自由詩は現代詩以降の新たな詩のヴィジョンを見出せずに苦しんでいる。その大きな理由の一つは20世紀詩の2大潮流である戦後詩、現代詩の総括が十全に行われなかったことにある。21世紀自由詩の確実な基盤作りのために、池上晴之と鶴山裕司が自由詩という枠にとらわれず、詩表現の大局から一方の極である戦後詩を詩人ごとに詳細に読み解く。
by 金魚屋編集部
池上晴之(いけがみ・はるゆき)
一九六一年、東京都生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒。批評家。編集者として医学、哲学、文学をはじめ幅広い分野の雑誌および書籍の制作に携わる。新刊に、文学金魚で連載した「いつの日か、ロックはザ・バンドのものとなるだろう」に書き下ろしを加えた『ザ・バンド 来たるべきロック』(左右社)。
鶴山裕司(つるやま ゆうじ)
一九六一年、富山県生まれ。明治大学文学部仏文科卒。詩人、小説家、批評家。詩集『東方の書』『国書』(力の詩篇連作)、『おこりんぼうの王様』『聖遠耳』、評論集『夏目漱石論―現代文学の創出』『正岡子規論―日本文学の原像』(日本近代文学の言語像シリーズ)、『詩人について―吉岡実論』『洗濯船の個人的研究』など。
■三好豊一郎篇■
鶴山 今回は三好豊一郎と中桐雅夫、北村太郎さん篇です。「荒地」の詩人たちの中である意味で最初の人たちです。三好さんは「荒地」の詩人の中で最初に詩集を出した。資料として「主要「荒地」同人の生没年」と「主要「荒地」同人の詩集刊行年」をまとめましたが、三好さんの『囚人』は昭和二十四年(一九四九年)の刊行です。それに対して中桐、北村さんの詩集刊行年は遅い。『中桐雅夫詩集』は昭和三十九年(一九六四年)、『北村太郎詩集1947-1966』が昭和四十一年(一九六六年)ですから『囚人』より十五年、十七年も後です。昭和三十一年(一九五六年)版『経済白書』に「もはや戦後ではない」と書かれ、高度経済成長が始まった時期にようやく詩集が出た。
最初の詩集刊行年は詩人の成熟度の表れです。早熟だから優れているとは言えませんが三好、吉本、黒田は昭和二十年代に詩集を出している。この三人の顔ぶれを見るとなんとなくその理由がわかりますね。吉本さんは最年少で『固有時との対話』刊行は「荒地」参加以前です。一人独自の思想を育んでいた。黒田さんは「荒地」の前に北園克衛の「VOU」に参加していて、かつ「荒地」では唯一の抒情詩人です。三好さんは、まあ大変失礼な言い方ですが「荒地」主要同人の中では一番影が薄い。この三人は「荒地」の中では独自路線を行っていた。
それに対して「荒地」中核となる鮎川さんと田村さんは一年違いで詩集を出しています。初期からの「荒地」同人の中で田村さんは最年少でしかもすごく勘が良かった人ですから、リーダー格だった鮎川さんの詩集のまとめ方をじっと見ていたのかもしれない。中桐、北村さんも「荒地」というとすぐに思い浮かぶ詩人ですが鮎川―田村とはちょっと距離がある感じです。語弊はありますが鮎川―田村という「荒地」中核となった詩あるいは詩人たちを補完した詩人たちという印象です。
〝「荒地」で最初の人たち〟に戻りますと『荒地詩集1951』年版の巻頭は北村さんです。二番目が三好さんで「囚人」を始めとする薄い詩集一冊分くらいの詩が掲載されている。鮎川さんは『現代詩文庫 北村太郎詩集』の裏表紙に「戦後の「荒地詩集」が、北村太郎から始まっているのは偶然ではない」と書いています。鮎川さんは「Xへの献辞」を無署名で発表するなどちょっと韜晦癖があった人ですが、これは〝俺が北村の詩を巻頭に置いたんだ〟と言っているようなものですね。『荒地詩集1951』年版刊行当時、最も完成度が高く優れた詩を書いていたのは北村、三好さんだった。
中桐さんは神戸でモダニズム詩誌「LUNA」「LE BAL」を出していた。鮎川、田村、北村さんらが参加しています。中桐さんは若い詩人たちを引っ張る革新的詩人だった。そういう意味で彼も〝「荒地」で最初の人〟。中桐さんは難を逃れましたが神戸詩人弾圧事件が起こりましたね。飯島耕一さんが興味を持って調べていました。中桐さんは社会主義思想と無縁でしたが当時神戸モダニズムというものがあった。
中桐さんは東京の詩人たちとは異なる詩に関する知見・情報を持っていたわけで、彼が神戸から東京に家出して来た昭和十四年(一九三九年)に「荒地」派の素地が出来上がったと言っていい。あ、それに森川義信の「勾配」ですね。「勾配」も昭和十四年発表です。森川が応召前に当時の検閲ギリギリの思想詩を書いたことで鮎川さんたちはそれまでの皮相なモダニズム詩からの脱却を始めた。ただし鮎川さんは「中桐雅夫が〝revolutionist〟(革命家)だったのは、戦前〝LE BAL〟を編集していた期間だけである」(『中桐雅夫全詩』解説)と例によって冷たく正確な批評を書いています。中桐さんの詩集刊行が遅れた理由でしょうね。
今言ったような総括は必ずしも文書資料で残っているわけではないですが、それほど的外れではないと思います。僕は戦後に刊行された手に入りやすい詩誌を端本でちょこちょこ集めていますが、実際に「櫂」とか「鰐」、「凶区」「書紀」などを読んでみてもなぜこれらの詩誌が有名なのかちっともわからない。それには理由があって雑誌とはいえ公刊する媒体に詩や評論を載せるときは誰もが外行きの顔をしている。ただ雑誌に表れないところで熾烈な競争を含めた相互影響がありました。それは本気で同人誌をやったことのある人ならわかるはず。「荒地」は身も蓋もない相互批評集団だったと鮎川さんらが書いていますが「荒地詩集」を読んでもそれはかなりソフィスティケートされていますね。
池上 鮎川信夫が「中桐雅夫が〝revolutionist〟だったのは、戦前〝LE BAL〟を編集していた期間だけである」と言っているのは、どういう意味なんでしょう。
鶴山 鮎川さんも中桐さんも英米詩系ですが見ているところが違ったということでしょうね。それに中桐さんの初期詩はまあ本当にモダニズムとシュルレアリスムのストレートな混交です。でもそこにときおりハッとするような社会批判が入り混じる。今から振り返るとわずかな違いですが当時は新鮮だったんでしょうね。北村さんが「中桐は昔から仲間うちで「詩の学校の先生」といわれていたほど、詩の技巧にうるさい人だった」とも書いてもいます。
で、一番やりにくそうな三好豊一郎さんから始めましょうか。池上さんは三好さんに会ったことがありますか?
池上 ないです。
鶴山 僕も見たことはありますがお話したことはないんです。
池上 ぼくは、若い頃は三好豊一郎の詩にはあまり関心がなかった。
鶴山 三好さんは一九八〇年代くらいにはもうリタイアした詩人というイメージが強かったですね。それは半ば当然で、三好さんと中桐さんは詩集の数がものすごく少ない。三好さんが四冊、中桐さんが三冊です。そのくらいの冊数で詩史に名前を残している詩人たちもいるわけですが、戦後の長寿社会の中ではやはり少ない。戦後は小さいながら詩壇ジャーナリズム全盛期でもありますから詩集を出し続け、活動し続けていることが詩人の評価に繋がった面が確実にある。近過去の印象は強いですからね。ただ三好さんの詩の評価は高くないですが、僕は昔から過小評価だと思っています。いい詩人です。三好さんの詩の土壌、ファウンデーションがほかの「荒地」詩人たちとだいぶ違うのがその理由でしょうね。
三好さんは『内部の錘』(昭和五十五年[一九八〇年])という評論集を出しています。長い評論のラインナップは萩原朔太郎、三好達治、尾形亀之助、金子光晴です。小論で取り上げているのは吉田一穂、中原中也、高橋新吉、草野心平、西脇順三郎、村野四郎、瀧口修造です。「荒地」の詩人で本格的に論じているのは黒田三郎だけ。モダニストが混じっているのは当然として達治、亀之助、光晴、新吉、心平を本格的に論じた「荒地」詩人はいません。このあたりが三好さんの詩の骨格だと思います。
池上 三好豊一郎は「歴程」同人になっていますが、彼は元々「歴程」の詩人でもおかしくなかったと思います。
鶴山 詩の書き方の骨格がちょっと古いですよね。
池上 そのあたりが、ぼくが三好豊一郎の詩にあまり関心を持てなかった理由なんです。
鶴山 三好、田村、中桐が「歴程」に加入した時、北村さんが「歴程」なんかに入りやがってといった感じの文章を書いていますよね。「歴程」ではないですが三好さんは現代詩人会に加入した経緯について「「ミヨシ君ちょっと」と村野さんに呼ばれ、やや人ごみから離れた椅子に並んで腰をおろした。話は、現代詩人会に入会しないか、というすすめであった。(中略)私はハイと答えた。実をいうと、ハイと答えざるを得ないものがそこにあった」と書いています。三好さんは村野さんのような先輩モダニストを尊敬し親近感を抱いていた。「荒地」の中ではちょっと孤立していたかもしれない。
池上 地理的にも孤立していたでしょう。鮎川信夫、田村隆一、北村太郎は東京の都会っ子で、住んでいるエリアも近かったけど、三好さんは生涯八王子ですよね。
鶴山 現代詩文庫の『三好豊一郎詩集』で吉増剛造さんと土方巽という、あまり散文を書かない二人が珍しく長文の解説を書いています。どちらもいい文章です。『囚人』という詩集が戦後詩の第二世代に大きな影響を与えたことがよくわかります。また土方さんの最初の舞踏公演「肉体の叛乱」は三好さんの「基督磔刑図」などの文章や詩からインスパイアされた気配がある。
池上 三好豊一郎と土方巽はかなり親交があったようですね。
鶴山 土方さんはその後澁澤龍彦グループに接近して加藤郁乎や吉岡実と深く交流するわけだけど、初期は三好さんに強く惹かれていたようです。
池上 ぼくは中学三年生で有名な「囚人」を含む三好豊一郎の初期の詩を『荒地詩集1951』で読んでいましたが、その時に作品から抱いた三好豊一郎という「荒地」の詩人のイメージと、大学生になってから読んだ一九八〇年代の詩から受ける印象はずいぶん違うなと思いました。
しかし、三好豊一郎が戦後詩で果たした役割は決定的に重要です。三好は戦時中に八王子で、タイプ印刷で数部しか作らなかった「故園」を刊行しています。この「故園」に鮎川信夫の「橋上の人」の最初のバージョンが掲載された。それを鮎川が戦地で受け取って読んだ。そして戦地で強い意志を持って「橋上の人」に再び手を入れた時が戦後詩の始まりだとぼくは思っているんですが、そのきっかけを作ったのが三好豊一郎です。
それには理由があって、三好豊一郎は結核で召集されなかった。だから戦中も詩を書き続け同人誌を出すことができた。そして、これは鮎川信夫のアイデアだったのか、三好自身の意向だったのかはわかりませんが、戦時中に書かれ、タイプ印刷の無題の同人誌に発表された「囚人」を、『荒地詩集1951』で「戦後詩」として提示した。このことが、三好豊一郎を戦後詩人だと強く印象づけたのだと思います。
鮎川信夫と吉本隆明の対談「戦後詩を読む」の中では、三好豊一郎の代表作として「囚人」と「われら五月の夜の歌」を取り上げて論じています。「囚人」は比較的短い詩なので全篇引用しますね。
真夜中 めざめると誰もいない――
犬は驚いて吠えはじめる 不意に
すべての睡眠の高さにとびあがろうと
すべての耳はベッドの中にある
ベッドは雲の中にある
孤独におびえて狂奔する歯
とびあがってはすべり落ちる絶望の声
そのたびに私はベッドから少しずつずり落ちる
私の眼は壁にうがたれた双ツの孔
夢は机の上で燐光のように凍っている
天には赤く燃える星
地には悲しげに吠える犬
(どこからか かすかに還ってくる木霊)
私はその秘密を知っている
私の心臓の牢屋にも閉じこめられた一匹の犬が吠えている
不眠の蒼ざめたvieの犬が
鮎川信夫は「囚人」について、「軍隊から傷痍軍人として帰ってきて最初に衝撃を受けた詩だった」と言っています。最後の「不眠の蒼ざめたvieの犬が」については、「これが書かれたのは空襲のいちばんひどい時ですよね。三好というのは、こうやって外国語を詩になまのままで挿入するような男じゃないわけですが、それがフランス語でvieとそのままいれて詩を書いているということには、他の詩人の意識とか、時代とか社会、また大衆の意識とかそういうものから全然隔絶した世界というものが厳然としてある、ということがこの詩からすごく強く感じられて、それが非常に新鮮だった」と語っています。
これはモダニズムの詩法から来ているのかもしれないけれど、日本語の詩の中で外国語をそのまま使うことについてはどう思いますか。
鶴山 三好さんの初期詩では結核が非常に大きなテーマというか切迫になっています。彼は「囚人」を書いた時点ではもうすぐ死ぬと思っていた。もう長くないという意識が非常に強い。もうすぐ死ぬという恐怖と時代切迫意識が見事に混ざり合っちゃったのが「囚人」という詩だと思います。
「不眠」は死の恐怖と時代恐怖のダブルミーニングなんですが本質は死の恐怖でしょうね。vieは生命のことですが、当時の三好さんはそれを日本語で表現したくない、表現できないものとして捉えていたと思います。「生命」という言葉の意味の審級を変えるような形でvieを使った。その方が〝虚空に抜ける〟という感覚ですね。ほかにも横文字を使っている詩はありますが「囚人」ほど成功していない。切迫感がない。この詩を書いた時は追い詰められていたんでしょうね。「不眠の蒼ざめたvieの犬」は平たくいうと死ぬのが怖くて眠れないということだと思います。
『囚人』という詩集はとても面白くて「囚人」「巻貝の夢」「希望」「いけにえ」「抗議」「晩年」の六部構成になっています。『囚人』刊行時に三好さんは二十九歲ですが、若者とは思えない暗い詩集です。暗いことしか書いていない。戦争を体験したので「荒地」の詩人たちの初期詩は暗いものが多いですが、二十九歲で「晩年」意識を持っていたのは三好さんだけでしょうね。
また六部構成の詩のまとめ方も非常に意識的で計算され尽くされています。「囚人」は行分け詩、「巻貝の夢」は散文詩、「希望」「いけにえ」「抗議」は行分け詩、「晩年」は再び散文詩です。最終部にまた文字数の多い散文詩を持ってきている。しかも詩集最後に置かれた詩は「棺にそえて」です。棺桶に入っちゃってる。
しかし私は、蛆虫かゲヘナの火のなかにあって、おまえに告げる。私の愛したウィスキーグラスと、パイプと、ペンと、あたたかい希望そのもののような卓上の燈火と、机と、おまえのやさしい眼差しとを、私は熱烈に愛惜するものである、と。そうして無機物的な老耄期の世界と、索莫としたその夢とを嫌悪するものであると。
いまや分解すべき私は、私のかなしみにみちた誠なる愛をおまえにつげる。たえまない生成と消滅の秘密。あらざりしいっさいのもの、絶対的無窮の無のために、そしてそれをつらぬく一つの意志のために。
「棺にそえて」の最終二連ですがこれはほとんど辞世です。死への恐怖が「たえまない生成と消滅の秘密」「絶対的無窮の無」という形で上位審級に昇華されていますが、『囚人』という詩集を貫いているのは間近に訪れるであろう死です。詩集の構成を見ても『囚人』一冊で全てを書き尽くそうとしている。詩集の完成度が高いのは、三好さんが『囚人』一冊で終わってもいいという意識を持っていたからだと思います。
池上 「棺にそえて」の中に田村隆一が好んで使った「腐敗性物質」という言葉が出てきますね。初期「荒地」の特徴は、こうした詩語や表現の共有にあったとぼくは思っています。「われら五月の夜の歌」からは、初期「荒地」の共同性を読み取ることができます。
われらの耳は泥のなかに眠る
われらの眼は夜のなかにめざめる
われらの髪は風のなかにみだれる
風はわれらの眠る石のうえを吹く
石の上の黄金境
廃墟の橄欖樹
墓掘人夫の黄色い爪――
彼女は鏡のなか
水底に堆積する永劫の朽葉の間に眠る
欲望は囚われた夢の間を泳ぐ不安な魚である
「われら五月の夜の歌」の二連目ですが、「われらの耳は泥のなかに眠る/われらの眼は夜のなかにめざめる」という詩行なんて、田村隆一が書いていてもおかしくないでしょう。
鶴山 そうですね。異なる事物、風景などを羅列する詩法はモダニズムやシュルレアリスムから始まっていますが、それを心象風景化された戦後的現実事物、風景に結び付けたのが「荒地」の詩人たちです。その意味で特に初期は「荒地」的書き方というものが目立ちますね。その詩法を最初に意識的に使ったのが三好さんで、一番効果的に使ったのが田村さんだったと言うこともできる。『荒地詩集1951』年版では田村さんの詩が最後に置かれていますが。
池上 『荒地詩集1951』の編集は田村隆一がやったんですよね。
鶴山 初期「荒地」で絶対的影響力を持っていたのは鮎川さんですが、田村さんが一番威勢が良くて押しが強かった気配はあります。また編集人が自分の詩を雑誌やアンソロジーの最後に置く、目立たない場所に配置する気持ちはよくわかります。でも五一年当時の「荒地」の詩のレベルから言えば、田村さん巻頭というのはちょっとあり得ないかな。
三好さんの詩の完成度が高かったのは、ご本人が望んだわけではないですが結核で応召されず詩に専念できる時間的余裕があったからです。鮎川、田村、北村、中桐さんらは戦争末期の応召ですが二十代の二、三年のブランクはとても大きい。戦後すぐの時期は三好さんだけがたくさん詩を書き溜めていた。ご本人は不本意だったでしょうが病気療養のアドバンテージをキチンと活かした。三好さんの『囚人』が「荒地」の中で最初に出たのは当然だった。
池上 三好豊一郎が使った「腐敗性物質」という詩語は、後に田村隆一の詩集のタイトルにも使われていますが、三好豊一郎の詩が鮎川信夫以外の「荒地」の詩人たちに決定的な影響を与えたのかというと、そうとも言えないような気がするんですけどね。
鶴山 田村さんが『若い荒地』の中で、詩の相互批評の会で三好さんに自分の詩を批判されてビックリしたという意味のことを書いていますね。八王子の田舎者に思いがけず鋭い批判をされて驚いたと(笑)。三好さんは「荒地」の中で決して目立つ詩人ではなく、論客として認められている気配もなかった。若い詩人集団の中ではよくあることですが三好の『囚人』が出た時に〝してやられた〟という思いは同人たちにあったんじゃないですか。それから猛追が始まるわけですが。
『囚人』に「肖像」という詩があります。「肖像」は三好さん自身、自画像です。
おれが一個のとざされた苦悶の円環にすぎないとしても
おれにはおれの力がある
清らかな歯と涙がある
泥炭の没日 氷片の月の下
おれはおれのかがやく独房を完成しよう
末尾の詩行ですがこういう詩行に三好さんの詩の完成度の高さの理由と限界を読み取ることができます。三好さんは本質的には結核という病に蝕まれた「囚人」です。独房の中に閉ざされている。しかしこの病者には健常者にはない純な力がある。反語的に健康な精神を持っている。それが戦中の抑圧された社会と戦後の疲弊した社会の中で強い力を放った。
三好さんは結核が治癒してそれなりに長生きなさった。戦後の歩みは独房の囚人という位相から抜け出そうとする試みだと読めないことはないんですが、どうもそれができていない。外へ外へと精神の触手を伸ばすことができなかった。『林中感懐 詩集』とか『夏の淵 詩集』『寒蝉集 詩集』という東洋的平安の境地を強く喚起させるタイトルの詩集をお出しになりましたが、独房に囚われた囚人の精神性から抜け出せていないと思います。戦後社会に食い込むような詩を書いていない。後期の詩はお父さんが亡くなるまでの経緯とか、追悼詩が多いですね。
池上 戦時中に八王子で孤塁を守って、ある種独房みたいな状況に閉じこめられていたことが、そのまま彼の詩の世界になってしまったということなのでしょうか。
鶴山 自由な気風の大正モダニズムの時代を知っていて、ドンピシャで兵隊に取られることになった若者たちの苦悩は三好さんの詩を読むとよくわかります。
一九四九年・新年
孤独者のひそかな熱意をもって
僕は祖国を抱いている
それは純白な霧と 緑と 詩と 音楽と 善意と 苦痛への意志である
たぐいまれな美貌をもち お世辞にたけた女たちを警戒したまえ
未来に向きあってふるえている風見鶏よ
狂った傷痕のこの大きな窓をしめよう
これは課せられた生への困難な任務だ。
「一九四九年・窓」という詩の最終連ですが、三好さんは「孤独者のひそかな熱意をもって」敗戦から復興・新生した「祖国を抱いている」。それは「純白」で美しく見えるけど安易な希望を一切持っていない。「たぐいまれな美貌をもち お世辞にたけた女たちを警戒したまえ」「ふるえている風見鶏」とあるように、むしろそんなものに騙されるなと言っている。三好さんは決して消すことができない「傷痕」の残る「窓」を閉める。それが戦後の彼に「課せられた生への困難な任務」です。最後は句点でピリオドを打っていますね。こういった複雑な精神性は杓子定規な反戦や戦後的希望より遙かに重要です。日本の戦後詩の優れた点です。
ただ僕らがそれを正確に理解するのは難しい。鮎川や田村はもちろん、飯島耕一や吉岡実の詩にもこういった複雑な精神性が表現されています。三好さんは生涯「囚人」という位相から抜け出せなかったわけですが正直で優れた詩人です。「荒地」主要詩人の中で三好さんだけ全詩集が刊行されていないんですがもっと高く評価されていい。
池上 ボブ・ディランに「I Shall Be Released」という曲がありますよね。囚われ人が「いつの日にか私は解放される」と言っている歌詞なんですが、普通に考えれば囚人の状態にある人はそこから解放されたいと望むはずです。しかし三好さんの囚人は違いますね。
鶴山 違いますね。結核が三好さんの孤独な精神性を形作ったのは間違いないですが、『囚人』という詩集を読めば時代へのプロテストや戦死者への追悼もある。それは鮎川さんや田村さんと同じなんですが、三好さんの表現方法は彼らと決定的に違う面がある。世界を裏側から見るようなシニシズムの視点です。それを三好さんは亀之助、光晴、新吉、心平といった詩人たちから学んだんじゃないかな。三好さん偏愛の詩人たちです。
亀之助、光晴、新吉、心平といったラインは戦後詩から現代詩まで続く、いわばモダニズムラインに比べるととても捉えにくい。庶民派とか生活派、プロレタリアなどと言われたりしますが何を持ってきてもしっくり来ない。共通してハイカラなモダニズム詩法に背を向けた詩人たちであるのは間違いない。しかし肉に食い込むような批判意識がある。特に彼らの戦後の詩はそうですね。
僕は池袋モンパルナスに興味を持っていますが、高山良策という戦後に円谷プロで怪獣の着ぐるみをデザインした人も含まれています。初期円谷プロには旧陸軍で軍事攻略用のジオラマを作っていた人も参加していた。高山も従軍しています。彼らが『ウルトラQ』などで〝怪獣〟という新たな日本語を作ったわけですが、そこには高度経済成長で浮かれる人たちに冷や水を浴びせかけてやろう、平和な日常の奥に得体の知れない怪獣が潜んでいるんだぞという意図が込められていた。カネゴンとかね。亀之助は戦前の人ですが光晴、新吉、心平さんたちの戦後の詩にはそういった地に足が着いた批判意識があります。社会を斜に見て平手打ちを食らわせるような批判意識です。
池上 菊池有希さんが、「現代詩手帖」二〇二一年八月号で、一九四九年に三好豊一郎が「詩学」の第一回詩人賞に選ばれたことについて、選考委員の村野四郎らから「〝旧〟世代の詩人の作と近しいものがあると論評されている」と指摘しています(「一九七四年の一情景を描き出す」)。そう考えると、三好豊一郎は資質的には「荒地」派の詩人ではなかったと言ってもいいんでしょうかね。
鶴山 三好さんは吉本さんと並んで「荒地」の中では鬼っ子だよね。ただ例えば金子光晴は偉大な詩人でさ。反戦詩が高く評価されていますけどそれは彼の一部でしかない。思想化された強烈なシニシズムを持っていた。三好さんは非常に優れた金子光晴論を書いています。
(前略)彼は自分の批評精神の錘が、固定した思想を基とせず、常に感性的な自我、最も敏感な皮膚の表面、神経の末端から発していることを自覚し、それに頼っている。その背景にあるのは東洋的諦観だが、これは、生活人光晴には隠遁的文人的な趣味性としてはあらわれず、世界を没価値的なものとすることで自己を実存の底辺で支えるニヒリズムとなって、そこにひそかな自信をさえ確立させているのだ。
これが一見、彼を「現実に絶えずはじきとばされて」(北川冬彦)いるようにみせているが、彼ははじきとばされながら、確実に何ものかをつかむ老獪さを持っている。それは水面に浮いたウキが波や流れのままにたえず浮遊しながらも、その底に錘を沈ませているようなものである。彼はこういう態度が現代の動揺と騒乱の浮動常なき世界、確実なものが何一つない時代には、最も現実的で、確実な方法であることを体得しているのである。
(『内部の錘』「金子光晴」)
これは今まで書かれた中で最も正確で優れた金子光晴論です。三好さんの読解範囲は狭いですから光晴を相当読み込んだんでしょうね。ただ三好さんに光晴的な〝錘〟があるかというと心もとない。晩年は「隠遁的文人的な趣味性」に近づいていったのも事実。亀之助、光晴、新吉、心平らのシニシズムと戦後詩のハイブリッドと捉えた方がいいんじゃないかな。
池上 『荒地詩集1951』に収載した「Magic Flute」というタイトルの詩があります。長い詩なので部分的に引用しますね。
宇宙は千古の氷河の上に懸かつてゐる
薔薇はダイナモを藏してゐる
蒼ざめた蠟燭は裸形を照らす
誰も知らない時 僕は誰も知らない海の底に降りて行つた
君の肉體の彈奏する謎の欲情を垣間見たと信じた
僕は盲目の海底を手さぐりで進んだ
戯れにしてはあまりに苦しい
眞實にしてはあまりに尊嚴にすぎる
僕は再び浮きあがつては來ないであらう
三好豊一郎にしてはエロティックな詩です。「Magic Flute」というタイトルは、モーツァルトのオペラ『魔笛』のタイトルから取っているのかなとも思えますが、『荒地詩集1951』で外国語の題名の作品はこれだけです。この詩だけ見るとモダニストと言っていいような感じがします。
鶴山 「Magic flute」は現代詩文庫『三好豊一郎詩集』には収録されていませんね。
池上 初版には入ってますよ。サンリオ版『三好豊一郎詩集』では、「MAGIC FLUTE」として独立させています。『囚人』は、いろいろ構成を変えてるみたいですね。
鶴山 細かく比較してないけど、詩人が初版詩集の内容に手を入れたり構成を変えたりするのはあまり感心しないな。後ろ向きな感じがする。
池上 あまり指摘する人がいないんですが、実は代表作の「囚人」にも手を入れているんです。『荒地詩集1951』では、冒頭の四行はこうなっています。
眞夜中 眼ざめると誰もゐない――
犬は驚いて吠えはじめる 不意に
すべての耳はベットの中にある
ベットは雲の中にある
一方、その後の三好豊一郎の詩集ではこうなっています。改作された部分を太字で示してみますね。
真夜中 めざめると誰もいない――
犬は驚いて吠えはじめる 不意に
すべての睡眠の高さにとびあがろうと
すべての耳はベッドの中にある
ベッドは雲の中にある
「すべての睡眠の高さにとびあがろうと」は重要な詩行として、いろいろな人が論じていますよね。わずか一行の加筆と「ベット」が「ベッド」に修正されているだけですが、この改作によって戦時中に書かれた「囚人」という詩が戦後詩になったように思います。
鶴山 確かにそうですね。「高さにとびあが」って水平なベッドに落ちて来て、「雲の中にある」じゃないと上手くない。詩は一行でガラリと印象が変わることがあるから詩の成立の背景が見えてきますね。
池上 あと、ぼくが一九八〇年代にリアルタイムで読んでいた頃の三好豊一郎の詩は、『荒地詩集1951』の詩とはずいぶん違う印象を受けました。例えば鮎川信夫が亡くなった時の追悼詩があるでしょう。最初の一連だけ引用します。
巨木の倒るるごとく 高廈の崩るるごとく
とは陳腐きわまる形容だが いかにも
みずからの戦後を行き切って
きみの死はきみ自身の死にほかならぬ
この「鮎川信夫を悼む」というタイトルの詩を読むと、古風な感じで、『荒地詩集1951』の三好豊一郎の詩とはぜんぜん違う。「高廈」が「高くて大きな家」という意味だなんて知らなかった(笑)。調べたら、北村透谷の『蓬莱曲』に「高廈珠殿」という表現が使われていました。
鶴山 ああそう。でもこの詩は衰弱体だよね。三好さんは極論を言えば『囚人』一冊なんだけど、あの詩集のレベルは高い。物足りない面はありますけど無視することはできません。三好豊一郎は皆さんが思っているような弱小詩人ではないということは強調しておきたいと思います。
池上 三好豊一郎の代表的エッセイ「基督磔刑図」は『荒地詩集1953』に収載されていますね。強く印象に残るエッセイですが、彼はキリスト教徒だったんでしょうか。
鶴山 違うと思いますよ。
池上 「夜更けの折」など初期の詩には、キリスト教への関心がはっきり書かれているんですけどね。
鶴山 理不尽さに対する共感でしょうね。キリストは人類を救済するために地上に遣わされたわけですが、人類の原罪を一身に背負って磔の刑に処されることになった。三好さんは結核という病に苦しめられた。その理不尽がキリストへの強い興味になったんじゃないでしょうか。人生は多かれ少なかれ理不尽なものだけど、三好さんは理不尽な肉体的病を精神的に受けとめ、超克しようとした人だと思います。「荒地」では鮎川さん、中桐さんも結核に罹ったけど三好さんが一番酷かった。元気いっぱいの二十代で重い結核病者になるのは辛いよ。当時は死病だからね。もちろん友人知人の戦死も理不尽なわけで、それが三好さんの戦後詩となった。理不尽さに対する怒りや悲しみは三好さんの一貫したテーマだったと思います。
池上 そういう意味では従軍はしていませんが、やはり三好豊一郎は戦後詩人なんですね。そろそろ中桐雅夫の話に移りましょうか。
(金魚屋スタジオにて収録 「三好豊一郎篇」了)
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