月子(つきこ)・楡木子(ゆきこ)・好女子(すめこ)・夾子(きょうこ)の医家に生まれ育った四人姉妹に、立て続けに事件が襲いかかる。始まりはあのとき。いや、違う。絡まり合った過去の記憶。あるいは謎の糸口は…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ノスタルジックでハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第5弾!
by 小原眞紀子
第十四幕(下編)
「僕には運があるんです」軽薄な口調で、男は喋りだしていた。
「小さい子にも好かれるし、顔も目立つし。何か起きても、昔から大丈夫なんで」
好物。餌。
結局、それが与えられるかどうかしか、興味を持てないのだ。こんな動物に一瞬でも、繊細な知性を錯覚したとは。
「毎回、夾子先生は患者を助けようとはしてましたよ。無論、僕も手伝ったし。現在までの医療の進歩だって試みと事故の連続で、ねえ、どこへ行くんです」
「近寄ってこないでちょうだい」
こいつは人間じゃない。
自分にそう言い聞かせ、羞恥心をかなぐり捨てた。ネグリジェの下に手を突っ込み、おむつを引っ剥がす。
「コートと財布を寄こして」
「どうするんですか。身体のことも考えて、」
テーブルの上にあった果物ナイフを、わたしは握りしめていた。
「妄想に駆られた病人だからね。本当に刺すよ」
夾子のサンダルは走りづらかった。煉瓦塀の陰に飛び込み、振り返ると、アパートの玄関から飛び出してきた真田のセーターの背が見えた。
夜の裏道に紛れ、ちょうど客を降ろしていたタクシーを捕まえた。
「この通りをまっすぐ」
コートの襟を掻き合わせて言った。呂律が少し怪しかった。
車から見た自分の家には、灯りがついていた。
先回りされる時間はなかったはずだ。すると美希がいるのか。
タクシーを降り、迂回しながら家に近づいた。砂利の欠片を拾い、窓ガラスに投げた。
反応はなかった。
覚悟を決め、玄関に向かった。ナイフはまだ持っている。
ドアには鍵がかかっていなかった。
呼んでも誰も出てこない。
美希を問いただすなら、おそらく今しかなかった。が、その最後の機会も失われたらしい。
それでも美希が受けていた仕打ちについては、一分ごとに確信が強まってゆく。あの幼児性を強いられたかのような振る舞い。それと矛盾する性的過敏さ。
どうしてこれまで気がつかなかったのか。
今夜ぐらい、休ませて。
襖越しに、夾子と真田が言い争っていたのは、美希のことだった。あの獣は子供に触れなければ、生気を失い、顔貌が変わるほどなのだ。そばに置けば、夜毎に疲れ果てるまでいじり倒すのだろう。
だから夾子は、美希を隔離して、わたしのところに。
リビングにはたった今、出ていったような人の気配が残っていた。
あのアパートより、病院の方がここに近い。あの男から連絡を受け、夾子が来たのか。
ならば、彼が夾子から指示された事柄は、少なくとも一部は本当なのか。
もう限界だった。
頭から血が抜けてゆく感覚に、絨毯にくずおれた。瞼を閉じると、世界が酔ったようにぐるぐる廻りはじめる。ここまで来られたことが奇跡だ。だが下着をつけてない。そんなことが気にかかった。
けれども、なぜ。
夾子が来たというなら、こんな身体のわたしを放って、なぜ美希だけを連れ去ったのか。
もはや、わたしには手当をされる価値もないのか。
嘘つきの弟殺し。
だが母も、月子だって、誰も本当のことを言わなかったではないか。自分だけ意識がなくなり、何もわからないまま死んでゆくのか。
人殺しの家族、として。
薄く目を開いた。
違う。
身体の奥底で、何かが蠢いていた。
まだ、死なない。
微かな力が沸いてくる。それがどこからもたらされるのか、何かに突き動かされるように頭を持ち上げた。
リビングは電気が点けっぱなしだった。
玄関のたたきには、捨てるつもりだったわたしの古い靴が蹴散らされていた。が、人が慌てて出ていった気配は、それだけではなかった。
絨毯の上に、物を引きずった跡が残っている。
子供を引っぱり出した痕跡ではない。平行な幅を持った線で、四角い箱のようなものだ。
わたしは這いつくばり、その跡を辿った。奥の廊下まで続いていた。寝室の扉が開いている。やはり照明が消し忘れられていた。
寝室に入った。その絨毯の上にも、物を引きずり出した跡がある。片隅に段ボールか何か、置いてあったのか。
それを運び出したのだ。それも大急ぎで。
四つん這いの姿勢に耐えきれず、がくっと肘を突いた。と、ベッドの下に落ちていた、一枚の紙切れが目に入った。
手書きでびっしり書き込まれている。
わたしの筆跡だった。
実家から消えた、あの古い原稿の一部だった。
「羽田まで」
夾子の声がする。
羽。飛び立つための準備だ。
飛べるのだろうか、こうも眠くて。
翼を背に螺子で留められても、と思ったとき、わずかに意識が戻った。
タクシーの後部座席だった。
往診鞄を肘掛け代わりにし、右側は誰かに支えられている。たぶん真田だ。前の助手席には夾子が坐っていた。
わたしはどうやら、ブルーグレイのスーツを着ているらしかった。
今朝方、二人がかりで着替えさせられたのを思い出した。口紅を塗った記憶はない。病人然と蒼ざめているに違いあるまい。
ここは、どこの交差点だろう。
窓の外のいっぱいの光の中、人々の流れが交じりあっている。八方から通り過ぎ、別の川へと波に乗り、それぞれ光を乱して散ってゆく。
あの後。
そうだった。自分の家で倒れていた。
誰かに注射され、車に押し込まれ、夾子のアパートに戻ったのだ。キャンドルの残り香、微かな水仙の匂いでそれとわかった。
まだ眠っているふりをしながら、そっと顔を横に向けた。
真田は片手でわたしの肩を支え、外を眺めている。その様子はどこか、窓ガラスに貼り付く子供じみていた。
わたしは寝返りを打つように身じろぎし、座席に深く身体を沈めた。往診鞄に頭を寄せると、古く馴染んだ皮の匂いがした。
昔、父も使っていた匂い。
まったく、楡木子ときたら。
実家の診察室に、父の野太い声が響く。
何にでも鼻を突っ込むな。余計なことばかりして。
わたしの掌に、鞄の金具が当たった。
そうよ、と月子が炬燵の中で言う。
火中の栗を拾いたがる質なんだから。
「羽田、ですって?」
ふいに、さっきの夾子の言葉を思い出して、わたしは声を上げた。
「ホクシャイヘン、じゃないの?」
国際線。舌が回らない。
「ああ、」バックミラーに夾子の目が映っていた。
「名古屋のセントレアに飛んで、ワシントンに向かうの。その身体で成田まで行くより、負担がかからないから。考えたのよ、いろいろと」
「はんたは、ろこまで?」
あんたは、どこまで?
「名古屋までよ。ワシントン行きに乗ったのを見届けるから」
アメリカでは、真田が付き添う。
わたしが死ぬまで、まだ何ヶ月か、かかるだろうに。
美希がいない土地で、彼は耐えられるのか。それともその間、青い眼の幼児でも餌にするのか。
再び頭を鞄にもたせかけた。他人の欲望にまで気を回す力など、もう残っていなかった。
もはやここまでだ、眠ってしまうのだ。
と、思った直後、それを裏切るように指だけが動く。
鞄の金具が音もなく開いた。
ちょっかいを出すんじゃない、と父が叱る。
俊。
生まれて数週間で死んだ弟。
ベビーベッドにうつぶせで窒息して。
「手足をばたつかせているうち、裏返しにひっくり返ったんだ」
父はそう言った。
「なぜ暴れたのよ?」
そう訊いたのは、好女子だったか。
前日、頭を打ったから、とは父は言わなかった。いつだって余計なことばかりする、とも。
わたしが俊を抱いて階段から落ちたことについて、あのとき誰も、何も言わなかった。
指先に、ガラスの感触が当たった。
ちょうど掌に収まるほどの大きさの瓶だ。
ラベルは貼ってなかった。
わたしは発芽する種子のように、時間をかけ、ゆっくりと身体を起こし、どうやら頭を持ち上げた。
さっきより大きな交差点に差し掛かっていた。
「都大病院に行ってちょうだい」
「姉さん、」
夾子は素早く振り返った。
「気分が悪いの」わたしは言った。「名古屋までなんて、もたないわ」
「羽田の診療所で休めるから」
「羽田までも無理」
「もうすぐ着くわよ」
「病院へ行って」と、運転手の後頭部に叫んだ。
「ここで吐きそう。都大でなくてもいいわ、一番近くの大きな病院」
吐く、と脅された運転手は、飛び上がらんばかりに反応した。
「羽田よ。他はだめ」夾子は言い張った。
どうするんですか、と運転手は慌ただしくナビを操作する。
「佐上記念病院なら七、八分で」
「そこでいいわ」
「いいえ。それなら聖清会病院へ」
「いやよ」わたしは怒鳴った。
「じゃ、停めてください」そう言いながら、夾子はすでにシートベルトを外しかけていた。
タクシーは路肩に停車した。わたしは真田の手を振り払い、往診鞄を盾に、反対側のドアへ向かって身を投げた。
「開けてちょうだい」
夾子より一瞬早く、路上に降りた。
「誰か、助けて」
大通りの歩道には通行人が溢れ、足を止めて眺めていた。
「病人が錯乱して」と、夾子が声を上げ、太った中年女が身をよじって避けた。
目の前に地下鉄の入口があった。サラリーマンらしい数人が上ってくるところだった。
「助けて」
わたしは掌を振った。もう片方の手に、往診鞄から抜いた瓶を握っていた。地下鉄の階段を駆け下りようとしたとき、いきなり背中を押された。
その瞬間、思い出した。
あのときと同じだ。
「大丈夫ですか?」
見知らぬ男女がわたしの顔を覗き込んでいる。
駅の構内に転がり落ちたらしい。
瓶は割れることなく、抱きかかえていた。
あのときと同じだった。
わたしは意識を失うまいとしていた。
「救急車を呼んでください。都大病院へ」
夾子と、その夫の姿は見当たらなかった。
(第31回 第十四幕 下編 了)
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