月子(つきこ)・楡木子(ゆきこ)・好女子(すめこ)・夾子(きょうこ)の医家に生まれ育った四人姉妹に、立て続けに事件が襲いかかる。始まりはあのとき。いや、違う。絡まり合った過去の記憶。あるいは謎の糸口は…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ノスタルジックでハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第5弾!
by 小原眞紀子
第十四幕(上編)
「おむつは大丈夫ですか?」
薄く目を開けると、そこはやはり真っ白な光に満ちた空間だった。
薔薇とジャスミンの香りが濃厚に漂い、天使が微かに眉をしかめている。
「取り替えた方がいいようですね」
布を剥がす音が静寂を破った。
紙おむつの中を覗き込み、脚を開かせた。空気が流れ込み、尻が濡れた冷たさを覚える。そこにあるのはすでに、糞尿を垂れ流す排泄器官に過ぎない。
手際よく紙おむつを取り替えた彼は、湯で濡らしたペーパータオルで肌を清めてくれる。その間、わたしはただ白い光に溢れる宙を見つめているだけだ。トイレに立たなくなってからというもの、夢見心地がとぎれることもない。
「一度、月子さんをお呼びしようかと。ワシントンに発つ前に」
月子。
そんな姉がいたことも忘れていた。
「でも、お忙しい方のようで。夾子もなかなか電話する時間が取れないし」
いいから、やめて、と囁いた。
本当の妹だから。
遠くへ行ってしまうから。
そんなふうに言い、積年の想いを語った姉には、すでに見納めの覚悟があったに違いない。
南の楽園の島へ、わたしだけが出発するつもりでいた。
ならば、それでいい。
姉との今生の別れは済んだ。
慰めるように、彼は頷いた。「ワシントンの病院までは、僕が付き添います。ご主人が手続きを進めてくれていますから」
主人。それはいったい誰なのか。
成人してからのある時期に、偶然、知り合った他人だ。その他人の、何を信じていたのか。
無論、相手もまた、わたしの何物をも信じるべきではなかったが。
なるほど、あれだけ刑事に言われても、わたしと真田との仲を追及しなかったはずだ。
「どうしました。可愛らしい赤ちゃん」
彼は紙袋から新しいアロマキャンドルを出し、火をつけた。優しく頬をつつき、顎に垂れた涎を拭う。
「痛みはないですか? 楽しい夢を見てるようですね」
彼の目を見返す眼差しは、さぞ呆けていたろう。わたしは本物の赤ん坊のような無力感に浸りきっていた。
「さ。ワシントンに着いたら褥が出来ていた、というのでは困ります」
力強い腕で、彼はわたしを横向きにする。布団を巻き込むように丸まると、胎児に戻ったみたいだ。
お母さん。
お母さんのお腹の中。
実母の遺伝子が胃の病を引き起こし、同じ運命を辿る。
それが悲劇だろうか。むしろこの穏やかさが破られ、外国で見知らぬ白人医師の手術を受ける方が辛い。
赤ちゃん。
と、耳元でまた囁く声がする。
ずっとここにいたい。ターミナルケアなら、ここでたくさんだ。
天使もいるし。
眠ったまま、生まれる前の世界へと帰ってゆきたい。
そう伝えようと手を挙げかけ、また睡魔に引き戻された。
よしよし、と軽く毛布を叩かれていた。
花の匂いがする。
何の花だったか、思い出せない。
いや。なぜか思い出したくなかった。
よしよし。
わたしは赤ん坊を抱っこしていた。
違う。赤ん坊を抱っこしているわたしを、わたしが見ている。
実家の二階の物干しだった。
夢なのか、記憶なのか。
洗濯ばさみの錆。古ぼけたバケツ。
裏山と上空の雲。
くっきり鮮明で、今、ここにあるとしか思えない。
おくるみの中の赤ん坊は、腕に揺すられて眠っている。
俊。俊ちゃん。
努めて思い出さなかった、弟の名。
と、そのとき大きな物音がした。
わたしは目が覚め、現実に引き戻された。
部屋は暗かった。襖の隙間から、ダイニングの灯りが漏れている。
「冗談じゃない。約束が違う」
押し殺したような真田の声が聞こえてくる。
「今夜ぐらい、休ませてよ」夾子が応えていた。
何事か言い争っている。
交替のことか。ずいぶんと負担をかけているらしい。
結局、ここも最期の居場所とはなり得ないのだ。
わたしは再び、眠りの中へと逃げ込んだ。
「おむつは大丈夫ですか?」
骨張った手が、布の下をまさぐっていた。
「少し濡れてるけど、まだいいですね」
何かしら違和感を覚えた。わたしは痺れる頭を振った。
無理にも目覚めたかった。
「ねえ、」声がやっと出る。「な、にを」
耳元で荒れた息づかいが聞こえていた。彼の指が触れているのは、紙おむつの湿りではなかった。
脇腹に硬いものが押しつけられていた。忘れ果てていたものが、ふいに蘇った。
いや、と声が掠れた。
頭を振り向けると、微かに唇を開いた彼が見つめていた。その白目が血走っている。
「いや」全身の力を振り絞り、叫んでいた。
と、とたんに彼の顔から生気が失われた。
「どうしましたか?」
なぜ? と唇を動かした。
なぜ、今なのだ。病み衰え、めくられたネグリジェの下は、おむつで尻を膨らませている。以前はディオールのスーツを着こなし、美しいと言う人もあった。その頃、あれほど激しく抱き合っても触れようとしなかったところを、今、どうして。
「嫌な夢でも見たようですね」
我に返ったように、彼は笑顔になった。頬の白っぽい肌はかさつき、作り物じみた笑みは汚らしかった。
「夢。とんでもないわ」
存外、はっきりした声が出た。
なぜ、そんな言い逃れをするのか。ちゃんと身繕いさえさせてくれたら。今の自分に、あえて拒む理由もない。
「お薬の影響でしょう」
威厳を含んだ目つきで、彼は布団の上のわたしを見下ろした。
「願望や罪悪感が歪んだ幻影を呼び起こしている」
願望。
「罪悪感、ですって?」
羞恥心を押しのけ、激しい怒りが湧いた。少なくとも彼に、そんなふうに決めつけられる筋合いはない。
「そうですよ」
彼は肩をすくめた。これまでにない態度だった。
見れば、ぴったりした看護師用でなく、医師や薬剤師向けの白衣を羽織っている。長すぎてちんちくりんだ。その裾で、ズボンの前が隠されている。
「子供の頃、あなたは弟を殺してしまった、と聞いてます。お母さんも、そのことで家を出ていったんでしょ?」
夜になり、夾子が帰った気配があった。襖の後ろで、低く言葉を交わしている。
その後、彼が玄関を出てゆくらしい物音がした。
「姉さん、起きてたの?」
部屋に入った妹は畳に膝を突き、微笑みながら髪を解きはじめた。
「帰るのを待ってたのよ」
面と向かうのは、病気のことを聞かされた晩以来だった。
水が溢れるかのように、圧倒的な恐怖心が襲いかかる。
「注射を打たせないなんて」と、夾子は叱りつけた。
「激痛がきたら、どうするつもりなの?」
「話が済んだら、してちょうだい」
自分の声が弱々しく、耳に届いてくる。
「彼から新説を聞いたわ。お母さんが出て行った理由」
夾子は深く息を吐き、膝を崩して坐った。
「楡木子姉さんには話すまいと思ってたけど。お母さん、いなくなる前に言っていたのよ」
「あなたに? 何て?」
「やはり俊が不憫だ、って。楡木子を恨むまいと思っても、年月が過ぎるほどに、この家にいるのが辛くなるって」
「嘘よ」わたしは辛うじて言った。「お母さんが、そんなこと」
が、ならば、と同時に思い浮かんだ。母が最後に、わたしに伝えようとしたのは、そのことなのか。
「本当よ。でも、そんな昔のことなんか、もういいでしょ。他の事情があったのに、姉さんのせいにしただけかもしれない。姉さんだって今、それどころじゃ、」
「だったら、そんな昔のことなんか、どうして彼に話したのよ」
だって、と夾子は口ごもった。
「夫婦だもの」
夫婦。
あんたの夫はね、指を紙おむつの下に。
が、それで辱められるのはわたしの方だ。あたかも自分が縮み、虫のように取るに足りない存在と化したかのようだった。
「いくら夫婦でも、」と、それでも言い返した。
「姉妹にも知らせてない、お母さんのことを」
「月子姉さんには話したわよ」
「いつ?」
「二、三年前かな。十分に納得してた」
「嘘よ」
今度は叫んでいた。「月子姉さんは、そんなこと言ってなかった」
「だから、楡木子姉さんには聞かせないって、約束を」
「違う!」枕の上の頭に、自分の声がじんじんと響く。
「月子姉さんが、納得なんかするもんですか。お母さんが出ていったのは、別の原因があると思ってるのに」
「別の原因って?」夾子は訊いた。
「俊のことなんかじゃない、全然違う」
まだ薬が残っているのだろうか。興奮するにつれて天井がぐるぐる回りはじめた。
「お父さんの心臓麻痺よ。お母さんが毒を盛ったって思ってるのよ」
「何ですって」
一瞬の沈黙の後、妹は笑い出した。
「楡木子姉さんったら、それを信じたわけ?」
「いいえ。まさか」と、返事せざるを得なかった。
「お母さんが、そんな馬鹿らしいこと」
「だったら、姉さんこそ。信じてもないのに、なぜ、わたしに話すの?」
わたしは言葉を失い、畳の縁を見つめていた。
「月子姉さんったら。よほどお母さんが憎いのね」
諦めたように、妹はうつむいた。
「どうとでも思いたければ仕方ない。もう説得しても、無駄ね」
お母さんの話はやめましょ、と夾子は顔を上げた。
「忠くんが余計なことを言ったのは、謝るわ。姉さんの妄想がひどくて、頭に血が上ってしまったって」
「妄想ですって?」
あの、彼の指がわたしに仕掛けたことか。
あれを妄想と称し、自ら夾子に話したのか。
「モルヒネの副作用ね」
威厳をもって、妹は決めつけた。
「幻覚が被害妄想的になってる。だいたい、お父さんが毒殺されたってのも、本当に月子姉さんの考えなのかしら」
わたしを眺めるその眼差しは、憐れみと疑いが混ざり合っていた。
「自分が夢に見て、月子姉さんが言ったと思い込んでいるんじゃないの」
もしかして、そうなのか。
何も答えられなかった。夾子の白いブラウスとクリーム色のスカートが白衣姿に見えた。
「とにかく出発まで、あとちょっとだから。疲れることは、あまり考えないで」
(第29回 第十四幕 上編 了)
縦書きでもお読みいただけます。左のボタンをクリックしてファイルを表示させてください。
*『幕間は波のごとく』は毎月03日にアップされます。
■ 小原眞紀子さんの本 ■
■ 金魚屋の小説―――金魚屋の小説だから面白い! ■
■ 金魚屋の本 ■
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■
■ 金魚屋 BOOK Café ■