月子(つきこ)・楡木子(ゆきこ)・好女子(すめこ)・夾子(きょうこ)の医家に生まれ育った四人姉妹に、立て続けに事件が襲いかかる。始まりはあのとき。いや、違う。絡まり合った過去の記憶。あるいは謎の糸口は…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ノスタルジックでハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第5弾!
by 小原眞紀子
第十四幕(中編)
骨張った手はひんやりしている。前のときより乱暴だ。おむつは大丈夫ですか、といった言葉も、もうない。
くの字に曲げた脚の間をまさぐられながら、異を唱えることもなく、ただ恐怖に捉えられていた。わたしは狂っているのか。ここはベッドか、裁きの場なのか。
ほとんど何の感覚もなく、わたしはすでに粘膜でできたヒトデのような物体と化していた。
すぐそばで喘ぎ声が聞こえる。これも幻なら、幻聴の類ということか。ヒトデのわたしを激しい息づかいが包み、やがては星形の旗のように乾かされ、宙にはためく。
信用できない。
人殺しの家族。
そんな言葉が頭をよぎった。そう、わたしはおかしいのだ。侵された胃が裏返り、赤い粘膜が想うことだ。
人殺し。
母はわたしをそう思っている。
姉は母をそう呼ぶ。
そしてわたしは妹にそれを告げた。
決して言うまいと思っていたことを。
いずれ死ぬ、この我が身のために。
信じられない。何もかもが。
許しを請え、と、どこかで命令が下っていた。
怖ろしかった。が、言いなりになろうにも、目はもちろん、耳があるかどうか怪しい。わたしはすでに人ですらない。ヒトデだ。
頭の芯が痺れ、目覚めを拒否していた。
支配されるんだ、と声がしていた。「跪け、主人に」
膝はないのよ。ヒトデだから。
「大きいのを、食べるか」
ごく薄く、わたしは目を開いた。
彼の白目は血走っていた。
生気のない乾ききった肌。呆けた表情を浮かべながら、駆り立てられるようにジーンズの前を押しつけている。
「違う。目は閉じたままでいろ。パワーを見せて、と懇願するんだ」
パワー。
パワーを見せて。
「今夜は、」硬直していた舌が、わずかに動いた。
「わたしの家へは行かなかったの? 美希のところに」
ズボンのチャックにかけていた指が止まった。
彼の眼差しは一瞬、落ち着かなげに左右に揺れる。
「あなた、」
わたしは足掻いた。布団を蹴り、起き上がろうとした。
「美希に、やってたのね。こんなことを」
二階の手摺りから、美希は見ていたんじゃない。
されたのだ。
自分がされたことを、わたしに置き換えたのだ。
「夾子に言ってやる」と、わたしは喚いた。
「全部、言ってやるから」
男はわたしの身体を全力で抑え込んだ。
「無駄ですよ。知ってますから」
「知ってる、ですって?」
腕を振り払うと、男の腹に当たった。
「おとなしくしてください。何もしませんよ。こうなったらもう、できないんだ」唐突に、彼は肩を落とした。
「僕は、できない。幼女か、無力な相手でないと」
「幼女ですって」
じゃ、あれは、と、わたしは呟いていた。
リビングでの、あの抱擁は。
「言ったでしょう。あなたが好きです。それは嘘じゃない」
うんざりしたように手を離すと、男は脇へ退いた。
「ただ、勃たないだけ。でも、もしあなたがその格好で、さっきまでみたいに寝ていてくれれば、」
男の汚らしい言葉を、わたしは遮った。「夾子が知っている、って言ったわね」
「そうですよ」
「わたしとのことも」
「ええ。そもそも夾子先生に、あなたを誘うようにって頼まれて」
「でたらめ言わないでよ」
声をかぎりに、わたしは怒鳴っていた。
男が立ち上り、電話に近づこうとした。わたしは飛びかかり、足にしがみつく。ダイニングの床に倒れ、苛立たしげに振り返った。
「信じないのは勝手ですが。言われた通りにしただけです。美希を食べていいから、って」
美希を、食べていい。
「だって我慢できないもの」
と、彼は突然、わたしのネグリジェの胸に細い鼻梁をすりつけた。
「僕は夾子先生とは、できないんだから」
身震いが走った。
「いつから? 美希には、いつから?」
「一年ぐらい前」と答え、長い指でわたしの乳首を摘む。
「先生が、美希ちゃんを病院に連れてきて。美希ちゃんのあそこを、廊下で触ってたら、見つかっちゃって。怒られると思ったら、自分と結婚すれば、この子を食べさせるって」
「それで、」男の手を胸から振り払った。
「わたしを、どうしろと」
「さあね」
彼は鼻白んだように手を引っ込めた。
「ただ、子供っぽく言い寄れば、なびくって。それと、活字好きな振りをしろって。あなたがどう出るか、何もかも飲み込んでるみたいでしたよ。姉妹ってそんなもんですか?」
「理由は。いったい、何のために」
「看護師は、先生の指示に従うだけですからね」と肩をそびやかす。
「理由なんかいちいち訊きません。特に患者のことは」
「あなた、」その瞬間、血の気が引いた。
「やっぱり患者に何かしたの?」
彼は嫌そうに首を振った。
「指示に従った、と言っているでしょう。ただ、ラベルのない点滴薬を」
「打たされた、とでも」
「ええ」
「夾子に?」
返事はなく、ただ首をすくめてみせた。
どうせ嘘に決まっている。
「死刑にまでなりかけて、黙ってたと言うの」
「死刑って。起訴すらされなかったんですよ」
ひどく可笑しそうに、彼は笑った。
「絶対に釈放されるって、夾子先生が請け合った通りだった。下手にしゃべれば、結局は実行犯とかって、決めつけられるって」
「検察に、ずいぶん追いつめられていたじゃないの。拘留中、あなたが書いたあの手紙は」
手紙? と男は惚けた顔をした。
「何のことです。そんなもの、知らないけど。誰の筆跡でしたか」
筆跡。
あの縦横の混乱した線が、筆跡と呼べようか。
「夾子先生が用意したんじゃないかな。こういう医療事件ってのか、結構あるみたいでね。冤罪を主張する手記とか、熱心に読んでたから」
馬鹿馬鹿しい、と、わたしは呟いた。
「ええ。そもそも事故だったんです」彼は言い、視線を逸らした。
「夾子先生は、患者さんを楽にするため、薬の加減を研究してるって。僕のための実験でもあったけど」
「僕のため、って?」
「無力化する、ってことです。いずれ美希も大きくなってしまうでしょ。本当は七歳ぐらいがいいんだ」
若い男はわたしをちらりと眺めた。あのリビングでの上目遣いと、同じといえば同じだ。
刑事の言葉を思い出した。昼間や早朝、わたしの家の周りをうろうろして。それも美希に、幼女の身体に飢えていたのだ。
「それで、夾子の言うのを鵜呑みにしていた、って? じゃ、もし起訴されていたら?」
「そのときは、あなたに指示された、と告げるはずでした」
「そんな、くだらないことが」
通用すると本気で思うなら、こいつは低能だ。
「くだらないですか? 警察はすでに、あなたを疑う理由を用意してたじゃないですか」
彼は得意そうに説明をはじめた。
「僕に夢中になったあなたが、二人の関係をばらすと脅した、と証言すれば、どうです?」
わたしは呆れ、畳から立とうとして眩暈を覚えた。
男は看護師然と、わたしに手を貸そうとする。
「触らないでちょうだい。そんなでまかせ、信じると思うの?」
「くだらない、でまかせ、か」と、軽蔑したような横目で見る。
「殺人未遂で起訴されかけた件の患者は、夾子先生が救命処置したんですよ。それについてのみ、僕があなたに脅迫されてやったと先生が証言すれば。他の立件は証拠不十分だし、僕は未成年だった。情状酌量されて、数年後にはまた七歳の女の子に触れることもできる」
「そんな都合のいい、」と言ってやった。「証言を、夾子がするってわけ? あんたなんかのために」
からかうような視線で、男はわたしを見た。
「妻ですからね」と真顔で答えると、ひゃひゃ、と笑う。
「弁護士さんも感心するぐらい、僕は落ち着いてたんですって。夾子先生に全幅の信頼を置いてましたからね。彼女と結婚して、よかったな」
後から思えば、そのときのわたしを本当に怒らせたのは、この最後の一言だったかもしれない。
「美希がわたしに虐待されたというのは。あんたが言わせたの?」
「夾子先生が。友達がジャングルジムから落ちたって、美希ちゃんが公衆電話から知らせてきたとき、警察に証言するように言い聞かせたんですよ。僕が万一、起訴された場合に備えて、前もって警察の関心をあなたに向けるために」
「あの子が、そんなに言いなりになるもんですか。自分が夾子をずっと振り回してきたのに」
「いや。先生にはいつも従いますよ。その理由も、考えたことないな」
「なんで夾子が、そんな指図をするのよ」
ダイニングのテーブルの脚にすがり、怒りにまかせた勢いで立ち上がった。眩暈はごく軽かった。
「さあ、」と彼は女の子のように小首を傾げてみせた。
「僕の好物を確保するって約束したから、かな。それも人並みに結婚してみたいからだろうって、あんた方、お姉さんたちが思ってた通りじゃないですか」
わたしはなぜか、思わず吹き出していた。
毛羽立ったセーターの上から白衣を羽織った彼は、まるっきり飼育された家禽だ。が、同時に、こんな幼稚な頭で、すべてが今、思いついた嘘とも思われなかった。
(第30回 第十四幕 中編 了)
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