来世はあるのか、人は悟ることができるのか。死の瞬間まで何かを求め迷い続ける人間に救済は訪れるのだろうか。そもそも人間は迷い続けている自己を正確に認識できるのだろうか・・・。「津久井やまゆり園」事件を論じた『アブラハムの末裔』で金魚屋新人賞を受賞した作家の肉体思想的評論第三弾。
by 金魚屋編集部
十.これでいいのだ
⒈
土俵を作ること。
いまの世に何よりもまず必要とされるものは何か、と訊かれたら、こう答えようか。
その前に、そもそも土俵なんてものがあるのだろうか。
土俵は、相手があってこその土俵である。だから土俵なんてあるのかという問いは、他者なんてものがあるのかと問うにひとしい愚問だろう。
だから、ことばというものがあるのだ。――ひとまずの答えである。もともと他者の成立と起源を同じくするのが、ことばという土俵だ。しかし、ことばがほんとうに他者との土俵として機能しているなら、世がこれほどまで混迷と諍いと流血にまみれながら、止血する気配すらないのはどうしてか。これは愚問どころか、他者との土俵があるからこそ無用の流血が止まらないのだ、というおぞましい考えに行き着くだろう。
互いに異なる土俵を乗せられるようなさらに高階の土俵が存在すると信じられた時代は、とうに終わった。存在したとしても暴力を同伴者にするか、あるいは瀕死の白熊が薄氷の張った河をよろよろと渡るようなもの、いずれも乗るに耐えない土俵だと省みるひとはみな思っているのではないか。
それでも、いやそうであるゆえにこそ土俵は作られ、あるいは作り直されなくてはならない。土俵なき世界はただ流され河底へ沈んでいくばかり、二度と浮かび上がることはない。そして土俵はただで与えられるものでも誰かがボランティアで維持してくれるものでもない。
となると可能性はやはり、ことばの中にしかないことになる。
そのことばによって、今度は問い返したい。
わたしたちは、もしくはわたしたちの社会は、死ぬまで泳ぎ続けるしかないマグロのように、たえず成長を続けていかなくてはならないのだろうか。死ぬまでハシゴを架けて上り続けなくてはならないのだろうか。
成長だけがわたしたちを幸福へみちびく唯一の方途なのか、と問い直してもいい。ではその幸福ってのはいったい何なのだ。そう疑問を投げかける前に、いつしか成長それ自体が目的と化している。成長というハシゴはいいことづくめとは限らない。上りがあれば滑落もする。ハシゴを上がるために他人を犠牲にすることだってある。ときにはガンのように歓迎すべからざる成長もつきまとう。そしていずれはハシゴともどもついえ去る。ふと立ち止まって来し方をふり返る機は、誰にだって訪れるだろう。けれどそうしたことも、成長の中でのエピソードのひとつにすぎなくなるのだ。
ところが積極的にそれに対抗する、あるいはそれに代わるものを、わたしたちは何千年という歳月を費やしながら、いまだに見出すことができないでいる。ひとは身近でささやかな幸福で満たされるよりも、欲望に駆られ、それにしたがってつき進むのをよしとする生きものだから。
欲望は成長のハシゴと同じほどその起源は古い。それぞれはお互いのエンジンであり互いを充足させるエネルギーでもある。上らずにはおれない成長のハシゴを具現化した歯車の両輪と言っていい存在が一方は宗教、他方は貨幣経済つまり資本主義である。それらを支えるのはともに「信じること」「信用」である。それらは永続的ではありえないからこそ、逆説的に「信じること」であり「信用」であり続けなくてはならない。止まったら無政府状態になるぞ、恐慌が起きるぞと。それでも成長を手放すというなら、宗教や資本主義になり代わってわたしたちの欲望を充足する手立てを見出さなくてはならない……という発想がすでに成長主義的世界観の産物にすぎないとしても、わたしたちはその内部から外へ穴を穿とうとの意志と労力を放棄してはなるまい。
たとえば仏教はどうなのか。それは欲望を真っ向から否定する、だからあなたのいう宗教とはちがうぞと言うひともいるだろう。でも否定する自らのエンジンは欲望でなくて何だろう。
欲望はいつもとり憑く対象を必要とし、憑いたらその対象が消尽するまで自己肥大化を続け、尽きれば次の対象に乗り移る。成長というハシゴも宗教も資本も、欲望がとり憑いた宿り木である。そしてその本性は途絶えることを知らない自己運動である。欲望はなにかのせいであるのではなく、なにかのためにあるのでもない。それが仕えるのはただ自身のみだ。だからそれを逆手にとって、成長のハシゴを上り下りするそのことをゲームのように楽しんだり、架けること自体をよろこびに変えて上ることは眼中になかったり、ハシゴを横に架けて遊び、飽きたら放り出したりをくり返していると、文字どおりとり憑くシマのなくなった欲望は、自己運動が空転しはじめる。やがて『ちびくろ・サンボ』*に登場するトラのようにぐるぐる自らの周りを回り続け、回って溶けてバターになってしまうだろう。だったらいっそのこと、みなで降りてみればいいのに。そうすれば、おいしいホットケーキをわけ合えるかもしれないのに。
*ヘレン・バンナーマン原作の童話絵本。差別的表現が問題となり日本では一九八八年、各社自主絶版となったがその後瑞雲舎から復刊された。
⒉
世界はどこまで行っても漆黒の闇だ。歴史の中で強いられ、望みもしない〈魂〉を生きざるをえなかった数えきれない生の蠢き、それが闇の正体である。光はかけらもない。闇にまなざしを向ける存在があってはじめて光は灯る。光は隣を灯し、灯った隣はその隣を灯らせていく。こうして星たちは闇夜に浮かび上がる。ひとすじの明かりに呼応して自ら光り出すほのかな光源を、誰もが秘めもっているからである。
そもそも「見える」ということ自体、信じがたい事実なのだ。しかし、このことを理解するひとが意外にすくないのは、どうしてだろう。なまじ眼があるせいか。
「見える」という、そのこと自体には何の理由もありはしない。ましてそれと眼とのあいだには、どんな直接的因果性も存在しない。こう言えばあきれるひともいるだろうが、眼や視神経を失えば見えなくなるという事実に、因果必然性はない。そのひとはそれによって本質的に見えなくなるわけではないからである。にもかかわらず臆見に支配される多くの人びとは、眼や胸の奥にこころというものがあるのだと信じている。もちろん錯覚にすぎない。もしそのひとになにかが「見える」としたら、まさにそのことこそがこころなのだ。光はそこにある。そのひとは何もないと思っていても。
⒊
あるとき彼女は北アルプス山麓の水源に近い橋の上に佇んでいた。
信濃川へ至る流れは折しも黄葉に包まれ、足元でトポトポと小さな音をたてて深みに落ちていく。
「表面の音だな」
彼女は思う。
「表面」とは「水面という空気と水との境界に、すべての景色と水面下の風景を描き込んだ音の織物」であり、そこでは「毛羽立ったように音が立ち上がり、魚の鱗を逆なでするような感触できめ細かな音の模様を紡いでいく」。だから「たとえ目で景色を見なくても、そこに満ちた豊かな息吹を十分に感じることができた」。
しばしそうやって耳をすませていた彼女は突然、自分はいま渓谷の上流に向かって立っているのだという思いにとらわれる。
「上流」という言葉が浮かんだだけで、私の脳裏には、全山黄葉した北アルプスの景色が、壮大なパノラマとなって広がってきた。これはいったい何なのだろう。光から遠ざかって二十余年、初めて味わう不思議な感覚であった。それまでは、川との関わりといえば、岸で水のおこぼれをもらうようにして遊ぶか、手の届かない流れの音を環境音楽のように聞いて一時の安らぎをもらう程度でしかなかった。川床や渓谷の景色も、考えることすら知らなかったのである。
それが思い出や感情移入から解放され、「上流に向かっている」ということに意識を注ぎ、岸から岸へと移ろう水音のハーモニーを聞き分けた瞬間、流域の景色が耳の視野を切り開いて胸の奥底に染み透ってきたのである。
(三宮麻由子『そっと耳を澄ませば』NHK出版)
幼いころ残された微かな視界の記憶が、ふと思い浮かんだことばをきっかけに、ほどよく再構成されたというものではあるまい。まして視覚的なイメージのたぐいではありえない。わたしたちはいつもなにを「見て」いるのだろう。そもそも「見て」いるのだろうか。「見る」とは「光」を感じることではない。彼女がそうではないように。ならば彼女は何を見ているのか。ことばそれ自体を見ているのだ。彼女にとって「見る」ことは「見えない」こととの比較が無意味であるようなある種の言語体験なのだ。もし自由というものに何らかの意味があるとしたら、その実質は、このような体験と不可分だろう。
⒋
げんにいま・ここに「ある」ということ。
それがたとえまぼろしであろうと何であろうと、「ある」というそのこと自体は否みようがない。「ある」ことは、他のありかたを考えることすらできない、ただひとつの直接的な「これ」というほかない。
とは言ったものの、「これ」はそうと指すことのできる対象ではない。指すという距離そのものを欠くということが「直接的」の意味だから。
かたや「ない」は、他のありかたを考えることすらできないという以前に、そもそも「ありかた」自体が「ない」。そうと指すものも「ない」。「ない」こと自体「ない」のだ。けれど、このように言えてもしまうという自己矛盾は、「ない」もまた「ある」の内なるエピソードにすぎないとも解せる一方、「ある」の裏側にべったり貼り付いていつでもひっくり返りうるゼロ記号、いや墓標のようだとも言えるだろう。
こうして「ある」も「ない」も、ただひとつきりであるというジレンマを共有している。
ところが「これ」しかないはずの「ある」が、どうして例外なく「あった」となり、現在と過去というありかたによって引き裂かれるのか。たったいま観ているTⅤドラマの内容は、いつ観ても変わらないはずだ。ストーリーも台詞も同じだし、ヒロインがとつぜん別の役者に交代するわけでもない(生舞台ならある!)。なのに翌日になると、いま観ているその同じものが昨日観たTⅤドラマとなる。ここには決定的なちがいがある。「観ている」から「げんにいま・ここに」だけがなぜか引き算されて「観た」となる。げんに「ある」という思いは、「あった」という思いへと引き裂かれる。しかし引き裂かれながらも、そのことをも含めて「げんにいま・ここに」しかないのもまた事実だ。ここに差分があり、それを過去という。
一方「これ」しかないはずのものは、もともとは「ない」のだった。完膚なきほどの「ない」がいつのまにやら「ある」になってしまう。いやもともと「ない」などはなく、「あるだろう」という期待や不安や予測が「これ」のかなたに控えているように思えるだけで、じつは「げんにいま・ここに」しかないともいえる。差分がここにあり、それを未来と呼ぶ。
時間とは、このような差分の別名である。
ではこの世界にはなぜ時間というものが存在し、それにつかさどられ、世界はつねに不完全かつ局所的にしか展開しないのか。小出しにされ、思いは未来にふり回され、過去へ置き去りにされ、漆黒の闇の底へと沈んでいく。声を上げようとも声にならない亡霊の声は闇の中を誰の耳にも届くことなく、しかし絶ゆることなく、音もなくこだまし続ける。
じっと耳を傾けるしかないのだろうか。ただ闇を凝視し続けるしかないのだろうか。
そんなことを考えながら、うつらうつらしていた。
まぼろしを見ていた。
この時空にはいたるところに裂け目があって、何かのきっかけで蟻地獄のようにそれにはまり込んでしまう瞬間が、どうやら誰にでもあるらしい。ゆっくりと――そう感じただけで、緩急などあるはずもなかったが――私は闇の底へ降りていった。どこで誰が演奏しているのだろう、モーツァルトのディヴェルティメント(変ロ長調、K二八七)のロンドが間近で聴こえてきた。その無二のアンサンブルに包まれて、私は螺旋を描いて舞うように落下した。底まで落ちたと思ったその瞬間、はっと気づいた。あるとばかり思っていた闇の底が――なかったのだ。道元禅師の遺誡「活きながら黄泉に陥つ」とはこれをいうのだろうか。数えられない生がそれぞれの負うあらゆる事実ともども、音もなくすっぽ抜けていた。抜けたその向こうに、時空の裏側がのぞいていた。それはあらゆる意味と価値のかなただった。そこから透けて見えた。あの「蒼穹」が口を開けているのを。
『鬼滅の刃』の話をしたとき、その世界観を可能にしているのは「神の視点」で、そんなものはないと批判したが、考えてみると、まんざら批判にはあたらないのかもしれない。そのような「神の視点」は、むしろこの世界が「ある」というときのもともとのありよう、実在のありようを、わたしたちが模倣した痕跡なのだとしたら。
私は、しばらくその部屋におりましたが、見るものがあまりにたくさんなので、あとですぐ、みな忘れてしまい、まるで何も見なかったかのように、室内の物が何一つ記憶に残りませんでした。また、それがどんなものであったかを言うこともできません。ただ、それを全部見た、ということだけ思い出せるのです。
(強調は引用者、アビラの聖テレジア『霊魂の城』六・四・八、東京女子カルメル会訳)
時空の裂け目のこのありえないかなたには、なにもかもが出そろっている。全員集合している。生も死もない。局所も全体もない。善も悪もない。希望も絶望もない。はじまりも終わりもない。〝全知〟と〝永遠のいま〟からなる世界とは、そのようなものだ。
同時的な共存の可能性、あるいは並列しあるいは対立しながらともにあることの可能性こそ、いわばドストエフスキーが本質的なものと非本質的なものとを選り分ける際の基準であった。意識の上で同時的に把握し得るもの、意識上同じ一つの時間の中で相互に関連し得るもの――それのみが本質的なものとしてドストエフスキーの世界に入り込んでくるのである。それはひょっとしたらそのまま永遠の中に移し換えることができるのかもしれない。というのもドストエフスキーによれば、永遠の中においてはすべてのものが同時にあり、共存しているからである。
(ミハイル・バフチン『ドストエフスキーの詩学』第一章、望月哲男・鈴木淳一訳、ちくま学芸文庫)
底抜けになった〈魂〉たちは時を越え地を越え、一堂に会してともに宴をくり広げる。ミハイル・バフチンの考えにしたがえば、このような〝カーニバル〟空間こそがおそらく〝天国〟のイメージの原記憶である。誤解のないよう断っておくが、私はなにか楽園やらユートピアやら目指されるべき境地やら救いやらを語っているのではない。「ある」ならばただそうあるほかないと言っているにすぎない。いつも迷い苦しみに苛まれ続けているひとがいる。道に目覚め、悟りを開いたというひともいるだろう。苦しみに耐えきれず、自ら命を絶ってしまったひとも、無理やり絶たれてしまったひともいるだろう。いずれもただそうであるほかない。あるがままとは、何もかもひとしく包み込んで「これでいいのだ。」とつぶやくだけであって、それ以上のものではない。
一堂に会する者たちは、それぞれけっして完全な存在でもなければ、一なる存在でもない。しかしそもそも不完全であるからこそ、欠いているからこそ、邂逅のよろこびを宴に変えながら交わり、そしてひびきあうことができる。欠いているからいいのだ。そのためにこそこの不自由な時があり、不完全な世界がある。「十牛図」の牧童が成長したと思ったら、布袋となって巷の人びとと溶けあうように。そして、気づいたらただの迷える牧童からまたはじまるように。
⒌
かがやきは、自らにある。
ところが自身はそれを見ることができない。たまさか目にすることのできたさいわいな者によってはじめて、時のふところ深く刻みつけられる。その者が証しとなるためである。証しされるもの、それは「ここにいるよ」という自らの声にほかならない。自らは自らによっては証しされない。それゆえ視るものの存在、聴くものの存在はさいわいであるという以上に、ひとつの奇蹟である。その者は証しする存在でありながら、自らもまた誰にも届けることのできない声であるから。ここには何ものであろうとけっして埋められないへだたりがある。しかし、へだたりゆえに異なる他者どうしがはしなくもひびきあう。そのひびきを、その瞬間を、わたしたちは邂逅という。邂逅とは、たまさかこの世に生を享けてある者としての運命の中で、届きえない声を贈りあい、へだたりによって生じる無言の痛みをともにわかちあおうとする意志である――「これでいいのだ。」と。
「これでいいのだ。」――バカボンパパのことばが、「ある」というそのことが上げる寂かな、万感をたたえたつぶやきだとしたら。認識の高みからではなく、諦念でも怨念でも歓喜でも悟りの境地からでもなく、自身がたまさか「ある」がゆえに放たれるかがやきだとしたら。またそのため、どこへも発せられることなく、誰にも、自身にさえも届くことのない口ごもりだとしたら。
それはきっと「解釈学」がたどりついた最終的な地平の、さらに先へと突き抜けているだろう。それは存在と認識とことばがそのへだたりゆえに、自らをつらぬいて架橋しあう、ありえないひびきであるからだ。
再三で恐縮ながら、ところが、である。言問橋を訪れて間もなく、私は思いもかけぬ船長の言葉を、夫人に知らされたのだった。晩年の日録の一頁に、彼は概略次のように記していたというのである。
「人生は単純なものである。人がおそれるのは、畢竟一切が徒労に帰するのではないかということであるが、人生においては、あらゆる出来事が偶発的な贈与にすぎない。そのおかえしに書くのである。正確に、心をこめて、書く。――それがための言葉の修練である」
私は暫く、夫人に云う言葉がなかった。
(強調原文、河原晉也遺稿『幽霊船長』、文藝春秋社)
「船長」「彼」とは戦後日本を代表する詩人のひとり、鮎川信夫のことである。時空が逆転したのだろうか。このことばを発したのは鮎川なのか私なのか。目の前を一匹のアオスジアゲハがひらひらと横切った。
艱難と悲惨を嘗め尽し、悶死した者であろうと、栄華をきわめ、欲に溺れ、諸悪の泥濘にまみれきった者であろうと、漣のように静謐で、足るを知り浄福にみちた境涯であろうと何のちがいがあろう。ちがいをうんぬんすることに何の意味があろう。世に生れ落ちるなり逝った赤ん坊、深甚なトラウマを抱えたまま捨て置かれた者、実の親から虐待を受けてなお、自らを責めながら死に至ったおさな子、重篤な知的障害あるいは認知障害を負った者、冷たい石のように眠り続ける者、無念の思いを遺しつつ憤死した者、ひとを殺めながらうすら笑いを浮かべる者、いっさいを神に捧げきった者、諸学諸芸、叡智と技を極めた者、ひたすら平々凡々、何もなかったと胸を撫で下ろす者、逆にそれを嘆息する者、愛に躓き、それゆえの負い目をもつすべての者――どのような生であれ、ひとしく〈無〉ではないという以上の何ものでもない。生は自らにそのありかたを、「いかに」を問うたりはしないから。「ある」はただただ「ある」それのみ。このとき「ある」はなにも意味しないが、同時にすべてが尽くされている。鮎川の言ったとおり、何人のどんな生であろうとたまさかにすぎず、いかなる意味とも無縁ゆえ、ただひとつきりでこのうえなく純粋な贈り物にほかならない。
これっきり。一度きり。ただそれだけ――このにべもない瞬間がむしろ永遠の相をおびてみえるのは、時のただ中にありながら、時に回収されないからである。比べるもののないこの生、それ自身がおのずから発する「これでいいのだ。」という声――自らにも聴こえないこの声を、私は亡霊の声と呼ばずにおれないのだ。この声はどんな認識によるものでもなく、どんな価値判断にもとづくのでもない。それらすべての認識や価値のかなたにあって、ただ「ある」というそのことが、それゆえにかなでる無償の声である。音もなく立ち起こり、あらゆるところにいつのまにやら浸透するその声は、無数の互いにあずかり知らない生がもろともにかなでる唯一無二のひびき――〈世界音〉である。それは絶対のなにかを宿しながら、世のどこにも、誰にも届くことはないのである。
私はただ一輪の花を手向け、虚空を抱きしめる。
萩野篤人
(第08回 最終回 了)
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*『人生の梯子』は24日にアップされます。
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