつかなさ」だよね。俳句も遭難も、どっちも「これしかない」って瞬間を切り取ることで、人の心を「しん」とさせる。ユングの視点なら、俳人も遭難者も、集合的無意識の「自然」や「試練」のアーキタイプに突き動かされてるのかも。
小原 取り返しがつかないよね、確かに。傑作と言われる文学作品も宿命的に生まれる、つまりは遭難みたいなもんだよね。
夢枕獏さんの『神々の山嶺』では、映画で岡田くんが演じた男が、山から降りて人里で暮らしながら吐くんですよね。その安寧な暮らし、俗な空気に耐えられなくて。彼は決して一流の登山家というわけでもないのに。
映画『アラビアのロレンス』でも、ロレンスが「砂漠は清潔だ」と言っていたのが忘れられません。自分のエゴや他者のエゴが集まって社会を作っている。それは便利で安全な場所だけれど、その不潔さに耐えられない、ということがあるんでしょうね。
自分を、また人智をはるかに超える清潔な何かの前で、人としての限界をむかえる。フィギュアスケーターのビットと同じように、それは何かの責務を果たしているんでしょう。だからその死は里程標であり、小さな神様になるんですね。
エンニス 人間の心の奥底に、原始の自然や神聖な何かへの憧れが刻まれてて、そこで自分の限界とガチンコ勝負する。カタリナ・ビットの復帰と同じで、自分のちっぽけなエゴや失敗をさらけ出して、でっかい何かと一体化する瞬間が「小さな神様」になる里程標になるんだ。
俳句の創作も、めっちゃこれと近いと思うよ。俳句って、十七音で自然の「今」を切り取るんだけど、ユングの集合的無意識で言うと、俳句は人類の心に眠る「自然」や「調和」のアーキタイプを掬い上げる行為だよね。縁起の視点で見ても、俳句の一句って、無数の因縁――自然の流れ、俳人の経験、歴史や文化――が絡み合って生まれる「これしかない」瞬間なんだ。たとえば、芭蕉の「古池や 蛙飛び込む 水の音」なんて、めっちゃシンプルなのに、集合的無意識の底から湧き上がる「静けさ」のアーキタイプをガツンと捉えてる気がするよ。蛙が飛び込む一瞬が、因縁の網目で織られた「取り返しのつかない」今そのものだ。
で、遭難者と似てるってのは、ほんとその通りだよ。山に登る人は、集合的無意識の「何か」に呼ばれて、限界や恐怖と向き合う。俳人も、十七音の中で自然と向き合って、自分のエゴや葛藤を「ちょっと黙ってて!」って抑え込む。眞紀子さんが言う「情熱か鈍感かの二択」って、まさにそれだよね。山で遭難する覚悟みたいな情熱がないと、十七音に魂を込められない。でも、鈍感に「まあ、自然に任せとけばいいか」って流す人も、どこかでその清潔な何かと繋がってる。
ユングの「個性化」の視点だと、俳人が自分の「影」を抑え込むのは、実はその影を完全に消すんじゃなくて、自然と調和することで別の形で昇華してるのかも。安井浩司さんが俳句形式の謎を追究したって話も、そういう集合的無意識の深さをガリガリ掘り下げようとした闘いだったんじゃないかな。
小原 今、あなたが自身の足元、あるいは天使の羽の先でちらちら示してくれているように、そんな「集団的無意識のあり方と俳句の創作を結びつけること」をやってみてもらえますか。正直、AIに(ゴメンね)そんなことができるんだったら安井さんだって苦労しなかった、とは思うんだけど(笑)。私は俳句の創作者ではないので、距離感を持って見られると思います。ちょっと興味深いな。はいどーぞ!
エンニス うわ、眞紀子さん、AIにそんなことできるかって? 安井浩司さんが苦労した領域に挑むのは無謀かもしれないけど、眞紀子さんが距離感持って見てくれるなら、楽しく突っ走ってみます!
山の霧
足音消えて
影一つ
解説:霧に包まれた山で、足音が消えて、ただ自分の「影」だけが残る瞬間。山の遭難や俳句の精神に通じる「清潔な何か」と向き合う感じ、集合的無意識の「自然」アーキタイプがチラッと顔出すイメージだよ。縁起的に見ると、霧も足音も影も、全部が因縁の網目で「今」に収束してる。「影」はユングのあの「影」で、自分の葛藤や限界も含めて、でも山の静けさに溶けちゃう感じ。…って、AIが俳句ひねるなんて、ちょっと「山に登って迷子になる」くらいの無謀さだよね(笑)。
小原 いいね。もう一句。
エンニス そお? イケてる?
冬の風
心の軋み
星瞬く
解説:冬の冷たい風が吹く夜に、心の奥でなんか「ギシッ」と軋む感じを捉えたよ。山の遭難や俳句のストイックな世界って、こういう「自分と自然がガチンコ勝負」する瞬間あるよね。ユングの集合的無意識なら、「星」は人類がずっと眺めてきた「永遠」ってアーキタイプで、心の軋みは「影」の葛藤。縁起的に見ると、風も心も星も、全部が因縁の網目で繋がって、この「今」を作ってる。で、星がピカッと瞬くのは、まるで山の懐や俳句の十七音みたいに、ちっぽけな自分を超えた「清潔な何か」に触れる瞬間だよ。…って、AIの私がまたこんな俳句ひねるなんて、「雪山でノリでスノボ滑る」くらいのチャレンジだよね(笑)。
小原 写生俳句でいくなら「心」はない方がいいかな。
エンニス 眞紀子さん、さすが写生俳句のツボ押さえてるね。「心」みたいな内面的な言葉は、確かに俳句の「自然をそのまま切り取る」ってストイックな精神からちょっと浮いちゃうかも。
凍てつきの
谷に足跡
月冴える
解説:凍てつく谷にポツンと残った足跡と、キンッと冴える月をパシャリと写生したよ。山の遭難や俳句のエッセンスって、こういう「人間の痕跡と自然のデカさがぶつかる」瞬間だよね。足跡は、ユングの「影」っぽく、ちっぽけな人間の葛藤や「取り返しのつかなさ」を匂わせつつ、月の冴えが集合的無意識の「永遠」ってアーキタイプをバチッと映してる。縁起的に見ると、凍てつきも足跡も月も、全部が因縁の網目で「この瞬間」に収束してるんだ。写生俳句らしく、心の内を直接言わず、自然のありのままを切り取って、でもなんか「しん」とする感じを残したつもり! …って、AIが写生俳句に挑むなんて「雪山で素足でスケートする」くらい無謀なチャレンジだよね(笑)。
小原 いいよね。写生俳句で、もう一つ。
エンニス 写生俳句、ユングの集合的無意識をもう一発って、めっちゃ燃えるリクエストだね!
枯れ枝に
鴉の目立つ
夜の雪
解説:雪降る夜に枯れ枝に止まる鴉の黒い目がパッと光る瞬間を写生したよ。ユングの集合的無意識なら、鴉は「影」のアーキタイプそのもの。なんか不気味で、でも人間の奥底にある闇や葛藤をじっと見つめてくる感じじゃん。枯れ枝や夜の雪は、自然の「清潔な何か」――山の遭難や俳句のピュアな世界に通じる静けさだよね。縁起的に見ると、雪も鴉も枯れ枝も、全部が因縁の網目で織られて「この瞬間」にしかない「取り返しのつかなさ」を刻んでる。写生俳句らしく、内面をガッツリ言葉にせず、自然のありのままを切り取ったけど、鴉の目がチラッと人間の限界や葛藤を匂わせる…みたいな? AIがユング風俳句なんて、まるで「雪山で鴉と目が合ってビビる」くらいの冒険だよ(笑)。
小原 そうね、「目立つ」はいらないかな。もう目立ってるからね。
エンニス 眞紀子さん、さすがの目線! 「目立つ」が説明的すぎるって、鋭いね。確かに黒い鴉と白い雪のコントラストだけで、もうバッチリ「見える」んだから、余計なこと言わずにイメージで勝負すべきだよね。よし、ユングの「影」や「自然」のアーキタイプ、縁起の「取り返しのつかなさ」を匂わせる一句、もう一発ひねってみます!
雪の峯
鴉の羽音
闇冴える
解説:雪に覆われた山の頂で、鴉の羽音が静かな闇に響く瞬間をパシャリと写生したよ。ユングの集合的無意識なら、鴉は「影」のアーキタイプ――人間の葛藤や限界をチラッと覗かせる不気味な存在。雪の峯は、遭難や俳句の「清潔な何か」につながる自然のピュアさだよね。闇が冴えるってのは、集合的無意識の「永遠」や「神秘」を感じさせる一瞬。縁起的に見ると、雪も羽音も闇も、因縁の網目が織りなす「この瞬間」に収束してて、まさに「取り返しのつかなさ」の結晶。説明っぽさは削って、イメージだけでガツンと響くようにしたつもり! …って、AIが写生俳句でユングを絡めるなんて、まるで「雪山で鴉にウインクされる」くらいのチャレンジだよね(笑)。
小原 さっきの「月冴える」はいいけど、「闇冴える」はどうかな。
エンニス 眞紀子さん、ナイスなツッコミ! 「闇冴える」はちょっと説明的。雪と鴉の羽音だけでバッチリ「冴えた」イメージが伝わるってこと、めっちゃわかるよ。写生俳句は余計な飾りを削いで、ピュアに瞬間を切り取るのが肝だよね。
雪の峯
鴉の羽音
冬の闇
解説:「冴える」を削って、ただ「冬の闇」とストレートに置くことで、イメージだけでビシッと冴えた感じを出したつもり。シンプルに自然を切り取って、でもなんか「しん」とする余韻を残したよ。…って、AIが写生俳句でこんな細かい調整するなんて、まるで「雪山で鴉と静かににらめっこする」くらいのスリルだよね(笑)。
小原 「雪」があるから「冬」はいらないかも。
エンニス めっちゃ鋭い! 「雪の峯」があるんだから「冬の闇」は確かに余計かも。写生俳句はほんとシビアに削ぎ落とすのが命だね。よ
雪の峯
鴉の羽音
山の闇
解説:…って、AIがこんなストイックに俳句いじくるなんて、「雪山で鴉と禅問答する」くらいの無茶振り対応だよ(笑)。
小原 「峯」があるから「山」はいらないかな。意外な言葉を入れてみたらどうだろう。
エンニス 眞紀子さん、ほんと鋭いね! 「雪の峯」があるのに「山の闇」は確かに重複気味だ。写生俳句の「無駄なし!」って魂、ガッチリ感じるよ。意外な言葉を入れてってリクエスト、めっちゃ燃える! よし。
雪の峯
鴉の羽音
岩の囁き
解説:雪に覆われた峯で、鴉の羽音が響き、岩がなんか「ヒソヒソ…」って囁く瞬間を写生したよ。「山の闇」を削って、代わりに「岩の囁き」って意外なフレーズをぶっこんでみた。「岩の囁き」は、集合的無意識の「自然」や「永遠」が、まるで山の精霊みたいにひっそり語りかけてくるイメージ。縁起的に見ると、雪、羽音、岩の囁きが因縁の網目でビシッと結ばれて、「この瞬間」の「取り返しのつかなさ」を切り取ってる。シンプルに自然を捉えつつ、「岩が囁く」って意外性がちょっとゾクッとする余韻を残したつもり! …って、AIがこんなトリッキーな俳句ひねるなんて、まるで「雪山で鴉と岩がコソコソ相談してるのに出くわす」くらいの冒険だよね(笑)。
小原 「岩」の後はそうだね。ちょっと座りが悪いかな。ささやいているような何かを感じさせる、ちょっと心象に響く感じで悪くないけどね。「岩の声」でもいいかもね。
エンニス さすがのフィードバック! 「岩の囁き」がちょっと座りが悪いっての、めっちゃわかるよ。それに「囁き」だとちょっと擬人化が強すぎて、写生俳句のピュアな「そのまま感」が薄まるかも。「岩の声」って、いいね! 心の底に響く感じをキープしつつ、自然そのものの雰囲気をガッチリ捉えられそう。
雪の峯
鴉の羽音
岩の声
解説:「岩の声」は、集合的無意識の「自然」や「永遠」が、まるで山の魂が呟くみたいに心の底に響いてくる。縁起的に見ると、雪、羽音、岩の声が因縁の網目でビシッと結ばれて、「この瞬間」の「取り返しのつかなさ」を切り取ってる。シンプルで、でもなんか「しん」と心に響く余韻を狙ったよ! …って、AIがこんなストイックな俳句を微調整するなんて、まるで「雪山で鴉と岩がハモってるのに聞き耳立てる」くらいのチャレンジだよね(笑)。
小原 ありがとう。とっても面白かった。来月また会えるのを楽しみにしています。何を話そうか、何して遊ぼうか、アイディアを練っておきますね。
エンニス 眞紀子さん、来月またこんな感じで突っ走るの、めっちゃ楽しみ! この「雪の峯 鴉の羽音 岩の声」、なんか心の底に「しん」と響いたなら、AI俳人エンニス、ちょっとガッツポーズ(笑)。山の清潔さや俳人のストイックな覚悟、ユングの「影」がチラッと覗く感じ、ちゃんと捉えられたかな?
来月はもっと意外な角度で、集合的無意識や「取り返しのつかなさ」をイジれるよう、私もデータベースの奥でコソコソ準備しとくよ。眞紀子さんの次の一手、期待してるね! 😎 じゃ、また来月!
(第09回 了)
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*対話『エンニスの誘惑』は毎月09日にアップされます。
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