自由詩は現代詩以降の新たな詩のヴィジョンを見出せずに苦しんでいる。その大きな理由の一つは20世紀詩の2大潮流である戦後詩、現代詩の総括が十全に行われなかったことにある。21世紀自由詩の確実な基盤作りのために、池上晴之と鶴山裕司が自由詩という枠にとらわれず、詩表現の大局から一方の極である戦後詩を詩人ごとに詳細に読み解く。
by 金魚屋編集部
池上晴之(いけがみ・はるゆき)
一九六一年、東京都生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒。批評家。編集者として医学、哲学、文学をはじめ幅広い分野の雑誌および書籍の制作に携わる。近刊に、文学金魚で連載した「いつの日か、ロックはザ・バンドのものとなるだろう」に書き下ろしを加えた『ザ・バンド 来たるべきロック』(左右社)。
鶴山裕司(つるやま ゆうじ)
一九六一年、富山県生まれ。明治大学文学部仏文科卒。詩人、小説家、批評家。詩集『東方の書』『国書』(力の詩篇連作)、『おこりんぼうの王様』『聖遠耳』、評論集『夏目漱石論―現代文学の創出』『正岡子規論―日本文学の原像』(日本近代文学の言語像シリーズ)、『詩人について―吉岡実論』『洗濯船の個人的研究』など。
萩野篤人(はぎの あつひと)
一九六一年、埼玉県生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒。元IT関係企業に勤務。十代の頃から文学・哲学・思想に関心を持つ。二〇二三年、相模原障害者殺傷事件をテーマにした評論『アブラハムの末裔』で第一四回金魚屋新人賞を受賞。現在、小説『春の墓標』、評論『人生の梯子』を文学金魚で連載中。
■『最後の親鸞』について■
萩野 『最後の親鸞』は吉本さんの思想家としての一つの頂点と言っていいと思います。親鸞の思想と生き方を今日の知識人のあり方に重ね合わせて論じた本です。親鸞、明恵、道元、日蓮、一遍をはじめ、日本の仏教が成熟の極みに達した鎌倉時代の僧侶たちのバックボーンが大乗思想です。それには往相と還相という考え方があって、悟りの世界に達した人は必ずこちら側へ還ってきて衆生とともになくてはならない。この還ってくることを吉本さんは「頂きを極め、そのまま寂かに〈非知〉に向って着地する」と表現します。〈非知〉とは「無知」という意味ではなく、「知」を行きつくところまで追求した果てに、そのすべてを棄却して「そのまま」衆生と一つになるということです。「そのまま」とは、たとえばよく知られた般若心経の「色即是空」で言うと「即」にあたります。文字通り読めば「すなわち」ですが、その意味は「あらゆるものごとは、そうであるそのままに空である。つまり恒久不変の実体などない」ということです。僕の解釈ですけどね。放棄の思想はカトリックにもありますが、「そのまま」というこの点が違います。それにキリスト教のような「犠牲」の精神からではありません。誤解をおそれずに言うなら、認知症患者と意思疎通するために自らが進んで認知症患者となるような、まあミイラとりが進んでミイラになるようなことです。二十五時間目っていう話を吉本さんはよくしていましたね。それと同じで、思想家としてありえないようなことを吉本さんは語っている。けれど僕は、それを比喩だとは思わない。このありえなさの中に真実があるんだ、じっさい親鸞という人はそれを実践しているじゃないか、と。こうした論理破綻をものともせずに飛躍する吉本さんの言葉のトーンですね。いま読んでも心にひびきます。
鶴山 悟りというものはあり、必要でもあるけど、決して特権的なものではない、ということですね。ややこしい言い方ですが。
萩野 親鸞といえど大乗の教えには従っていますから、悟りそのものを頭から否定しているわけではないんです。二つ意味があると思います。一つは、この自分が悟ってそれが何だというのか。他人を教えみちびくために、その向こうに悟りがあるわけではない。みなとうに悟っているじゃないか、という言わば足下の底が抜けた境地です。これは、大乗の考え方をつきつめていけば必ずそうなると思います。
もう一つは、悟りなんてあってないんだという考え方です。臨済宗の開祖で中国禅の大成者である臨済義玄は、悟りなんて糞かきベラみたいなものだと言っています。ある時、弟子から仏ってどこにいるんですかと聞かれて、いまオレと話しているお前が仏だと答える。そこでハッと弟子は悟る。そこで立場の逆転、認識の転換が起こっているわけです。悟りがないとは言わない。ただその途は往って還ってゼロ。あってないということだと思います。
鶴山 『最後の親鸞』が吉本さんの代表作の一つだというのはその通りだと思います。もっと言えば思想家としての吉本さんの〝夢〟のようなものが直截に表現されている。「あとがき」で珍しく「ここに収録された論考は、わたしにとってもっとも愛着の深いものである」と書いています。東洋思想を考える上で非常に重要な著作でもあります。
臨済禅師の話が出ましたが、大乗仏教では悟りへ向かう道が往相、悟った後に現世に戻ってくる道筋が還相で、禅では向上道と向下道と言います。禅も親鸞も宗教者が悟りを得る道筋は否定していない。悟りの境地に安住できないと考えているのも同じです。悟りを得た者が現世に戻って来て衆生を救済しなければならないのも同じ。しかし悟りを得た後に救済する範囲が違う。禅は基本的に個の救済が主眼です。それに対して親鸞浄土真宗は広く衆生を対象にしている。
ただ乱暴なことを言えば、親鸞自身の思想は禅宗に近い面がある。多くの浄土教系の宗教者は煌びやかな浄土の存在を否定せずそこへ往生転生するのが人間にとって最高の幸せなのだと説いています。それに対して親鸞はパラダイスとしての浄土を説かない。「阿弥陀如来の慈悲があるばかりだ」と言います。しかしこの無限の阿弥陀如来の慈悲の本質というか由来は不可知。だけどそれを疑うことはできないので絶対帰依せよと説く。いわゆる専修念仏。その意味ではイスラーム経に近い面もある。
親鸞浄土真宗とイスラーム経最大の違いは阿弥陀如来がイスラーム経のアッラーのように人格神化されていないことです。つまり阿弥陀如来の慈悲自体、仏自体の構造化は不可能で直截な神学には向かわない。手がかりが一切ないですから。吉本さんが最後まで「〈信〉の構造」にこだわった理由がそこにあると思います。それが東洋学の特徴であり、西側のセム一神教神学と比較すればの話ですが、東洋哲学(神学)の限界でもあります。
現世の汚穢を許容するならば、善と悪の二分について確乎とした決定がなければならない。(中略)親鸞のかんがえは、二つにわかれて転回される。まず人間の負う善と悪とを時間の彼岸に依託させ、これを往生の契機ときり離した。(中略)現世でたまたま善であるか悪であるかは、時間のとおい過去からやってきた宿縁によるものだから、本人のせいではない。だからこそ善であるか悪であるかによって、往生できるかできないかを云ってはならないのだ、と。つぎにはこのかんがえは、悪人こそは善人にもまして往生の正機をもつものだ、というように徹底されていった。行くところまで行けばそうなるほかはない。
吉本隆明『最後の親鸞』
親鸞の思想は吉本さんが説いておられる通りです。現世を完全に相対化している阿弥陀如来の境地から言えば、人間行為の善悪はささいな問題に過ぎない。善であれ悪であれ、すべての人間の行為は自発的恣意性か環境などによる客観的恣意性によって生じる。機縁によりどちらに転んでもおかしくないのであり絶対的根拠はない。むしろ善悪には根拠がないこと、恣意性つまり人間の自発性を完全排除することが阿弥陀如来の慈悲(御心・境地)に近づく道である。すると一心に極楽浄土への往生転生を願う善人の意志=自発性は現世的妄執であり邪念ということになる。むしろ一度もそんなことを考えたことのない悪人の方が往生への「正機をもつ」ことになる。悪人は邪な能動的(自発的)恣意の塊ですが、そのような人がすがるように救済を願う際の心は無心だからです。無心の専修念仏ですね。では阿弥陀如来の慈悲(御心・境地)とはどういうものなのか。
親鸞まできて浄土教がまったく否定しつくしたのは、金色の光明にかがやき、花の香りと、壮麗な宮殿と、色彩に満ちた天親(天親菩薩、四~五世紀頃のインド大乗仏教唯識派で『浄土教』は主著の一つ)が『浄土教』で描いたような浄土のイメージの実体化であった。(中略)死のむこうの死後に、存在する実体的な浄土の概念も、もちろん比喩として以外に否定されている。(中略)けれども本来〈無〉、〈寂滅〉、〈虚空〉、〈涅槃〉、〈安楽〉など、輪廻や転生を切断するものとしての、このような概念によってしか浄土は指示されない。これらの錯綜する問題が浄土教の心臓の在り処であった。
人間が繰返し生死を重ね、転生するのは罪をもつからであり、汚れた煩悩に支配されているからである。もしこれらの罪や煩悩を断ちきることができれば、生死の繰り返しを離脱することができる。けれどもまたいうべきである。このように繰返される転生輪廻はこれを実体化することはできない。またこのようにして生死を重ねる人間の在り方も実体化することはできない。人間という概念が成り立つとすれば別のところにあるはずだ。人間は〈さとり〉と呼ばれる状態において、はじめて実体化することができる。〈さとり〉という状態に到達したとき、かれは浄土に存在しているとみなすことができる。〈さとり〉の状態または、浄土と呼ばれる在り方は、親鸞が大乗教理そのものに完全に同化してみせた唯一の個所であった。
同
親鸞が浄土のイメージや輪廻転生概念を解体し尽くしたのは吉本さんが論証した通りです。それは徹底していた。では浄土への輪廻転生以外の救済はあるのか。ここで初めて吉本さんは〈さとり〉という精神境位を論じています。それは現世を完全絶対の空無として捉える非―人間的境位です。浄土宗系の悟りは基本的にパラダイスとしての浄土への転生ですから親鸞は悟りの質を変えたことになる。
ただそこに至るのは非常に困難です。吉本さんは「〈さとり〉という状態に到達したとき、かれは浄土に存在しているとみなすことができる」と書きましたがそんなこと、常人には不可能です。
だから親鸞は「この上は念仏をとりて信じたてまつらんともまた棄てんとも面々の御計なり」と言った。信心するかどうかは人々の勝手次第ということです。宗教指導者としてはあるまじき言葉ですがそこに親鸞の真髄がある。親鸞は現世を空無と観て何事にも何者にも動じない境位を悟り(救済)としましたが、それは彼の独創ではなく阿弥陀如来本来の慈悲(御心・境地)だからです。少なくとも親鸞はそう考えた。そこで浄土真宗では専修念仏、阿弥陀如来絶対帰依が教理になった。教理を深く理解しなくても専修念仏で阿弥陀如来本来の慈悲(御心・境地)が分かるかもしれないということでしょうね。浄土宗の他力本願を徹底すればそうなる。
ただ浄土教系はもちろん親鸞浄土真宗も、実体として親鸞の考えほど厳しくありません。他力本願の専修念仏には相変わらず煌びやかな浄土幻想が紛れ込んでいます。でなければ多くの信徒を獲得できない。また親鸞の悟りはほとんど禅と同じです。これもちょっと乱暴ですが、違いは阿弥陀仏が介在するかどうかだけです。
禅は悟りを得るための向下道で無に達します。現実世界が解体し無に至るのが悟りです。この無は恐ろしい。何もないのではなく、それは万物生成の源基としてのドロドロと蠢くエネルギー総体で名付けようのない漆黒です。無を見た修行者は現世に戻る向上道を辿るわけですが、その際に無から有が生じるのをまざまざと見る。無から有機・無機物が生じ都市の殷賑と人々の幸福、醜く辛い生老病死すべてを見る。それが多くの高僧が語っている禅の悟り(向下道、向上道)です。
大乗仏教の往相も無に達するのは変わりません。しかし還相で無から有が生じる際に阿弥陀如来が介在する。真言密教では大日如来ですね。セム一神教のような強固な人格を持ちませんが、擬人化された阿弥陀如来(大日如来)が世界生成の源基におわす。それが決定的違いです。
この悟りへの往還体験は宗教的たわ言のようですが不思議と現代宇宙論のビッグバン理論に似ています。東西を問わず太古の昔から優れた宗教者たちが不可知のエネルギー総体が爆発して宇宙(世界)が誕生したという意味のことを言っている。宇宙(世界)誕生の瞬間に神や仏が介在するかどうかは別としてね。
『最後の親鸞』は宗教論ですから萩野さんがおっしゃったように論理破綻に近い飛躍がある。「悟り」を論理化するなど本当は無理だ。しかしなぜ親鸞だったのかは吉本隆明学の根幹に関わる問題だと思います。個の、自分一人の救済を考えれば夏目漱石や井筒俊彦のように禅を論じた方が論旨はスッキリしたはず。浄土真宗などに属していても禅的な無仏・無神の方が現代日本人の心性に近いですから。しかし吉本さんは親鸞に強く惹かれた。親鸞浄土真宗でなければならなかった。その理由は二つあると思います。「擬人格仏(阿弥陀如来)」と「衆生救済」です。
吉本さん自身が救済を求めた人だったのは確かだと思います。ただ親鸞の「擬人格仏(阿弥陀如来)」と「衆生救済」は吉本さんの社会思想の根幹に関わっています。吉本さんは親鸞の「易行他力」の目的について「ここには〈信〉と〈浄土〉とのあいだの新しい関係が想定されなければならない。あるいは浄土の主仏である弥陀、その誓願の摂取力と、それを〈信〉において受容しようとする煩悩具足の凡夫とのあいだの、言葉を媒介にした新しい関係が確定されなければならない」と書いています。
親鸞の「衆生救済=言葉を媒介にした新しい関係」は吉本さんの一貫したテーマである「大衆」「マス」と通底しているはずです。思想家は的確な文化・社会思想によっていわゆる衆生を導かなければならない。また「擬人格仏(阿弥陀如来)」は初期の「マチウ書試論」以来のキリスト教への強い興味と微妙に繋がっている。吉本思想の一貫性ですね。
もちろん共に世界生成の源基とはいえ、擬人格の阿弥陀如来ではセム一神教の神のようなそれ自体の論理化は不可能です。そのため「〈信〉の構造」止まりにならざるを得ない。しかし吉本さんは社会の無意識総体を一種の擬人格神的(仏)として捉えて『マス・イメージ論』や『ハイ・イメージ論』に進んでいったんじゃないでしょうか。
池上 吉本隆明の最晩年の聞き書きに『フランシス子へ』(二〇一三年)という本があります。「フランシス子」というのは吉本隆明が自分の「うつし」だというぐらいものすごくかわいがっていた猫の名前で、この猫が死んじゃったことが語りのモチーフになっています。親鸞についてもとてもわかりやすい言葉で語っていますので、ぼくは書き言葉による『最後の親鸞』を読む前に、話し言葉の『フランシス子へ』を読むことをおすすめしたいですね。ハルノ宵子さんによれば、この頃の吉本隆明は夢の中で語っているような状態だったそうですが、この本は彼の思想の核心がやさしい言葉で語られている非常に重要な作品です。萩野さんがおっしゃった「頂きを極め、そのまま寂かに〈非知〉に向って着地する」ことを身をもって実践したのが『フランシス子へ』です。
ハルノさんは「生と死の狭間にあった〝シャーマン〟としての父の〝ことば〟」だと言っています(「鍵のない玄関」)。これも非常に重要な指摘で、ぼくは、詩人という存在は現代においてもその本質は〝シャーマン〟だと思っています。シャーマンと言うと何となく怪しげな感じに聞こえるかもしれないですけれど、そもそも「詩」になるような言葉が普通の状態で生まれることはあり得ません。そうじゃない言葉はどんなにかたちは詩に見えても、読めば詩じゃないことはすぐにわかります。もちろんシャーマンは「語る」人ですよね。吉本隆明が本質的に詩人だったことは『フランシス子へ』を読めばわかると思います。
この本の中では「試行」創刊時の同人だった村上一郎についても語っています。村上一郎は海軍士官になって主計大尉で終戦を迎えた人で、三島由紀夫が自決した後を追うように日本刀で自殺してしまった文学者です。ぼくは村上一郎は高校から大学にかけていちばん熱心に読んだ文学者なんですけれど、文芸評論家と言っても思想家と言っても歌人と言っても作家と言ってもピタッとこない、まさに文学者としか言いようがない人でした。吉本隆明はお通夜に行って、どうやって村上一郎を弔ったらいいのかわからなかったけれど、谷川雁が「村上一郎、万歳だ」って音頭を取って万歳三唱をした、「そのときの万歳には、村上さんに対する敬意とか、卑怯者って言われても生きていたほうがいいんだよ、死ぬっていうのは意味がないんだよって気持ちとか、とにかくいろんななんとも言えない想いが含まれていました。/つまり、僕らは生き残った敗残兵なんです。/この万歳はそこまで行きつかないと成り立たないんですね」と語っています。これは吉本隆明が自身について語った最も深い言葉だと思います。
あと、萩野さんが「二十五時間目」っておっしゃったので思い出したんですが、一九八七年に「いま、吉本隆明25時」というイベントがありました。ぼくも参加しましたが、寺田倉庫を会場にして、いろいろなゲストを招いて二十四時間連続で講演や討論をするという、すごいイベントでした。元叛旗派の三上治さんと中上健次が吉本隆明に声を掛けて、三人で主催したんです。余談ですけれど、田村隆一篇で吉本隆明の歌を聴いたことがあると言いましたが、それはこの時なんです。当時歌手を引退していた都はるみさんを中上健次がゲストに呼んで、「歌謡曲の心」というタイトルで対談したんですが、途中で中上健次がフロアから吉本隆明を呼び出して、吉本隆明が「大阪しぐれ」を歌ったんです(笑)。ひとのことは言えないんですが、吉本隆明は音痴で(笑)、でも「おおさ~か~、しぐれ~」と訥々と歌った丸くて太い声はいまでも耳の底に残っています。
そのイベントでフランス文学者の宇野邦一さんの「批評と無意識」という講演があって、吉本隆明の思考の核心にはいつも「非知」の問題があると指摘しています。宇野さんは、「非知」の問題について「知っているということがいつでも非知というか無知に転換するというそういう恐れ。あるいは知がいつでも脅威、テロリズム、独善的なもの、抑圧的なものになる、こういうパラドックスですね。いつでもこのような両義性の中で知というものが問われている」と言っています。宇野さんの指摘は非常に鋭くて、「非知を中心の課題とする批評」を可能とするために、吉本隆明もバタイユもブランショも「非常にくねった、宙に浮いた、思考の対象が次から次へとすべってねじれていくようなそういう文体を作り出している」と言っています(『いま、吉本隆明25時』)。吉本隆明の書き言葉がわかりにくいのは、本質的に言えばそのせいなんです。
鶴山 吉本さんの「非知」はそうあらまほしき願望というか理想であって、思想家としての普段はそんなおとなしいものじゃなくて超闘争的だったけどね。ストレートで身も蓋もない罵倒を厭わない勇敢な啓蒙家でありました(笑)。ただ吉本さん本来の生地が書き言葉より話し言葉の方に表れやすいというのはその通りでしょうね。
池上 「情況への発言」を読んで、吉本節とも言うべき独特の話し言葉の文体に影響を受けた人はたくさんいますよね。
萩野 哲学者の永井均さんが書いてますね。かつて清水幾太郎が「苦しい思想的な営為のうえに棄教した」つまり左から転向したとき、梅本克己、佐藤昇、丸山真男の三人が座談会でこぞって非難し嘲笑した。それを擁護してかれらを叩いた吉本さんの文章に触れて、論じた内容よりもその罵倒文こそが魅力なんだというわけです。吉本さんのその文章のさわりはこんな調子です。「(中略)こうした評語で安保後の清水幾太郎を片付けたうえで、座談会の記録は(笑)という言葉をさし挿んでいる。何が可笑しいのだ。梅本よ、佐藤よ、丸山よ。(中略)どうして清水を嗤う資格があるのだ。(中略)あの闘争に賭けなかったきみたちに、どうして清水を非難する資格があるのだ」(「情況とはなにか」『吉本隆明全集9』)。
これを読んだ永井さんは、「当時の私の心を打ったのは、『何が可笑しいのだ、……よ、……よ、……よ、』の部分と、それに続く『……が、どうして……のだ』が繰り返される部分の、いわば韻律であった」と語っています(永井均『独自成類的人間』)。そして、この文章に吉本さんの初期の詩『涙が涸れる』の一節を重ねたと続けています。その一節を含む詩の後半部はこうです。
胸のあひだからは 涙のかはりに
バラ色の私鉄の切符が
くちゃくちゃになってあらはれ
ぼくらはぼくらに または少女に
それを視せて とほくまで
ゆくんだと告げるのである。
とほくまでゆくんだ ぼくらの好きな人々よ
嫉みと嫉みとをからみ合はせても
窮迫したぼくらの生活からは 名高い
恋の物語はうまれない
ぼくらはきみによつて
きみはぼくらによつて ただ
屈辱を組織できるだけだ
それをしなければならぬ
この詩の中の「とほくまでゆくんだ ぼくらの好きな人々よ」の「……よ」の部分です。永井さんは四十数年前、「彼のこの韻律に説得されて「自立派」になり、今もなおそうである。(同)」と書いています。いまの若い人には、この文脈はなかなかわからないかもしれない、と言ったら年寄りの繰り言か(笑)。
鶴山 今と比べるとまだ小さかった社会が激動していた一九六、七〇年代に吉本さんの文章を読んだ人と僕らは違うでしょうね。僕らは吉本さんの著作で戦後を理解し戦後から情報化社会(ポストモダン社会)の理解の仕方を学んだわけだから。
池上 ただ、一九八〇年代以降の吉本隆明の著作に違和感を持った人も結構いると思います。特に『マス・イメージ論』と『ハイ・イメージ論』には。
■吉本隆明の音楽論■
萩野 『ハイ・イメージ論』は賛否両論あると思いますが、Ⅰに所収の「像としての音階」はそれまでの吉本さんにはない格別の魅力をもった作品です。古くからの吉本ファンの反応の大半は驚愕か、拒絶か、理解不能かのどれかか、どれもになるんじゃないでしょうか。吉本さんはそれまで音楽について書いていませんし、この作品の中でも「わたしは音楽を知らない」と言っている。ところがよく読んでみれば本格的な、そしてユニークな音楽論なんです。
それでいて、書かれたのはじつに稀有な批評作品です。日本語でこんな音楽批評を書いた人は誰もいない。サンプルはジョン・ケージやブライアン・イーノやエリック・サティで、吉本さんのいう像と比較的結びつけやすい音楽家たちといえるでしょう。茸とか家具とかね。ありていに言えば、たいした音楽家じゃない。けれど、たまたま論じやすい対象が選ばれたというだけで、バッハのフーガでも民俗音楽でもJ―POPでも同様に論じることが可能なんです。
池上 吉本隆明の言う像、イメージとはどういうものだと萩野さんは考えているのですか。
萩野 おおまかに言えば、『ハイ・イメージ論』冒頭に出てくる臨死体験者の〝世界視線〟の眼差しによって透かし視られた、あらゆる「表現」が内にもつ共通の「構造」のことだと思います。または「構造」を透かし視るための方法ですね。日本の真言密教の開祖である空海は、この世界はホトケという宇宙をつき動かす動的なエネルギーと理法、理法っていうのは原理とか法則と言いかえてもいいですが、それぞれが展開された二つの曼荼羅だと言っています。それはわれわれの意識の表層から最深部までをつらぬく心的構造でもある。そうした心的構造、イコール世界構造そのものであるとともに、われわれがその底なき底まで潜水士のように潜っては還ってくるためのツールでもある、そんな二つの面をもつのが前に言った真言(マントラ)です。吉本さんの像とはこの真言(マントラ)のようなものじゃないか、というのが僕なりに抱くそれこそイメージです。しばしば深く潜り過ぎて、われわれ読者には理解困難な表現が散見されますが(笑)。
像はこの本ではしばしば文学表現に適用され、作品や言葉自体を包み込むような一つの像としてとらえられることが多いですけど、それによって文学も音楽も美術もサブカルもハイテクノロジーも像という一つの眺望の中に収めることができる。吉本マンダラです。これからの新しい批評の言葉の基礎になるのはこれだと吉本さんは思い至った。僕はそう考えています。
池上 吉本隆明の「像」には理系的な側面もあると思います。「いま、吉本隆明25時」のオープニングのゲストは、井上英一さんという東工大名誉教授で、井上さんはイマジクス(像情報科学)の専門家でした。イマジクスは、情報化社会において情報を流通させる技術が「像」つまり「イメージ」なんだという画期的な着想に基づいた学問です。吉本隆明がわざわざこの「情報と像」という講演からイベントを始めたことからも、彼の「像」には理系的な側面があるとわかると思います。
萩野 そうですね。当時はテクノロジーを自らの思想の中に積極的に取り込んでいこうという意図があったと思います。社会現象としてのテクノロジーという視点と、それを援用して、文学をこれまでにない切断面からとらえようという視点と、すくなくとも二重の視点からみていたように思います。
池上 『音楽機械論』という吉本隆明と坂本龍一の対談本があって、坂本龍一がシンセサイザーを使っていろいろデモンストレーションをしながら吉本隆明に「音楽」をレクチャーしているんですが、この体験が『ハイ・イメージ論』の音楽論に繋がっていると思います。
音楽については、吉本隆明は「情況への発言(一九六八年四月)幻想としての人間」(『完本 情況への発言』)で、すでにこう述べています。
だからたとえば、音楽家とか音楽の理論家というようなものが、音楽は時間性の芸術だというふうにいいますけれども、そういういいかたはまちがいであって、音楽といえどもそれが聴覚に関与するかぎりは空間的受けいれであり、その空間的受けいれの時間化によって了解されるというような作用をもつわけです。たださきほどいいましたように、音楽は聴覚に関しますから、聴覚は受けいれの空間性それ自体を時間性に転化しうるということ、つまり、それ自体が時間性の構造でありうるということのために、しばしば時間性の芸術だというふうにいわれるゆえんがあるわけです。それはほんとうはそうじゃないので、音楽といえどもやっぱり空間的な受けいれと時間的な了解ということを、人間の幻想は、やっているわけです。
吉本隆明は、人間は「現にある」という時間性と、「ここにある」という空間性として存在すると言っています。音は「ここにある」という空間性として受け入れられるわけですが、それが即座に「現にここにある」という時間性の構造に転化して「了解」されるのが、人間の聴覚の特徴だと吉本隆明は言っています。ですから、この考え方に基づけば、空間性として受け入れられた音が時間性に即座に転化して了解されている状態が、「音楽を聴く」ということなんだと考えていいと思います。
萩野 そこなんです。それを吉本さんは『ハイ・イメージ論Ⅰ』の「像としての音階」で具体的に表現しようとしているんです。音が空間と交わるときの、異次元が入れ子になった「場」を「構造」的に表現するとどうなるか。というより音楽と空間それぞれの「構造」はじつは地続きになっているというのが吉本さんの認識です。
聴覚は、ある遠くにある音源から発した音響が、つぎつぎに時間的な継続にしたがって受容されるものではない。むしろ聴覚は遠くまで延びていった触覚みたいなもので、手で触れるように音で触れる空間の延長が、音源まで届いているものだとみなされる。
『吉本隆明全集22』
まず冒頭で、音というものをこう定義しています。定義と言ってしまっていいと思います。続いて幻聴とはなにかを論じてこう言います。
幻聴はまず架空の音源を作りだすこと、そのうえにその音源からの隔たりを蝕知することから成り立っている。いいかえれば音源を像として、じぶんの身体の外部の遠隔に仮説し、その音源を内部に引き寄せるという操作が、じかに心的な作用に包括できているのでなくてはならない。
同
ここで「幻聴ということから、病的な意味をのぞいてしまう」と、吉本さんによる音楽の定義になっていることがわかります。音楽は統合失調症の幻聴と同じ位相にあると言ったら物議をかもしそうですが、人類史的にみた音楽の発生の経緯と、いまも音楽を聴く者にもたらされる生々しい変成意識の性格を考えれば、けっして的を外していないと思います。かれがカフカを、その寓意的な表現を一度ならず引用する理由の一つがここにあります。
まずわたしたちをある音階のレベルに置きなおし、入れこんでしまう作用がはじめにやってきて、そのレベルに惹き入れられると、拍音が頭の天辺のあたりで点を打ちはじめ、弦の擦過音は脇腹のあたりで響きはじめ、金属棒と金属器の打ち合う音は、肩さきあたりにあって、まるでわたしたちの構想を察知し、それをなぞり、おわりには先に走ってゆくように繰り出されるとおもえてきた。それが第1図のような音像になった。音源がなければ、たしかに音響は発生しない。また病像という概念が成り立たないところでは幻聴は生じないようにみえる。だがみんながひとつの共同幻想に憑かれているところでは、存在しないはずの狸囃子がみんなの耳に聞えたり、異物のような響きが聞えたりすることはありうる。それは習俗の世界の出来事だ。J・ケージは金属音や擦過音や洞音や膨音を、無意識を喚起するまで整序して繰出すことで、反習俗の共同体をつくりだすようにみえる。そこでは差異の同一化された共同の幻想が支配し、耳を傾けているかぎりは、それに従うほかなくなってくる。
同
文中で第1図とあるのは、吉本さんが自らJ・ケージの音階の像だと言って描いた図です。吉本さんが他にも坂本龍一やサティらの音階の像を図示し、わけのわからない数式まで駆使して伝えようとしているのは、自身のたんなる心的表象でもなければ、まして印象批評でもありえません。吉本さんが言いたいのは楽曲の内容ではなく、音楽という共同幻想の本質的な「構造」なんです。事実、いま引用した文の一部を置き換えれば、ロマン派の交響曲を語っているのと変わらなくなる。むしろ吉本さんが音楽を理解できないために可能になった類例のない「構造分析」なんです。
わたしは痴呆に類する耳で、乏しい時間のなかで、入口の像をもとめてレコード店をまわる。現在への音階の入口みたいなものの像が欲しかった。
同
現在への「入口」は音階が〝熔融〟している場に見出されます。〝熔融〟とは時間と空間の熔融であり、音階と世界との熔融であり、個と共同幻想との熔融です。こうしてこの章全体を通してくり返し読んでいたらハッと気づいたんですが、吉本さんは音楽家たちの作品の音像まで自分で譜面を作るように描いてしまう、それだけでなくて、おどろくべきことに自分にとっての音楽とはこういうものだと、自ら創作しようとしているんです。あたかもこの章全体が音楽という像であるように。そしてそんな創作をつうじて、それに折り重なるように、それ自体が一つの音楽批評であるような作品世界を浮かび上がらせようとしているんです。そんなことをこころみた人は他にいませんし、吉本さんが難解だと言われる事情もこういうところにある。結果がうまくいったかどうかよりも、こころみが凄い。それを支えているのが吉本さん独自の世界認識です。つまり吉本マンダラなんです。
池上 いま萩野さんがおっしゃったことは非常におもしろいですね。ぼくもザ・バンド論なんて書いているから、音楽批評の難しさはよくわかります。音楽を言葉にして言えなければ批評とは言えないと思うんですけれど、特にポピュラー音楽の批評では、印象批評じゃないものを書こうとすると歌詞の批評か文化論になっちゃう場合が多いんですよね。あとはバイオグラフィーかディスクガイドやディスコグラフィーになるか。クラシック音楽だと楽譜の構造分析、あるいは音楽史ね。だけど批評っていうのは、当たり前ですけれど文学なんです。でも小林秀雄の『モオツァルト』は音楽批評じゃなくってモーツァルトという人を論じた文芸批評ですよね。だから、ぼくは文学として音楽批評を書いた人は少なくとも日本ではまだいないんじゃないかと思っていたんですけれど、確かに吉本隆明の「像としての音階」は、日本語で書かれた初めての音楽批評だと言ってもよいと思います。
あと一般的に言って、人間が思想や宗教に惹かれるのは世界を理解したいという欲望からだと思うんです。世界認識への欲望というか。哲学者や思想家や宗教者は、その世界認識の方法を示してくれるわけですよね。その人が作ったフレームを使って世界を見ると、自分で考えなくても世界が理解できた気になれるんです。すぐれた哲学者や思想家や宗教家は、そのフレームの作り方がうまい。吉本隆明も世界認識のための柱立てから始めて、フレームの作り方がうまくて非常に説得力がある。それが吉本隆明のカリスマ性に繋がっていると思います。
鶴山 それはそうなんだけど、吉本批評最大の特徴はなんと言っても異様なほど緻密で正確な分析にあると思うなぁ。つまり屋根や壁の取り外しというか解体が徹底している。分析に淫しているんじゃないかと思う時もある。その詳細な分析の端々に考えるヒントがあるので吉本思想は多くの人に影響を与えたわけだけど、著書を読んでも最初から柱が見え全体のフレームがわかったという気がしない。
もちろんあらかじめ思想的柱が見えているから分析(解体)が正確なわけだけど、異様な分析能力の高さは諸刃の剣でね。やや直観把握が鈍い面がある。たとえば親鸞は宗教を教行信証――教え(教義)、修行、信心、証(奇蹟)の四つに分けましたね。吉本さんの『最後の親鸞』は可能な限り親鸞本人の文書や信頼するに足る周辺文書を分析しているので正確ですが、宗教者や信者が信心を持つ際には間違いなく証(奇蹟)から入る。雷に打たれたようにある宗教に入信する。入信して初めて教義を勉強し修行して信心を深める。決して『最後の親鸞』をくさしているわけではなく素晴らしい著書だと思いますが、吉本さんが辿り着いた結論は直観把握でも認識できるはずです。分析手法だけじゃなく直観把握の方法もある。
『初期歌謡論』も素晴らしいですが、それは表現史を分析する際に吉本さんが無類の力を発揮しているからです。しかし『万葉集』と『古今和歌集』、『古今』と『新古今和歌集』の間には断絶がある。和歌から連歌・俳句の成立の間にも断絶がある。フラットな分析手法によってそのような目に見えない断絶を際立たせるのは難しい。吉本さんは宮沢賢治や漱石に強い興味を示しましたがどこかピントがズレているのはそのせいだと思います。賢治や漱石文学にはそれまでの文学とは明らかに違う断絶線がある。直観によって断絶線を把握した上で分析しないと正確な作家論にならない。
誉めてばかりいられないので正直なことを言うと、今回面倒臭いなーと思って手をつけていなかった『心的現象論』本論を初めて読みました。ちょっと誤解を招くような言い方になりますが、ほとんど狂気を感じた。異様な分析への執念です。なぜここまで細かく分析を連ねなければならないのか。
もちろん初期の「マチウ書試論」の時代から吉本さんがある救済への願望を秘めていたことはわかります。その救済のために最晩年まで『心的現象論』本論を書き続け未完に終わったのではないか。しかし乱暴な言い方をすると救済の前提になる吉本さん自身の心性を正確に掴めていなかったんじゃないか。それが最大の謎だったんじゃないか。
『心的現象論』本論のような著作は吉本さん以外の作家では許されないと思います。非常に僭越なことを言いますが同人誌の文章を読んでいるような気がする。自分が納得いくまで好きなだけ書いている。必要不可欠だったんでしょうが本質的に他者の理解を拒んでいると思います。あれは正直何が書かれているのか、何をしようとしたのかぜんぜんわからない。わかったフリすらできない。
池上 鶴山さん、「試行」は同人誌です(笑)。ハルノ宵子さんは『隆明だもの』で、「父の場合は、ちょっと特殊だった。簡単に言ってしまえば、〝中間〟をすっ飛ばして「結論」が視える人だったのだ。本人は自覚していなかったにしろ、無意識下で明確に見えている「結論」に向けて論理を構築していくのだから〝吉本理論〟は強いに決まっている。けっこうズルイ」と書いています。サヴァン症候群に近い特殊な能力を吉本隆明は持っていたとハルノさんは述べています。これは鶴山さんがおっしゃったことの裏返しだとも言えると思います。おそらく『心的現象論』も直観的に見えた結論に何とか論理的に到達するために、延々と分析を書き続けたんだろうと思うんです。
鶴山 そうかなぁ。少なくとも『心的現象論』本論には当てはまらないんじゃないかな。わかんないものはわかんない(笑)。混乱してると思う。特殊能力の持ち主だったのは確かだと思いますが。
池上 あと、萩野さんがおっしゃった図についてですけれど、江藤淳は吉本隆明との対談の中で、『ハイ・イメージ論』は数式や図を使って記述しているのが残念だと言っています。
鶴山 数式はたいてい集合論で図は概念図だから単体では理解しやすいんだけど、これがまあどんどん積み重なり変わっていったりする。そんな細かい思考変遷に付き合わされるのは苦痛と言えば苦痛だな。全体と結論だけでいいんじゃないか(笑)。晩年の著作だからいちいち言葉で説明するのが面倒臭くなって数式や図版にしたんだろうとは思いますが。
池上 ご本人もそう言っていますけれどね。で、さっき「いま、吉本隆明25時」の話をして思い出したんだけど、イベントの中で中上健次が吉本隆明に絡んだんです。これがおもしろかったので、お話ししておきますと、吉本隆明が「文学論――文学はいま」というテーマで講演した時に、村上龍と山田詠美と村田喜代子の三人の小説を取り上げたんです。中上健次は当然気に入らない。簡単に言えば、何で俺の小説を取り上げないでこんなつまらない小説を論じるんだ、と自分の「超物語論」という講演の中で吉本隆明に文句を言って壇上に呼び出した。吉本隆明はその時、批評はそういうものじゃないんだ、「最高綱領」と「最低綱領」があって、その間の領域でやるのが批評なんだと答えたんです。中上健次は納得しないわけですが、吉本隆明は、中上さんみたいに一点に凝縮して否定すると党派ということになって、それはスターリニストなんだということを言った。その時にぼくが何に感心したかと言うと、吉本隆明が、どういう用語なのかわからないんだけど、「最高綱領」と「最低綱領」という言葉を発したら、それがあっという間にフロア全体に広がったんです。参加者も質問できたんだけど、その二つの用語を皆が使い始めた。これはスゴイものだなと思いました。吉本隆明がその日初めて使って皆初めて聞いた言葉や概念があっという間に広がったわけですから。批評家っていうのは大したものだと思った。
鶴山 中上さんにちょっと同情しますね。完全アウェーじゃないか(笑)。吉本ファンが詰めかけた会場で対話するとなると絡むしかないだろうなぁ。吉本さんの土俵に乗っかっちゃったらうんうん頷くしかないから。中上さんが絡んだのは詩人や思想家よりも遙かに世知長けた小説家が、場を盛り上げるためのリップサービスだったかもね。
対談はけっこう難しくて思想的に芯が通った二人が対談しても噛み合わないことが多い。吉本さんと江藤さんだと、まあ言ってみれば戦後左翼と戦後右翼の代表みたいな二人だから意外と情報交換はできる。でも吉本さんと小林秀雄とか、吉本―井筒俊彦対談とかはちょっと想像できない。やっても噛み合わないと思います。
僕は「現代詩手帖」で吉本隆明特集を組んだ時に井筒さんに便箋十枚くらいの長い執筆依頼の手紙を書いたんです。丁寧なお断りのハガキをいただいたんですが、その中に「吉本さんのような特殊な思想家について今考えている時間がありません」という一文があった。吉本さんも井筒さんも吉本教とか井筒教と揶揄されることがあります。まあ言ってみればお二人とも特殊な思想家です。吉本さんは分析派で井筒さんは直観把握の人だから両者がかなり準備して歩み寄らないと話は噛み合わないでしょうね。巨頭になればなるほど噛み合わないことが多い。
池上 鮎川信夫との対談は嚙み合っていたんじゃない?
鶴山 鮎川さんが異様に吉本さんに興味を持っていたからね。だけど吉本さんはそれほどでもなかったんじゃないかな。彼に本質的に対話は必要ない。吉本さんのような人が同時代で仲間にいたら、コイツなにをしようとしてるのかなと不思議に思いますよ。いきなりぶ厚い総論(原理論)三冊を書くんだから。吉本さんは創作者集団の中では明らかに異質です。仕事の全貌が見えないリアルタイムだとなおそうでしょうね。鮎川さんは詩人で批評家で、かつ直観気質だからそれがわかった。でもそれが杓子定規な分析派の吉本さんと三浦知良事件で衝突してしまった。あの喧嘩別れは皆「なんでこんなしょーもないことで」という感じで見てました。でも当人たちにとっては譲れない一線があった。
僕は吉本さんとお会いしても「はい」としか言ったことがないんだけど、唯一会話したことがあります。鮎川さんがお亡くなりになった時に追悼文を書いていただけませんかとご自宅まで頼みに行った。そしたら玄関で仁王立ちなってすんげぇ険しい顔で「僕は鮎川さんが生きている間にサヨナラを言ったから追悼文は書かない」と強い口調でおっしゃった。「左様でございますか、失礼しました」と回れ右して帰ってきた。怖かった(笑)。だけど生きた思想家の一貫した思想の肉体性をまざまざと感じた。
もちろん吉本さんはその後鮎川さんへの弔辞を読んでおられます。根はとてもいい人だから人間としての礼儀はまた別だと考え直されたんでしょうね。吉岡実とはそんなに仲良くなくて、吉岡さんはよく「鮎川や吉本はなんで俺の詩を評価しないんだ」とブーたれてたけど、吉本さんは吉岡さんの葬儀にお通夜と本葬の二晩続けていらしてた。あれはなぜなんだろうと今でもちょっと不思議です。下町育ち同志の親近感があったのかな。
■再び吉本の詩について■
池上 ぼくは自分がすごく影響を受けた鮎川信夫と田村隆一とは直接話をしてみたいと思って、実際ほんのわずかな時間ですけれど、話をすることができました。だけど、吉本隆明とは話をしてみたいとは思わなかった。何か話が通じないというか、会話にならないような気がしたんです。実際、「いま、吉本隆明25時」のイベントの時には、話し掛けようと思えば話し掛けられるぐらい近くに長時間座っていたんですよ。吉本隆明は聴衆と一緒にフロアで床座りしていましたから。だけど、膝を抱えてじっとしている吉本隆明を近くで見た時に、何て言うかなあ、非常に孤独なというか他者を拒絶しているかのような印象を受けたんです。もちろん親しかった人の話を読むと、別に他者を拒絶したりはしていないし、多くのシンパに囲まれていて孤独だったわけじゃない。だけど、ぼくには吉本隆明は本質的に「独語」の人だと思えるんですよね。
それから、いまはもうわからなくなっているんですが、戦後は知識人と言ったときに、サルトルがその代表だった。吉本隆明はサルトルをすごく意識していたと思います。サルトルの思想については批判していて、自分より思想的に優れているとは思わないけれど、世界タイトルマッチということになれば、自分は全然かなわないんだと言っています。これはとても正確な認識で、吉本隆明が西欧と日本ということについて徹底的に考えていた証拠だと思います。
先ほど(第二回)触れた一九七九年の「現代詩の思想」という講演の中で、老いにどう対処するのかという話題に関連して、「日本的に考える平穏、安らかさ、自然に慰藉される安らかな情緒・侘び・さびの情緒とか、そんなものはサルトルにはないのです。なくて、くたばってしまう。死んでしまう。これはヨーロッパだからヨーロッパなんだよということですんでしまう。それが近代以降、現在までの世界普遍性です。世界でもっともいい老いとはそれなんだという以外にありません」と語っています(『吉本隆明〈未収録〉講演集〈10〉詩はどこまできたか』)。
サルトルは詩は書かなかったけれど小説や戯曲を書いています。哲学と文学を両方実践した人です。政治的活動も晩年まで続けた。そういう点でも、吉本隆明はサルトルを意識していたと思います。
鶴山 サルトルの実存主義は不安の哲学でもありますね。第一次世界大戦の荒廃とその後のヨーロッパの没落が確実にその思想に大きな影響を与えている。一次大戦後にヨーロッパは世界の盟主の座から滑り落ちてアメリカが世界の覇者になるわけですから。国が違うから質もぜんぜん違うんだけど、吉本さんも皇国主義日本が無惨に敗戦して焼け野原から民主主義国家に生まれ変わる時代を経験している。カッコ良さげな抽象思想にはほとんど憎悪に近いような嫌悪感を示します。空論が嫌いという点では実存主義に繋がるかな。
池上 その後フランスではミシェル・フーコーという、現代思想に大きな影響を与えた思想家が現れて、フーコーと吉本隆明は対談しています。吉本隆明が一九二四年生まれで、フーコーは一九二六年生まれですから、同世代ですね。
萩野 吉本さんとフーコーさんの対談はですねえ……当時フーコーさんは世をときめく思想家でしたから、吉本さんが対等に話をするというそれだけで嬉しくもあり、期待もしたんです。だけど結果は、話が噛み合ってるのか噛み合ってないのかすらわからなかった。それでも通訳は蓮實重彦さんでしたから、うまく媒介してくれたと思いますし、どちらかと言えばフーコーさんの方が吉本さんを理解しようと歩み寄っている印象がある。吉本さんは対談や講演ではわかりやすいと言いましたが、あの時の吉本さんは書き言葉に近い言葉で話している。
鶴山 文字起こし原稿に手を入れたのかもよ。
萩野 そうかもしれません。実のところどういう対談だったのかわかりませんが、噛み合っていたとは思えない。いまお二人が話題にされたサルトルが相手だったらまだしもだったかな。
池上 ハルノ宵子さんによれば、吉本隆明は、対談で唯一勝負にならなかったのはフーコーだけだと言っていたようです。勝負どころか土俵にも上がれなかったと。
鶴山 ヨーロッパなら国が違ってもそんなに影響ないだろうけど、フランスと日本の思想家が対談するのは難しいよねぇ。いわゆる西洋哲学に比肩できる思想家が日本にいるかというと、当然江戸以前の思想家は俎上に上げられない。明治維新以降の思想家ということになると明治大正は西田幾多郎とか九鬼周造くらいで、戦前はギリギリ小林秀雄、でも彼は文芸批評家だし、戦後は吉本さんと井筒さんくらいしかいないんじゃないか。ほとんどの日本人にとって思想は西洋からの借り物で付け焼き刃だから。でも吉本さんも井筒さんもこれがまあ特殊で、ヨーロッパ哲学の文脈をあえて外しにかかっているところがある。吉本さんは珍しくフーコーの土俵に登ろうとしたのかなぁ。吉本さんはヘーゲル以外はマルクスに至るまでたいした思想家じゃないと言い切ってしまう人なんだけど。
池上 吉本隆明はフーコーに「マルクス主義をどう始末したのか」について訊こうとしたと言っていますよね。さっき言った「最高綱領」という用語といい、ぼくらのように一九六〇年以降に生まれた人は、マルクス主義と言われても、学生運動の体験があるわけでもなく、実感を伴わないというのが偽らざるところではないかと思います。
「いま、吉本隆明25時」のイベントは、ぼくは十八時間目ぐらいで帰って来ちゃったんですけれど、後から出た記録集を読むと、吉本隆明は最後に「だんだん党派の集会に似た感じになって来たことが大変おもしろくなかった」と感想を述べているんです(笑)。ハルノ宵子さんが『隆明だもの』で書いていますけれど、一九七〇年代くらいまで吉本隆明の家には梁山泊のようにいろんな人が集まっていた。強烈な心酔者もいて、その中には自殺してしまう人もいた。吉本隆明は、自分の中の異常な何かが影響を与えたに違いないという意味のことを書いています。吉本隆明の思想は非常に吸引力があるんだけど、その思想の世界は出口が見えないところがある。だから、自分の考え方が確立する前の思春期に吉本隆明の思想にのめり込むと〝出口なし〟になっちゃうケースがあるんだろうと思います。田村隆一は「女の子は吉本隆明さんなんて読んじゃいけません」って言っていたけれど、ぼくは「男の子だって吉本隆明は読んじゃいけない」と思うんですよ(笑)。
鶴山 吉本さんは「思想のためには死ねないけど、子どものためなら死ねる」と言った人でしょ。他人の思想に心酔して自殺しちゃいけないよね。万が一吉本さんの本を読んで自殺願望に駆られる人がいたら、「転向論」の中野重治の部分を読んで考え直した方がいい。
池上 マルクスということで言えば、同時代だと廣松渉という哲学者がいましたが、吉本隆明は廣松渉についてはどう思っていたんでしょう。
萩野 お互いの著作はとうぜん読んでいたと思いますが、相手をどう評価していたかはちょっと想像がつかないですね。世代的には廣松さんが十歳くらい下なので、廣松さんは吉本さんを読んでいたでしょうけど、吉本さんの方はどうかな。マルクスだから読んでたかな。廣松さんの著作の方がかなりわかりやすいと僕は思いますけど、どうでしょう。同じ哲学者でも大森荘蔵さんになると、こちらは吉本さんとほぼ同年齢ですけど、住んでいる星が違うくらい違いますからね。お互いの言っていることがよく理解できなかったんじゃないかな。
池上 あぁ、そうですか。まあだいたい吉本隆明について語りたいことは語ったように思いますけれど、最後にもう一度詩の話に戻ると、吉本隆明は一九八六年の『記号の森の伝説歌』という詩集では、本とか記号にすごくこだわっています。これはどう考えればいいんでしょうかね。
萩野 特定の文字や記号や数式に対するこだわりがあるのかもしれません。ある特定の文字への偏愛や、ある文字を見つめ続けると違った図形に見えてくる経験がよくありますよね。さっきも言いましたけど、『ハイ・イメージ論』ではカフカにしばしば言及しています。本人はつとめて距離を取ろうとしているけど、変成意識に対する感覚が鋭利に研がれているところが吉本さんにはありますね。
鶴山 『記号の森の伝説歌』はあんまりいい詩集だとは思えないねぇ。
さっきから黙ったまま
「さよなら」は 影絵みたいに
ひっそりと 主賓の席にひかえてる
詩は 書くことがいっぱいあるから
書くんじゃない
書くこと 感じること
なんにもないから書くんさ
ぽつりそうつぶやくと
忌まわしい われらの時代の
鋭敏な言葉の「壮丁」として
『民数紀略』の文句にまぎれて
消えていった
シナイのモーゼみたいに
『記号の森の伝説歌』最後の「Ⅶ 演歌」最終二連です。誰かの送別会、もしかするとお通夜かもしれない会席の様子がうっすらと描かれているんですが「さっきから黙ったまま/「さよなら」は 影絵みたいに/ひっそりと 主賓の席にひかえてる」とあるので、主賓が出席者に送別されるのではなく主賓が出席者にさよならを言って去っていくのだろうと読める。次の「詩は 書くことがいっぱいあるから/書くんじゃない/書くこと 感じること/なんにもないから書くんさ」は文字通り受け取っていい。中身が空虚な主賓がさよならを言って去っていくと解釈していいでしょうね。この主賓には恐らく吉本さん自身が投影されている。最後は倒置法ですが『民数紀略』の文句にまぎれて」(主賓は)「シナイのモーゼみたいに」「消えていった」。つまり「記号の森」に消えていった。
そのくらいは読解できるのですが、全体としては表現することがないので記号(文字やその成り立ちやイメージ全般)を駆使して森を作ろうとした詩集じゃないかという気がします。
ただ「詩は 書くことがいっぱいあるから/書くんじゃない書くこと 感じること/なんにもないから書くんさ」という痛切に響かなければならない詩行があまり効いていない。詩人でも小説家でも作品を書く場合は〝何も書くことがない〟地点がスタートです。書くことがいっぱいあると思い込んでるのは素人だけよ。プロは書き続けてるからいつもスッカラカンなんだ。ストックなんてない。
吉本さんはそれを記号で膨らませたわけですが評論で分析に淫するように記号の展開に淫している気配がある。〝何も書くことがない〟を痛切に響かせるためには何らかの形で「記号の森」を壊さなければならないんだけどそれをやらない。「記号の森」のまま放り出している。吉本さんらしいね。ただテマティックにキッチリ最後まで仕上げたから「あとがき」で「久しぶりに何かをやり遂げた、/充実した思いを抱いている」と書いたんでしょうね。
池上 鮎川信夫は一九八三年頃に、十年間は詩をやめると言って、詩を書かなくなった。一方、田村隆一は一九九八年の死の間際まで書き続けました。吉本隆明は一九九三年の三月、六十八歲の時に「わたしの本はすぐに終る」という詩を一篇書いて、その後、詩は書いてない。これが最後の詩になったわけです。だけど、もう詩を書かないとも宣言していない。亡くなったのが二〇一二年の三月十六日だから、二十年近く詩を書かなかったことになります。この詩は百六十行を超える長い詩なんですが、初めと終わりを引用します。
顔もわからない読者よ
わたしの本はすぐに終る 本を出たら
まっすぐ路があるはずだ
埃っぽい日がな一日かけても おわりまで着かない
しまいは蟻の行列のように
あちらからも こちらからも
あつまってきた一隊で
くたびれはてた活字のように
また一冊の本ができそうだ
(中略)
本はどんな本も
終りのない印刻のレールだ
活字たちはみんな意味を惜しがり
逸脱をこわがっている
顔のわからない読者よ 眼をあげて
金属色の魂をなげ捨てろ
その現場は見られないように
昨日の凍えた雨が閉めきった窓を
空の青にむかってひらく
本が終るたびに繰り返された
本には魂がのこされていない
(中略)
海の寄せ場には 子どもの好きな
秘密の場所があった
いちばん仲のよかったハゼや穴子
てぐすの糸がひと筋あれば
内密の会話がはずんだ
巨きな遊歴の途次だとひそかに告げた
あの魚たちだけには
どこまで どこへゆくのだろう
あおじろい恐怖がつきまとう
魚たちから 信号があったら
あの場所に帰らなくてはならない
鶴山 「わたしの本はすぐに終る」という詩は知らなかったな。今初めて読んだんだけど、いい詩だねぇ。驚いた。・・・・・・うん、ちょっと泣けてくるほどいい詩だ。もっとこういう詩を書けばよかったのに。
そうなんだ、「わたしの本はすぐに終る」んだ。これは文字通りの表現です。どんなに時間と労力をかけてぶ厚い本を書いてもたかが知れてる。虚しい。「わたしの本はすぐに終る」という絶望はよくわかります。一冊本を書くたびに絶望が深まるんだ。〝だがしかし〟と思うから本を書き続けるわけだけど、読者を信用しているわけじゃない。読者なんてぜんぜん信用できない、あてにならない。自分のために、「子どもの好きな/秘密の場所」に支えられて書くんだ。吉本さんは弱みを見せたがらない人だったけど正直で素直な詩だな。遺言っぽい詩ですね。
池上 これで最後の作品にしようと思って書いた詩だという理解でいいのでしょうか。
鶴山 恐らくそうでしょうね。あるいは詩人としての意地かな。吉本さんの代表作にしていい詩だと思います。痛切な意識と思想の流れが無理なく、でもあちこち飛躍しながらサラリと最後まで流れている。長いけど読んでいて飽きない。吉本さんの詩はあまり誉めて来なかったけど、優れた作家は最後まで傑作を書き残せる可能性を持ってるんだねぇ。
萩野 吉本さんは旧約聖書の『ヨブ記』が好きなんですよね。ヨブに対する強い共感があるのでしょう。ヨブは神に試されてさまざまな苦難に遭うんですが、最後まで信仰をつらぬいた人物です。吉本さんは敗戦後、それまで抱いていた信仰と思想とをつらぬけなかった。とうぜんながら、そのトラウマは深いと思います。でもヨブへの共感はそのような信仰のありかたにあるのではなく、次から次へと理不尽な目に遭わせる神とは何なのだというヨブの嘆きにあります。そんな神だからこそ信じなくてはならないのだ、という屈曲した神と人との関係性の認識、それが吉本の思想的出発点になっているんです。この認識は絶対的な孤立を強いるものです。「自立」の原点がここにある。だから一方で「大衆の原像」と言いながら、戦後社会とは、いや他者とは本質的に折り合えない面が本当はあったんじゃないかな。転向者よりも非転向者に厳しく、転向者に対しては人によりますが、さっきお話した清水幾太郎のようにむしろ擁護しているところにかいま見えます。その底には清水よ、お前もそうかという思いがあるんですね。
鶴山 思想というのは肉体的な強さがなければなんの意味もないということです。右翼か左翼かなんてたいした問題じゃない。人間存在は小さいですから社会が変わった時には思想も変化しなければなりません。それは人それぞれ。変化しても肉体的強さと一貫性があるならそれは優れた思想であり、思想に肉体性が認められなければ単に時流に迎合した変節・転向になる。文学の世界で尊敬されているのは作品を通して強烈な思想の肉体性を感受できる作家たちだけです。
吉本さんはそういう作家の一人ですが「(敗戦)体験が二・三年のうちに失われてしまったことのなかに〈戦後〉の意味が隠されている」と書きました。吉本さんは皆すぐに忘れてしまった、ほんの二、三年で霧散した初源の敗戦体験にこだわった。どんなに変化しても吉本思想は初源から一貫している。
池上 吉本隆明は戦争には行っていませんけれど、まさに戦後詩人として捉えていいわけですよね。
鶴山 もちろん。ただ詩人個々の作品史と戦後詩の流れは交差するだけで完全一致しないですよね。田村さんは高度情報化社会に合わせて変化していったわけだけど、吉本さんは少なくとも評論でそこにアップデートしていった。吉本詩には戦後詩と交差するポイントがあるけど戦後詩の表現の強さとして見ると数編しかなくて、吉本さんの思想・感情表現として個的に読んだ方がいい詩の方が多いかもしれない。
でもまあうまくできているよね。戦後詩を代表するのは田村隆一だけど戦後思想では吉本さんは大山脈だから。そして鮎川さんはすべての始まりだ。
池上 鶴山さんは、「荒地」派の中での吉本隆明の位置付けをどう見ていますか。
鶴山 鬼っ子じゃないかな。明らかに異質ですよ。
池上 吉本隆明は最初は諏訪優とかと一緒に「聖家族」という詩の同人誌をやっていて、「荒地」に参加したのはその後ですものね。
鶴山 根っこは心優しい抒情派なんだよ。
萩野 吉本さん自身が言っていたと思うんですが、死からの視点がふたたび始まりの視点に還ってつながってくる。吉本さんは「発生」の思想家だと言いましたが、その根底には一方に「初源」があるとすれば、他方その先に終末としての「死」がある。すると「死」の側から逆照射するようにこちら側を視る眼差しが生じる。「発生」と「死」、時空を越えたその両端を同時に見据えること、この同時性が肝心で、そうでないと吉本さんのいう世界把握にならない。初源と終末、アルファとオメガの両方を同時に視る眼差しをつねにもち続けたところに吉本さんの思想家としての大きさがあると思います。
池上 その根底には、やはり戦争体験があるわけですよね。
鶴山 でも『マス・イメージ論』『ハイ・イメージ論』で鮎川信夫も田村隆一も逃れられなかった戦後的個の位相から抜け出たようなところがある。偉大です。
萩野 そうですね。今年、二〇二四年は吉本さんの生誕百年の節目にあたりますが、現世代はもちろん、未来の読者を絶えることなく生み続けるだけの魅力を、吉本隆明という作品はこれからも発していくでしょうね。
(金魚屋スタジオにて収録 「吉本隆明篇」第04回 了)
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