来世はあるのか、人は悟ることができるのか。死の瞬間まで何かを求め迷い続ける人間に救済は訪れるのだろうか。そもそも人間は迷い続けている自己を正確に認識できるのだろうか・・・。「津久井やまゆり園」事件を論じた『アブラハムの末裔』で金魚屋新人賞を受賞した作家の肉体思想的評論第三弾。
by 金魚屋編集部
三.人生の梯子
⒈
ハシゴを架ける。
生まれてこのかた、子どもから大人になりやがて死に至るまで、ハシゴを上り続けるよう陰に陽に求められた経験が一度もない、というひとがいるだろうか。
老いさらばえても、病に臥せっていても、そんな意欲などとうになくなっていても、生きてある限り「あなたはもっと成長しなくてはならない」というささやき声が耳元から離れることはない。ようは成長という名のハシゴをひたすら上るということである。え何だって。声なんて聴こえない? そう言うひとはたいてい、聴こえないフリをしているか、聴いている余裕もなくせっせと上り続けて止まないひとだ。
世の人びとのあらゆるいとなみ――思想、宗教、道徳、法、政治、経済、科学にテクノロジー、芸術、あらゆる芸事やスポーツから習い事、趣味嗜好、道楽にギャンブルに、はては悪事に至るまで――どんないとなみも、ハシゴを架けては上る、ただそのために存在すると言っても過言ではない。
典型的なのが「立身出世」だろう。「トップ」や「チャンピオン」や「王」の座につきたいという、たかだかそれだけのために熾烈な競争を勝ち抜き、壁を乗り越えようとし続ける。人間っていう生き物は、生まれつきハシゴを架けて上ろうと欲する、いや欲したつもりはなくても、さあ上れ上れと羊のごとく追い立てられるように作られた動物ではないのか。そう思わずにはいられない。たとえ追い立てられなくても、一段上がるとまた一段、それを上がるとさらに一段といった塩梅で、ついもっと、またもっとと、いつまでも上がりたくなってしまう。上がったぶん、それまで見えなかった眺めが得られる。すると、なぜかもっと高いところからの眺めが見たくなってくる。よく出来たものである。「さあこれで上り切ったぞぉ」と思ったら、さらに別のハシゴがちゃんと用意されている。「もう上るハシゴなぞなくなった」と思うことは死ぬまでない。逆に言えば「あれれ、もう上がるハシゴなんてどこにもないぞ」と思った時、それが死を迎える時なのかもしれない。よくもわるくも、なぜか世の中そうなっているのだ。
一口にハシゴと言ってもさまざまである。
高いのもあれば、低いのもある。すうっと真っ直ぐなのもある。が、たいていはクネクネと折れ曲がっている。はじめから折れていることもある。容易には上れないように出来ているのだ。上り方もひとそれぞれである。するすると巧みに上っていくひとがいれば、怖くて上れないひともいる。上っている途中で足をすべらせ、墜落してしまうひともすくなくない。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』には、お釈迦様があわれに思って垂らした一本のか細い糸へわれ先にと群がる、あさましい人びとの姿が描かれている。かれらのように欲得と自らの重みで落ちる、自業自得と言うべき者たちもいる。他方、同じ作者の『杜子春』は、巨万の富を得ても遊興に耽っても満たされず、落魄の身となる若者が主人公である。かれは世の中に倦み、世俗を超脱した仙人にあこがれ、弟子入りを志願する。そして修行中に地獄へ落とされ、そこで痩せこけた馬の姿に身をやつした父母が、鬼に引き立てられ目の前で鞭打たれるのを見る。口をきいてはならぬと仙人に言われ必死に堪えていた杜子春の耳に、母の懐かしい声が聴こえてくる。「心配をおしでない。私たちはどうなっても、お前さえ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。言ひたくないことは黙って御出で」それまで固く口を閉ざしていた主人公は、馬に駆け寄るとその頭をかき抱き、涙を流しながら仙人との約束を破って叫ぶ「お母さん」。われに帰った若者はこうして成長のハシゴを一段上がったのである。ハシゴを上ったり落ちたりという人間模様に自分の写し鏡を見るひとがすくなくないからこそ、いまなお芥川の小説は読み継がれるという意味で、このひとは作家としての評価はともあれ、「寓話」の天才と言っていい。
さて墜落するひとがいる以前に、オレにはどうせ上れやしないとのっけから諦めているひともいる。そもそもハシゴの存在を知らないというひとも、まれにはいる。
「出世だけが人生じゃないさ」
「世の中が進歩し、暮らしが豊かになれば幸せだとは限らないさ」
と自分は反・ハシゴ派だと反論する向きもきっとあるだろう。ちょっと待ってほしい。それはそれで「自分らしい人生」「こころの豊かさ」などという別のハシゴを架けようとしているのだ。いきおい、ひとの数だけ考え方もハウツーもあり、啓蒙するひともいるという次第である。いずれにせよ、ハシゴを上ることに変わりはない。
ところが世の中には、いったん上ったハシゴをふたたび下りて戻って来るという、奇特なひとがいる。自らの意志によって。
⒉
仏教には昔から、大きく分けると「大乗」と「小乗」という二つの考え方、もしくは立場がある。大きな乗り物である「大乗」の立場では、いったん上ったハシゴを下りて戻って来ることを、さっき言ったように〝往相〟に対する〝還相〟という。悟りをひらき、解脱してホトケになったほどの者なら、悟りの世界へ往きっぱなしになって満足していてはいけない。ふたたび凡夫の側へ戻って来て、衆生済度に相つとめなくてはならない。ハシゴを架けておきながら自分だけ往きっぱなしになるのは小さな乗り物、つまり「小乗」なのであって、ホトケの真の精神、慈悲の精神に反するからいかん。これが〝還相〟である。
否定された「小乗」の側からは、「大乗」側への反論があったのかどうか。無学な筆者は知らない。ただ、筆者ならこう反論するだろう。
その前に「大乗」には、そもそもハシゴなんてありはしない、という考え方がある。成長というハシゴをあくせく上ったり下りたり、そんな世界は儚いまぼろしにすぎない。そこに囚われて何も見えなくなっているおのれに気づかねばならぬ。そしてそこから離脱しなくてはならぬ。
典型的なのが禅である。
唐代の禅僧・臨済義玄と言えば「臨済将軍」とたたえられ、中国禅の頂点を極めた人物として名高い。「十牛図」の作者、廓庵も臨済宗の門下だった。禅の修行というと、たいていついて回るイメージに「喝!」があるが、これを広めたのも臨済である。その言行を記した『臨済録』では、こんなことが言われている。意訳である。
「ナニ、悟りじゃと? そんなモノありゃアせん。ん、ホトケかい。そんなもの殺してしまえ。そもホトケとは何とおぬしは心得る。ほかでもない、たったいまわしの説法を聴いておるおぬしこそがホトケじゃ」
「公案」はよく難解だと言われるが、必ずしもそんなことはない。トリッキーでもこけおどしでも何でもない。かれらの立場を透徹していけばきっとそうなる。理屈はむしろかんたんであるが、それを当人たちのもっとも身に沁みる方法で実践するところが修行の要(かなめ)なのだ。じっさいそれまで道を求めてきた弟子は、師の一喝を聞いて大悟する。じつはここまでの過程こそが、日々のおこないのすべてが禅であり、また大悟なのである。
でも、このひとたちに対してはささやかな、しかし拭いがたい疑問がある。
ハシゴなんてありはしない。禅の師ならきっとそう言うだろう。なるほど一理ある。ごもっともである。がそのことによってかれらは、そのじつもっと高いハシゴをこっそり、だけどしっかり架けているのではないか。
「お前の言うハシゴってやつはな、公案という日々の実践の場でなされるお題目にすぎん。気づきの機にすぎんのだ。囚われておるのはお前の方ではないかな」
そう言って返されるかもしれない。
でもあなたがたは、そうやって相変わらずハシゴを架け続けているじゃないか、とふたたび返すこともできるだろう。
「それでお前は何を言いたいのだ」
ハシゴを上って何が悪いか。そう叱責されるだろうか。悪いとは言っていない。よしあしの話をしているわけではない。大乗の徒が架けたとてつもなく高いハシゴから、かれらをむりやり引きずり下ろすような大それた真似をするつもりはないし、そんな能力も資格も筆者にはない。
筆者が言いたいのはかんたんなことだ。いったん上ったハシゴをふたたび降りて還って来る。そのことで見えないハシゴをさらにもう一段上っているだけなら、ハシゴを架けて上るだけと批判された小乗にしたって、それ以外のあまたの思想や宗教の説く教えにしたって、あくせく日々を送りながら孜々としてハシゴを上っている人びとにしたって、いずれ変わらぬひとのいとなみではないか。その意味では、みなひとしいのではないのか。衆生を済度して止まないというその菩薩道の精神はなるほど、すばらしいかもしれないが、そのことを分岐点にして自他を区別していくなら、それもまたまぼろしではないか。そう言いたいだけである。
そもそもなぜかれらは「一切衆生悉有仏性」と言うのだろう。誰しもが仏の本性をもっているならば、ハシゴなぞ必要だろうか。「誰しもが仏になれるんだ、さあみんな、ハシゴを上るんだ」とハッパをかけて、どうしたいのか。
くり返すが、批判するのが目的ではない。
大乗の教えに「煩悩即菩提」という、よく知られたことばがある。
煩悩とは、ひとの苦しみの元である、自分の心を迷わせ悩まし、ほんらい持っている智慧を曇らせるはたらきをいう。菩提とは悟りの境地、ホトケの世界である。そこでこのことばの意味は「ひとの苦しみの元である、自分の心を迷わせ悩まし、ほんらい持っている智慧を曇らせるはたらきとは、すなわち悟りの境地なのだ」となる。分かったような分からないような文である。逆にしてみようか。「菩提即煩悩」。「悟りの境地はすなわち苦しみの元、自分の心を迷わせ悩まし、ほんらい持っている智慧を曇らせる」これでは、まるでホトケが諸悪の元だと言っているようなものだ。
そこで、こう解してみよう。
「煩悩があればこそ悟りの世界もある」
その逆は、
「悟りの世界があればこそ、煩悩もある」
煩悩も菩提も、ともにあってこその煩悩であり、菩提である。そう考えれば、もはや煩悩も菩提もない。そのような問題設定からして、自ずと消滅するだろう。筆者が禅者ならばこのとき、ひとこと「喝!」と叫ぶだろうか。それともただ黙して座すのみだろうか(これを「只管打坐」という)。これまたハシゴを架けることのひとつには変わるまい。ハシゴなんぞとうにありはしない、と否定するなら、仏教はその実践において、おのれ自身を否定するにひとしくなる。けれど、そこまで往ったからこそ「悟りもホトケもあるものか」と喝破した臨済のことばに血が通う。このあたりが仏教の懐の深いところで、けれど同時に自らの臨界点を示してもいると、筆者は思うのである。
ところで、さっきから筆者は仏教について考えているつもりなのだが、かくいう自分のことばは、はたして誰かに届くのだろうか。そんな疑念を抱かずにおれないできごとを最近経験した。いつも年末が近づくと、全国各地のお寺ですす払いをおこなう様子がテレビで放映される。それを観ていて「あれっ」と思った。すす払いの前にはいつも、仏像の魂を抜く儀式をおこなうというのである。魂を抜くだって? 入れたり抜いたりって……神社ならわかる。でもあなたがたは仏教寺院ではないか。そんなバカな。でもそれを言ったら位牌もそうだろう。そこにご先祖が帰ってくるとか何だとかって……位牌なんて要らんという宗派もあるが、ではお盆って何だ。いまごろ気づくなんて、なんと無知だったことか。多くの日本人はどう思っているのだろう。仏教は五世紀に伝来したとされるが、日本の大半の人びとにとって仏教というものは存在しないし、これまで存在したこともないというのか。いったい日本人って何なのだ。ひるがえって見れば、同じフツーの日本人であるはずの自分は、いったい何者なのか。
筆者はしばし呆然としてテレビを眺めていた。
⒊
それにしても、世の中の大多数を占めるのは、ハシゴを上がりたくても上がれないひとたちではないだろうか。自らを不遇だ、人生思うようにいかないなァと憂えながら生きている(生きた)ひとたちは数知れないだろう。しかし、そもそもハシゴを上がったり下がったりする世界の「外」にある者だっているにちがいない。重度の脳障害や精神障害、認知障害を被った者、わたしたちがあずかり知らない独自の言語と世界観によって生きる種族、M78星雲の住民――いや、このひと(や異星人)たちもハシゴとまったく無縁とはいえまい。知らず知らず上らされていることだってあるにちがいない。健常者のようになりたい、文明人や地球人のようにおろかになりたい等々。ハシゴってやつは、ことほどさように広く深く浸透しているのだ。
こうしたありかたは、近代以降に生まれた「個人」がいやおうなく強いられる社会構造の問題として考えなくてはならないというひともいるだろう。筆者は、それとまったく異なるアプローチをしてみたい。たとえば「自分探し」という以前に、そもそも「自分」なんてものはない、というように。あるいは「自分探し」というゲームの手をいったん止めて、その世界からしばらく降りてみる。するとゲームそのものの見え方、楽しみ方も変わってくるんじゃないか、と。けれどほんとうに世界の「外」にある者とは、忘却の片隅にすら残されていない存在、歴史の中にチラとも登場することなく、わたしたちの視野にはけっして入ってこない者、それゆえ「外」にあると指し示すことすらできない者のことではないだろうか。それを「外」なるものとカッコにくくってしまうのは、かえって隠蔽にひとしいふるまいかもしれない。カッコにくくったり呼び名を付けたりすることで、それについてはもう誰も考えることはしなくなるから。
世の中には、事実の重みというものがある。そのような「外なる」者たちがじっさいに生きてあり、あったであろう事実。発覚してもしなくても事実は事実だろう。そしてそれは、とうぜんこれからもあるだろう。このことはハシゴなど必要としないし、そんなものはあってもなくてもどうでもいい世界がありうることを示唆するだろう。けれどこのことは、けっして証しできない。じっさい誰が証しできるだろう。だからこそ「外」なのだから。である以上、それはわたしたちにとってあくまでも潜在性の次元に止まるしかない。わたしたちのすぐ目の前にいるかもしれないのに、いつだって視界の「外」にあるしかない存在――それはわたしたちの隣人の別名なのかもしれない。
⒋
バカボンパパといえば、赤塚不二夫の『天才バカボン』に登場するメインキャラクターとしてよく知られている。『天才バカボン』が生み出す笑いの中心にいつも鎮座して、まさしく天才と呼ぶしかない、ユニークでとても深い人物である。ちがうよ、作中で天才と呼ばれているのはバカボンの弟、赤ちゃんのハジメちゃんじゃないの。そう指摘するひとがいるだろうけど、そうではない。バカボンパパこそ比類のない天才と呼ばれるにふさわしい、物語の主人公なのだ。このバカボンパパが年がら年中何やらロクでもないことを思いついてはやらかし、登場人物たちとともに読者を騒動と笑いの渦へ巻き込んでいく、そのたびにニコニコしながら口にするのが、あのよく知られた決め台詞である――「これでいいのだ。」
バカボンパパのこの台詞は、「すべてはあるがまま」の世界からさらに一段ハシゴを上ったようにも、逆にそこから下りたようにもみえる。わざわざハシゴを架けておきながら、自らそれを上ろうとはけっして意志しない人物、気まぐれにちょっと架けて遊んでみたけれど、もう飽きちゃったという人物。ハシゴを横に架ける人物。それがバカボンパパである。上ってもいい、下りてもいい。上ったり下ったりする者の様子をただ眺めているのもいい。ハシゴを架けてみたのは、そのひとたちのふるまいに加わって、一緒にいると楽しいからだ。巷に溶け入る布袋のように。みんな楽しければそれでいいじゃないか。ワシはいま、みんなとハシゴ遊びをしているのダ。
そもそも「これでいいのだ。」は誰の声か。
(第02回 了)
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*『人生の梯子』は24日にアップされます。
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