時間の本質を解明するための大学院に進学するかどうか迷っていたアンナの部屋に、突然少年が現れる。またあの日時計の不思議な作用だ。少年はアンナにあるミッションを果たすよう伝えに来たと言い、アンナは再び異世界に旅立つ・・・。ルーマニア人能楽研究者で翻訳者でもあるラモーナ・ツァラヌによる連作短編小説!
by 金魚屋編集部
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朝目覚めた瞬間、無性にロッククライミングに行きたいという衝動が湧きあがった。部屋の窓から見える、初夏の明るい光に照らされた輝くような青々とした山が僕を呼んでいた。これほど強烈に山に行きたいという衝動に駆られたのは初めてだった。
ただ今日は大学でけっこう大事な授業がある。ベッドに起き上がってしばらく新緑に覆われた山を見つめた。行きたい、やっぱり行きたい。ふと長い間会っていない母親が「どんな時も自分の心の声に従いなさい」と言っていたのを思い出した。悩んでいる時はいつも自分の心を信じるようにと。母親の懐かしい瞳と笑顔が目の前の山と重なった。母もこの山が大好きだった。
「じゃ、お母さんの言葉に従うことにするよ」
母親の言葉を免罪符にしていいものかと思ったが、それで心が決まった。授業をサボることになるがジュリーがいる。彼女に助けてもらうことにしよう。ジュリーは僕の彼女。大学の同級生でもあり受講している授業はほとんど一緒だ。彼女も山登りが大好きだ。
ベッドから飛び起きるとジュリーに「急だけど山に行くことにしたよ。授業のメモよろしく」とメールを打った。すぐに返信が来た。「ひどい!! 蓮が期末試験に落ちても知らないよ!!」
怒っていたが「私も行く」と言わないのがジュリーだ。ちゃんと授業のメモを取ってくれるようだ。帰って来たら責められるだろうけどまあいい。あとで素敵なカフェとかに連れて行って埋め合わせしよう。
僕はクライミング用の道具を車のトランクに詰めるとすぐに出発した。どこまでも広がる澄んだ空が山の輪郭を包んで輝かせていた。車の窓から入る風が気持ちいい。山に近づくにつれ、こんな日に授業に行くなんて損だとしか思えなくなっていた。
車を走らせながら今日はどの岩場に挑戦しようかと考えた。慣れた山だからだいたいの岩は攻略済み。クライミングにかかる時間の記録更新に挑戦しようか。いや、それより去年の秋に登った岩壁に今頃どんな植物が生えているのかゆっくり見てみよう。そう考えて目標を決めた。
目当ての岩場の近くに車を止め、ハーネスやヘルメットを装着してから岩のふもとまで歩いた。朝の光に照らされた岩壁は眩しいくらいだった。道具を取り出し支度を始めた。
「助けてー」
微かに叫び声が聞こえた。女の人の声だった。
「誰かーっ、お願いーっ」
鳥肌が立った。「遭難者だ!」
声が聞こえてくる方向へ駆け出した。山道から下を覗き込んだが人の姿は見えない。
「大丈夫ですかーっ、声を出してください!」
一瞬間を置いてから「助けてくださいー」と声がした。
五メートルほど下のトレイルのあたりで、石場が崩れて藪の枝が折れているのが見えた。岩場が崩れて下に滑落してしまったようだ。姿が見えない女の人は岩場より下にいることになる。
「落ち着いてください、すぐ行きます!」
そう叫んだが、ロッククライミング歴七年以上とはいえ人の救出はしたことはない。山岳救助隊を呼んだ方がいいのだろうが大怪我していたら大変だ。怪我の状態を確かめるためにも下りることにした。
アンカーを確保し、ロープを二本身体に巻いてから岩場を下り始めた。
トレイルまで下りるのは簡単だった。岩壁にアンカーを打って支点とし、身体を大きくのけぞらせて遭難者を探した。さらに五メートルほど下の大きく突き出た岩に横たわっている女の人が見えた。平らな個所がある頑丈そうな岩だ。崩れる心配はなさそうだ。
ただ服を見て唖然とした。白いシャツにジーンズ、そして街歩き用のスニーカーだ。シャツやジーンズがところどころ血で赤く染まっている。どうしてこんな格好で山に来たのだろう。飛び降りでもしない限り、あんな格好でトレイルまで下りられるはずがない。
「頑張ってください。真横に下りますから」
滑落した理由はともかく、救助できるならしてあげたい。もう一本アンカーを打ってからゆっくり下り始めた。女の人が僕を見上げた。ハッとした。
〝母だ、若い頃の母だ!〟
心臓が口から飛び出るほど激しく脈打った。同時に母がなぜここにいるのか、その理由がわかった。時間移動に使っている日時計のせいだ。古い日時計は扱いが難しく、しばしば設定した行き先とズレることがあった。街の喧騒の中に着いてしまったり車道の真ん中、海の中に着くこともあった。僕も子どもの頃、何度もそれで危ない目にあった。母もきっと設定した行き先とズレてしまったに違いない。
いつかこんな日が来るのではないかと思っていた。確率は低いが時間旅行している母が僕の目の前に現れる可能性はゼロではない。それが本当になったのだ。ただ彼女は怪我をしている。まずは救助だ。
「じっとしててください! すぐ行きますから!」
大声で話しかけながら岩壁を下り切った。
「ありがとう」
母が僕の目を見て言った。
「骨折してるんですか?」
岩に下りて最初に確かめた。腕や足を骨折していたらお手上げだ。山岳救助隊を呼ぶしかない。「右半身を強く打って痛いですが、折れてないと思います」
僕は考えた。トレイルまで約五メートル、そこから崖上まで五メートル。それなりの距離だが骨折してないなら救助できるだろう。
「山岳救助隊を呼んでもいいんですが、到着は早くて昼過ぎ、もしかすると夕方になるかもしれません。ここにいるより、骨が大丈夫なら僕が引き上げますから登った方がいい。登れそうですか? やり方は僕が指示します。岩の窪みに手や足をかけて、多少体重の重みを軽くしてもらえればいいんです」
「やります」母は僕の目をじっと見つめて言った。
ハーネスを脱いで母親の身体にしっかり装着し、ロープで固定すると僕はフリークライミングでトレイルまで登った。
「いいですか、まず右上の岩に手をかけて。そうです、引き上げますよ」
思ったより母親の身体は軽かった。
「そう、上手ですよ、今度は左腕を伸ばして突き出た岩をつかんで。大丈夫、ロープで支えていますから」
ギアも使って僕は母親の身体を引き上げた。トレイルに座り込んだ母はハアハアと口で息をしたがまだ余力がありそうだ。「少し休んで岩壁の上まで登りましょう」そう言うとコクリとうなずいた。
またフリークライミングで岩壁の上まで登ると僕はロープを両手で握った。足場もアンカーもしっかりしているのでトレイルの時より力を入れることができた。
「今度は手や足に触れる岩をつかむだけでいいですから。引き上げますよ!」
僕は力任せにロープを引っ張った。母親が伸ばした腕が見えるとロープを固定し、腕とハーネスをつかんで岩壁の上に引き上げた。
僕も母も土の上に座り込み、口で息をして言葉が出なかった。力を使ったからだけでなくようやく滑落の緊張感から解放された。
「ありがとう」
しばらくして母が呟くように言った。安堵からなのか目に涙を浮かべていた。
僕は母を見た。僕が知っている強い母ではなかった。見たことのない弱々しく無防備な母だった。「時間移動の仕組みは残酷だ」という父親の言葉が頭に浮かんだ。
ただ考えているひまはなかった。岩場を登り切ったが母は怪我をしている。その手当が先だ。「ちょっと待っててください」と言うと急いで車に救急箱を取りに行った。
「水を飲んでください。落ち着きますから」
ペットボトルを手渡したが両手でつかむ力が弱々しい。僕は手を添えてペットボトルを傾かせ、ゆっくり水を飲ませた。左腕の上から肱にかけて大きな裂傷があった。左肩から滑落したようだ。これでよく岩場を登れたものだ。
「この傷は深そうだ。病院に行きましょう」
母がハッとした顔で僕を見た。思いがけず力強い声で「私、大事な会議に行かなきゃならないんです」と言った。
僕は黙った。今さらだが母がここに現れたのには理由があることに気づいた。どんな任務なのかはわからない。しかし必ず果たさなければならない任務のはずだ。
「その会議が開かれる場所はどこですか?」
「山のふもととしか聞いていないんです」
「そうですか・・・・。じゃ、その傷を応急手当てしてから山のふもとに行ってみましょう」
そう答えるしかなかった。任務は果たさなければならない。
「染みますよ」消毒液で傷口を洗うとうっ血しないくらいの強さで繃帯を巻いた。顔をしかめたが母は黙って耐えた。
「わたし、アンナです。改めて、助けてくださってありがとう」
車を走らせてしばらくして母が口を開いた。
「蓮です。山のふもとに行ったあと、すぐ病院に行きますからね」
何かを強く感じたのだろう、助手席から母がじっと僕の横顔を見つめていた。隣に座っているのは僕を産む前の母だ。ただそれがいいことなのか危険なことなのかわからなかった。
「アンナさんが参加しなきゃならない会議って、なんの会議ですか?」
母の気を逸らすように言った。
「時間に関する、会議なんです・・・」
「時間をテーマにした会議なんですね」
僕はそれ以上訊かなかった。母も言葉を発しなかった。
もしかすると時間の護衛士の集まりなのか? 僕も何度も参加したことがあるが、時間の護衛士の集まりって通常は時間の〝外〟で行われるんだ。異次元でしか行われないものだ。そもそも場所が〝山のふもと〟というのは曖昧過ぎる。本来ならもっと具体的な指示があるはずだ。
「〝会議〟で間違いないですよね?」
母は頷いた。
「分かりました。この辺で大きな会議ができる場所は二つくらいあって、とりあえずそこを当たってみますね」と言うと僕は車を走らせた。
小一時間ほどでふもとの文化センターに着いた。大きなホールのほかに小さな貸し会議室のある街一番の巨大な建物だ。
「待っててください」
僕は車に母を残して文化センターの受付に向かった。しかし〝時間〟に関する会議は開かれていない。もう一つ、大学の講堂に行ってみたが何のイベントも開かれておらずしんとしていた。
どこなんだろう・・・。護衛士の会議に連れて行かなければ母は任務を果たせない。任務を果たせなければ無限ループで同じ出来事を何度も繰り返すことになりかねない。なんとしても場所を突き止めなければならない。
「ここでもないようです」
「そうですか・・・」
ハッとした。母の声が弱々しい。助手席を見るとうつらうつらしている。額に手を当てると熱い。怪我のせいで発熱し始めていた。
「病院に」という言葉を僕は飲み込んだ。
病院に行くと手当に数時間はかかるだろう。場所を突き止めるのが先か、病院か。迷ったが僕はジュリーに助けを求めることにした。もう授業は終わっている時間だ。
「ジュリー? 緊急事態なんだ。山で怪我してる人を見つけてね。とりあえず僕の部屋に運んで手当したいんだ。ドラッグストアに寄って湿布と包帯、解熱剤なんかを買ってきて欲しいんだ」
「え、そうなの? わかった、すぐ用意して行くわ」
家に着き、肩を貸して母を歩かせようとしたが足元が覚束ない。一軒家だけど階段がある。
「抱えて階段登りますよ。僕の首に両腕でつかまって」
母はうなずくと両腕を僕の首に回した。僕は母を抱えて階段を登った。妙な感じだった。
母をソファに寝かせて毛布をかけた。彼女が首にかけている日時計が目に入った。ふと、禁じられているがそれを使って助けを呼ぼうと思いついた。眠りかけている母に気づかれないようにそっと日時計を取り外して自分のポケットに入れた。
しばらくするとチャイムが鳴った。ジュリーだった。
「何があったの?」という彼女の質問に答えずそのままリビングに通した。ソファに横たわっている怪我人の顔を見た瞬間、彼女は目を大きくした。
「この方はもしかすると…」
「そう」僕が頷いた。「母さんだよ。まあ、若い頃の彼女だけど。何かしらの任務でこの次元にやってきたみたいなんだ」
ジュリーも僕と同じ、子どもの頃は時間の護衛士になるための教育を受けていた。僕たちが中学生になる頃に時間移動の技術が禁じられた。新しい規則に馴染めず二人とも落ち着かない日々を過ごしているうちに心が通じ合う親友になった。高校を卒業してからついに恋人になった。
ジュリーは子どもの頃僕の母に会ったことがあるし、母が突然いなくなってからも何度も彼女の話をしたことがあるから、顔を見てすぐに母だと分かった。
母親の腕の繃帯に滲んだ血を見るとジュリーは手当に取りかかった。
「これ飲んでください」
ジュリーは母の舌の上に解熱剤の錠剤を置き、コップで水を飲ませた。
「母が果たさなければならない任務に怪しいところがあってさ。パソコンでちょっと調べてみるよ」
そう言うと僕は二階に駆け上がった。
彼女に嘘をついて申し訳ないけど、今から母の日時計を使って別次元から助けを呼びに行くとは言えなかった。禁止事項だから絶対反対されるだろう。
しかし任務を果たせない母を時間の無限ループの中に放り出すわけにはいかない。危ない状況なので、規則を破ってでも助けを呼ぶことにした。
ポケットから日時計を取り出すと、窓を開けて西日にかざした。幼い頃母が「電子機器が使えない未来だってあり得るんだから」と言って教えてくれた方法で操作してみた。
まず日時計を僕がいる次元の座標に合わせる。それから日時計をSOSの穴に合わせて発信した。これでこの日時計がもとにあった次元の護衛士たちにSOSシグナルが届くはずだ。古い日時計でしかできない全方向SOSで、今では禁じられた緊急シグナルだった。
シグナルを送っても何も起きなかった。確実に誰かが助けに来てくれる保証もない。もうシグナルが届かないよう設定されている可能性もある。
一階に下りるとソファに横になった母とジュリーが小声で話していた。いつかこの二人に再び会って欲しいと思っていた。異常な形だけどその夢がかなった。
ジュリーが僕に気づいて顔を上げた。笑顔で口を開きかけた瞬間、彼女の動きが止まった。
部屋の中に突然青白い光が広がった。スッと光りが消えると麻のジャケットにチノパン姿の男の人が立っていた。
「父さん!」
僕は叫んだ。ただ記憶の中の父よりずっと若かった。まだ二十代に見えた。
「お前は日時計に触れてはならない、忘れたのか」
久しぶりに会ったのに父はいきなり冷たく厳しい言葉を発した。僕はカッとした。
「だって緊急事態じゃないか!」
「日時計をよこしなさい」
「取ろうとしたわけじゃないよ」そう言ったが僕は父が差し出した手の平に母の日時計を置いた。
日時計を握るとと父は母が横になっているソファへ向かった。
「各務さん、こんばんは」
「ジュリー、お久しぶり。この人の怪我を見てくれたんだね。ありがとう」
僕に対してはとげとげしい口調なのに、ジュリーとは優しく会話ができるんだ。〝彼女みたいな気立てのいい娘が、お前と付き合ってくれるのは奇跡だ、大切にしろよ〟と父が昔、冗談交じりに言ったのを思い出した。
母は顔を向けて父を見た。夫だとわかっているのだろうか。何も言わずに見つめた。目の前にいるのに明らかに違う次元に心が飛んでいた。僕は不安になった。
「父さん、母さんは無限ループに陥っちゃうの?」
「いや、ちゃんと任務を果たしたんだよ」
父は微笑んだ。
ハッとした。この部屋にいるのは僕とジュリー、そして父と母だ。つまり時間の護衛士ばかりだ。
「護衛士の集まりって、これか・・・」
「おじいさんとおばあさんからのプレゼントのようだね」
「そうか」
これで母が受けていた指示の曖昧さの謎が溶けた。子どもの頃よく会っていたおじいさんとおばあさんの笑顔が頭に浮かんだ。
時間移動の技術は古くから存在していたが、いつの間にか失われてしまった。それが父と母の研究によって復活し、再び使えるようになったのだった。色々な探検の旅に行けるようになった二人は時間移動の安全性を守る「時間の護衛士」という人たちに出会い、やがて二人とも護衛士になった。その後、時間の力を借りる技術の使い方とその理念を教える研究所を開いた。研究所の
附属学校に通っていた僕とジュリーやその他の子どもたちは護衛士としての教育を受けていた。
しかしある日突然、時間移動が危険だと判断され禁止された。そして父を始めとする護衛士がそれを厳しく管理し始める前に、母は忽然と姿を消してしまった。理由はわからない。もしかすると時間移動を復活させた研究者として、また時間の護衛士として、彼女は特別な任務を負っているのかもしれない。
あの時から母に会っていない。時間移動に使える装置や時計はすべて回収されたので探しにも行けなかった。ただ今なにか母に重要な〝時〟が訪れて、おじいさんとおばあさんが僕と母を再会させてくれたのだろう。
「父さん、母さんを僕のいる世界に連れ戻して、父さんと三人で暮らすことはできないの?」
「できない。僕にできるのは、母さんを元の世界に連れ戻してあげることだけだ」
父はキッパリ言い放った。
「お前は時間移動してはならない」
「どうして? 僕だって母さんを探したいよ」
「それはいけないと分かっているはずだ。お前には守るべき大切なものがあるじゃないか」
父は視線をジュリーに向けた。「時間移動を使わないほうが幸せなんだよ」
そうと付け加えた。
「帰ろう」
ジュリーに手伝ってもらい父が母の肩を抱いて立ち上がらせた。
僕は父に寄り添う母を見つめた。僕たちの声は聞こえていないようだった。
父と母の姿が青白い光に包まれた。一瞬ののち、二人の姿はフッと消えた。
父は未来を自由自在に行き来することができる。母も。でも僕は使えない、固く禁じられている。それがとてつもなく理不尽に思われた。
「なぜ自由に時間旅行できないんだろう、どうしたら勝手に決められた時間旅行禁止ルールを覆せるんだろう」
父と母が消えた空間を見つめながら僕はそう考え始めていた。
「ね、今から山頂の天文台に行かない? 星の観測に」
何ごともなかったようにジュリーが言った。
「あ、うん」
「晩ご飯、どうする? サンドイッチ作ってそこで食べようか」
「天文台でピクニック? いいね」
「じゃあ一緒に作ろう。手伝って」
明るい笑顔を見せてジュリーが立ち上がった。きっと僕のモヤモヤした気持ちを察してくれたんだろう。愛おしかった。
僕は考えるのをやめて、今のジュリーとの時間を大切にすることにした。
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目が覚めると自分の部屋にいた。気持ちのいい朝だった。
すぐ胸元に手を当てたがちゃんとチェーンにつながれた日時計があった。
昨日の出来事が少しずつよみがえった。日時計を使っておじいさんおばあさんの家にお礼に行った。そこにもう一人、大事な人がいたはずだが顔が思い出せない。それから山のことを思い出した。大怪我をして誰かに助けてもらった。三人の影が記憶をよぎったが、彼らが誰だったのかも思い出せない。ただその三人のことを思うと愛おしさが湧き上がった。
シャワーを浴び化粧するとアンナは部屋を出た。大学院での初日だった。曖昧だが温もりあふれる感情がずっと残っていた。
ロッカールームはしんと静まり返っていた。まだ誰も来ていない。アンナはロッカーから真新しい白衣を出した。白衣を着てボタンを留めると心と身体の奥底から意欲が湧いてきた。研究室のドアに行こうとしてふとロッカーの名札が目にとまった。「R.A. KAGAMI T.」とあった
「KAGAMI? あの各務さんが山根教授のリサーチ・アシスタントってこと?」
驚いた。しかしなぜだかそれが当然のような気もした。胸が高鳴った。
実験室のドアを開けアンナは中に入った。パソコンを立ち上げると時間の遅速に関する実験データを表示させ、書棚から関連資料のファイルを抜き出した。
研究に取りかかりながらアンナは研究者の仲間たちがやって来るのを待った。なによりも昨日のオリエンテーションに現れなかった各務が「おはよう」と言いながら、実験室に入ってくるのを心待ちにした。
(後編 了)
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