「津久井やまゆり園」事件はなぜ起こったのか。それは偏執狂的人間の常軌を逸した犯行なのか。そうではあるまい。そこには「全人類が心の隅に隠した想い」、決して表立って語られることのない〝思想〟が隠されている。
金魚屋新人賞選考委員辻原登が、「その真の価値は作家の〝肉体的思想〟が表現されていることにある」と絶賛した現実の事件を超えた思想的事件を巡る衝撃的評論!
by 金魚屋編集部
五.アブラハム=キルケゴール(前編)
聖典の民の祖であり、信仰の父と称えられるアブラハムは、あるとき神の召命を受ける。かれには年老いて授かった愛するひとり子イサクがいた。その子をモリア山上で燔祭にせよ、つまり生贄に供えよと命じられる。創世記第二二章の広く知られたエピソードである。その著「おそれとおののき」で、これを自らの試練として俎上に載せた者がセーレン・キルケゴールであり、無知な私の知る限り、その精神を継いで世に問うた者が二人いる。「死を与える」のジャック・デリダと「ドストエフスキー」の山城むつみである。
このエピソードは、偉大な信仰者の話ではない。神に生きる者は、世の規矩も愛も、すべてを踏み越えずにおれないという寓話が語られているのではない。それだけならば、かれはたんに一民族の祖、あるいはセム系一神教の宗教的な範として民の記憶に刻まれるのみだったろう。また今日であれば、神の命令にひたすら従順にしたがい、子殺しまでおこなったたんなる狂信者としか思えないひとも少なくないだろう。これは神の試練でもなく、信仰と呼ばれる背理でもない。愛の試練であり、愛と呼ばれる背理なのである。ここに単独者と普遍的なものという本来並び立たないものが「媒介なしに」(キルケゴール)交わる機がある。
神がイサクを要求するとき、いよいよ深く彼はイサクを愛さざるをえない、愛すればこそ、彼はイサクを犠牲にささげることができるのである。なぜなら、イサクに対するこの愛こそ、この愛と神の愛との逆説的な対立によって、彼の行為をひとつの犠牲たらしめるものにほかならないからである。
(強調原文。セーレン・キルケゴール「おそれ と おののき」、桝田啓三郎訳、『キルケゴール著作集5』一二三頁、白水社、一九六二、以降、同書からの引用を「おそれ」と略記し、引用頁を記載)
私もキルケゴールのように問わずにいられない。自身がアブラハムだったらどうするか。愛するわが子を殺めることが私にできるだろうか、と。海の向こうの、近寄り難い一神教の世界のおとぎ話ではない。問われたそのときから、私はアブラハムとなる。わが内なる植松が、ニヤッと薄笑いを浮かべながらこう問いかけてくるのだ。「きみは命より大切なこの子をひとり置いて、先に逝くってのかい? 無責任な奴だねえ。少しは不憫に思わないのかな? そんなに意気地なしなのかい? まあいい、きみのような輩のためにぼくは身を捨てて羊たちを生贄に捧げたんだぜ」。
ここで植松の論理をおさらいしておこう。それは、
①世の中の役に立たないような存在は、消滅させたほうがいい。
②本人にとってみても、その方が幸せである(自己決定権と言われるが、そのような判断能力をかれらは持っているだろうか?)。
③肉親にとってみても、後顧の憂いがなくなってもってこいである(大切に思えば思うほど憂いも深いだろうから) 。
反論し否定するのはたやすい。だが、かれにとって否定や非難など折り込み済みであって、何の痛痒も感じないだろう。かれの声はいくら反論しようとも消え去らない。ほかでもない、それは「全人類が心の隅に隠した想い」、つまりは私自身の声だからだ。この世の隠れた狡知は、植松という名を借りて、こうした機からあらわになる。
できるかもしれない。
アブラハムのように神とつながっているという信念をたゆまず持ち続けうる者なら、何をためらうことがあろう。信仰は躓きとなりえない……そう考えては過つだろう。ではアブラハムではなく、私のように信仰という根を持たない者だったら? むろん、できるはずがない。何をためらう理由があろう。神と最愛の子とを天秤にかけ、いずれかを選べと言われたら後者を取るに決まっている。神を、父なるもの=エディプス的なもの、あるいは自身と自身の属する共同体とを結ぶ諸力・諸関係が外化したものとみなすならば、二〇世紀以降の文脈に生きる私にとって、そのようなものは揚棄すべき遺制でしかあるまい。
そうではない。アブラハム=キルケゴールの神とはそういう存在ではない。向き合う者を単独者にせずにはいない他者の謂なのである。アブラハムはまさにその例であり、かれは共同体の長としてではなく、単独者として神に、そして子に対面しているのだ。このとき試練は、重すぎる荷となる。というのもこれは、神をとるか子をとるかという選択不可避、かつ択一不能な窮境を意味するのではないからである。そのような問題ではないのだ。アブラハムは信仰を試されているのではなく(それなら、かれにはむしろたやすいことだったはずだ)、愛に生きる者であれば必ず逢着する「逆説」(キルケゴール)に直面し、その稜線上に立っているのである。試練とは、わが子を心の底から愛するならば、その子のために殺めなくてはならないという背理であり、無条件にしたがわなくてはならない定言命法なのである。それは信仰の証しというより、愛の証しのためである。信仰もまた、愛の見せる異なる顔である。そして、愛とは犠牲である。ちょっと待ってくれ、愛とはひととひとを縒り合わせるものではなかったのか? 老いさらばえたこの身でよければ、よろこんで代わりにもなろう。そう思って厳命に背くなら、子との絆は永遠に奪われ、自らの魂ともどもまったき無へと没するだろう。いや、それよりもっとおそろしいのは、愛それ自体を喪うことだ。この子に手を下さない限り、私の愛は偽りにすぎず、それによって何も知らぬこの子の魂もまた永久に汚されるだろう。この私が存在してしまったがために、しかも愛するがゆえに、目の前のわが子を自らの手で、あくまでも私のこの手で犠牲に供さなくてはならないのか。このあまりにも過酷な現実が私を圧倒する。なぜそこまで思いつめるのか? といぶかしく思われるだろうか。しかし、わが子と自らをもはや分かち難いほど愛するに至った者は、この子の魂ごと抱きかかえるようにして逝こうと、一度たりとも思わなかったことがあろうか。だから、このとき命じたのは神でもなければ、神の名を騙った悪魔のしわざでもない。疑心暗鬼に陥らせ、弱き私をこころみる者は誰なのか。死して永遠のいのちを得ようと誘う者は誰か? この子ではないのか?――けっこうだ。しかしその代償は、いま・げんにある唯一無二の当のものを根こそぎ損うということではないか。秤にかけられているのは、まさにこのことなのだ。――悩むことなんてあるのかい? 死んじまったらそれっきりじゃないか。まったき無へと没するだけじゃないか。そうだとしたらむしろこの生は、何でもありじゃないのかね? おのれの思うがまま、なすがままに任せてみたらどうだい? それがすべてじゃないのかい?――耳元でささやく声がある。ではこの子の生は? そっちはどうなる? 私なんぞ知ったことじゃない、肝心なのはこの子ではないか!――考えるほどに自縛され動けない。神よ、もし存在するならなぜあなたは他の者でなくわざわざこの私を選び、かくもおそるべき試練を課すのか? この誠心を疑うのか? 私はあなたを、すなわち自らを呪わずにいられない。そして踵を返して最愛の者を、まさに心より愛するがゆえに私は憎む。それにしても、この子はいったい何者なのだ? この、もっとも近くて遠い者は?
もし私が憎んでいる者に死を与えるならば、それは犠牲ではない。私は自分が愛している者を捧げなければならない。死を与えるまさにその時点、まさにその瞬間に、私は自分が愛している者を憎むようにならなければならない。私は自分の近親者を憎み、裏切らなければならない。すなわち、憎しみの対象としてではなく、(それならばあまりに容易だ)、愛する対象としてあるような近親者に対して、犠牲としての死を与えなければならないということである。私は彼らを愛するかぎりにおいて、憎まなければならない。憎むべき者を憎むのならば、そのような憎しみはあまりにも容易で、憎しみとはいえない。憎しみとは、もっとも愛する者を憎み、裏切ることである。(中略)アブラハムが近親者を憎むのは、憎しみからではなく、愛からである。だがそれで憎しみが減るわけではないし、その反対なのだ。アブラハムは、息子に死を与え、倫理では憎しみや殺人と呼ばれていることをするに至るために、息子を絶対的に愛さなければならない。
(ジャック・デリダ『死を与える』、廣瀬浩司・林好雄訳、一三四頁~一三五頁、ちくま学芸文庫、二〇〇四)
キルケゴールは言う。アブラハムは「自己みずからにたいする憎しみである愛によって偉大であった」(「おそれ」二九頁)と。ひとを憎んではならない。憎しみからは何も生まれない。あとに残るのはただ凍えるばかりの荒廃しかないから。愛こそが憎しみに打ち克つのだ――間違っている。愛と憎しみは互いの代用物でも対立物でもない。ひとが憎しみを抱くのは愛すればこそ、愛したいからこそなのだ。憎しみもまた、愛の見せる媚態にほかならない。憎しみゆえの苦しみもかなしみも、その本性が愛であるために、けっして絶えることがないのだ。なぜなら骨や肉や水のように、ひとは愛から出来ている生きものなのだから。愛も憎しみも、かなしみも絶望もよろこびもみな、そっくりわたしたちのものである。愛はその極限にあって反転し、憎しみとなる。逆もまたしかりである。私が子を殺めるのは、それが愛の止まることなき運動だからである。愛とはとどのつまり、誰かを殺めることにほかならない。殺めずにおれないほど愛することだと言い直してもいい。だから愛にしてみれば、これは「逆説」ではない。私はいまここで何をしているのか? さんざん迷ったあげく、瀕死の思いで私はわが子に手をかける。ふるえる両手で刃を振り下ろすその瞬間ほど、おそろしい踏み越えがあろうか。この「瞬間」について、デリダはこう語っている。
「決断の瞬間は狂気だ」と別のところでキルケゴールは言っている。この逆説を時間や媒介において捉えることはできない。つまり言語によっても、理性によっても捉えることはできないのだ。贈与と同じように。(中略)逆説は瞬間の時間性を要求する。それは非時間的な時間性、捉えることのできない持続に所属する。
(『死を与える』一四七頁)
神はもはや時間がないような瞬間、もはや時間が与えられていないような瞬間にアブラハムを止める。あたかもアブラハムはすでにイサクを殺してしまっていたかのように。瞬間の概念はやはり不可欠である。
(同書一五〇頁)
ドストエフスキーの「罪と罰」はさきに述べたとおり、あやうい考えに憑かれ殺人を犯す青年、ラスコーリニコフの物語である。あやうい考えとは、世の中はナポレオンのように非凡な少数者と大多数の凡人からなり、善悪の彼岸にあるべき前者は人類のためなら殺人すら肯えるという、つまりはわれらが植松の考え方である。ところがラスコーリニコフは、自らの考えを実践に移すべく強欲な金貸しの老婆の頭上へ斧を振り下ろしたその直後、たまさか出くわした老婆の妹・リザヴェータまで殺めてしまう。
部屋の真ん中には、大きな包みを手にしたリザヴェータが棒立ちになって、全身麻痺したように、殺された姉をながめていたが、布を欺くばかり真白になり、叫ぶ力もないらしかった。(中略)彼は斧を振るって跳りかかった――彼女のくちびるはさも情けなさそうにゆがんだ。あたかもごく小さな子供がものにおびえかかった時、恐ろしいものをじっと見つめながら、今にも泣き出しそうにするのと、同じような具合だった。その上、この不幸なリザヴェータはあまりにもお人好しで、すっかりいじめつけられて、いじけきった女なので、手を上げて顔を防ごうともしなかった。
(強調引用者。ドストエフスキー『罪と罰』、米川正夫訳、新潮文庫(上)一二六頁)
この瞬間の彼女を、ごく小さな子供と表現しえたところに、ドストエフスキーという男がまぎれもなく不世出の作家であることが示されている。山城むつみはこの場面について、キルケゴール=デリダを受け継ぐようにこう語る。
(前略)逆説的なことに、近親者(たとえば「母さん、妹」)の、そして彼らへの愛こそが一切の悲劇の原因だったのだ。ラスコーリニコフは悪を為そうとしたのではなく、むしろその逆だったのである。にもかかわらず、そこから結果したのは愚劣で醜悪きわまる悪業だったのである。事前と事後の間、動機と行為との間には、時間の結び目が断たれる瞬間が必ずあり、現実がその死角を捉えて「善を為さんと欲する我」(パウロ)を否応なく「悪」に結び付けてしまうことがある。歴史の真の恐ろしさはそこにある。
(山城むつみ『ドストエフスキー』第二章 ソーニャの眼 『罪と罰』、一五七頁、講談社、二〇一〇)
「瞬間」というこの不可解きわまる事態について、「時間が与えられていない」「時間の結び目が断たれる」と、デリダも山城もそれぞれ異なる稜線を、同じ戦慄すべき切断面で捉えているが、「時間的なもの全体を背理なものの力によってとらえるには、逆説的で謙虚な勇気が必要である。(「おそれ」八三頁)」というキルケゴールの言にしたがって言えば、そもそも時間とは、ありえない「瞬間」の折り畳みからなっている。「瞬間」こそが時間に内在する背理である。というのもそこでは、けっして並び立つことのない「ある」と「ない」とが、単独性と普遍性とが、肩を並べついにそれらの境界すらも失うからである。森羅万象、およそ何ものかが「ある」ということ――この絶対性、どこまで行こうとさいはてのないお釈迦様の掌の裏側には、端的に何も「ない」。しかしまったき無はべったりとその裏に貼り付いていて、いつだって反転しうる。「瞬間」とは、このように互いに無縁なもの同士(なぜなら「ある」はただただ「ある」しかなく、「ない」ならそれは徹底して「ない」のだから)の法外な架橋である。少なからぬひとが「瞬間」を止まった時間、あるいは時間そのものが流れ出てくる場と感じる理由はここにある。時間に内在しながら、その外にあるからである。そして単独性は証しえぬ当のこのもの性を示し、他方普遍性は語られ、証しされるべき可能性へと開かれるために、これまた同じ土俵にありえない。これらが四つ巴となって「媒介なしに」(キルケゴール)、つまりパラドキシカルに交わるのが「瞬間」なのである。
神は、端から私の思いを一切見透かしていることだろう。けれども私がここ、この「決断の瞬間」で稜線のいずれへ転ぶか、それだけは知りえまい。神が私のふるまいにどう応えるかを、私は知りえないように。なぜなら、それはたとえ全知全能の神にとっても「死角」(山城)だからであり、それこそが人間に自由意志が与えられたことの意味、神と人間との間に交わされた契約の意味でなくてはならないからである。ここには絶対のたまさかがある。試練は神からも悪魔からも、私の外部の誰からも与えられたわけではない。ただ愛の本質が与えるのだ。西洋世界における愛の概念を確立させた一人、パウロが言うように神の本質が愛であるとしたら、愛の「おそれとおののき」はこのことにある。なぜなら愛はおよそ自らの外に根拠というものを持たず、その自己運動は神のように、愛する者と私とを絶対的な関係の下に置く、すなわち単独者にしてしまうからである。
アブラハムは沈黙を守る――しかし、彼は語ることができないのである。この点に、苦悩と不安がある、すなわち、わたしが、語ることによって、わたしを人に理解させることができないとき、たとえわたしが明けても暮れても間断なく語ったにしても、わたしは語っていることにはならない。これがアブラハムの場合なのである。彼はあらゆることを語ることができる、しかし一つのことだけを、彼は語ることができない。(中略)どんなに美しく語っても、だれしも誤解するしかないのである。
(強調原文。「おそれ」一八六頁)
かれは人間のことばを語らない。たとえ彼が地上のあらゆる国語を知っていたとしても、たとえ愛する者たちが理解してくれたとしても、それでも彼は語ることはできない――
彼はいわば神のことばで語るのである、彼は異言を語るのである。
(「おそれ」一八八頁)
いつなんどきでも、アブラハムは中止することができるのである。彼は全体を試誘として悔いることができるのである、そのときには、彼は語ることができる。そのときには、すべての人が彼を理解しうるであろう――しかし、そのとき、彼はもはやアブラハムではない。
(「おそれ」一八九頁)
キルケゴールがおどろくべき深度で切開してみせたこの局面を、デリダはこう語る。
誰も私の代わりに死ぬことができないのと同じように、私の代わりに決断をすること、決断と呼ばれるものをすることはできない。だが口を開いてしまった瞬間、つまり言語という場に入り込んでしまった瞬間に、ひとは単独性を失う。
(「死を与える」一二五~一二六頁)
単独性のジレンマとは何か。口を開くことがなければ見出されることもけっしてなかった(端的に無だった)にもかかわらず口を開く、そこに単独者としての私が立ち上がる。しかしそれと同時に(この「同時」であることが肝心なのだ)、私はもはやそれを語りえぬ者となる。これがジレンマにほかならない。だが、それでも口を開かなければ、何も始まることはないのだ。「おそれとおののき」は、このパラドキシカルな稜線上にあって、「逆説」的にひたすら饒舌に語り続けることを決意したような奇妙な書物である。
性関係を、普遍的な形式で人間関係の中に書き入れようとするとき、その者は、人間の外部の空間に立ち、人間の言語を話せなくなる。この、言語の不可能性が、分析における不可能性である。外部は、言われたことが妥当するための必然として要請されるが、そこに立つ者は、言うことの不可能を担う。
たまたま何らかの事故によってしゃべれないのではなく、必然的に、人間のことばをしゃべれない者、それが、あの、我々に人間としての存在と関係の必然性の根拠を与える者であるということになる。
必然的に、人間の言葉を話せない者、その者は、その分だけ、死んでいる。彼は、話せないことによって、自分の存在を開示することができるだけである。神とは、話せないことの痛みに他ならず、音楽や彫刻から神性が流れ出るのは、それらが無言の痛みだからである。
(強調原文。新宮一成『ラカンの精神分析』、二九五~二九六頁、講談社現代新書、一九九五)
引用した冒頭の「性関係」を「愛」に置きかえれば、まるでキルケゴールが語っているのかと錯覚するほどである。文中の「あの、我々に人間としての存在と関係の必然性の根拠を与える者」とは、(あくまで引用者である私の解釈だが)わたしたちに愛を「覚知」(新宮)させるあらゆる存在あるいは契機を指している。なぜなら愛は、「必然性の審級を呼び出さずにはいられない情念のこと」(同書二九三頁)だからである。
精神医学の領域で扱われる症例は、抑うつ、ヒステリー、統合失調症、多重人格、離人症とさまざまである。それらは、あるべき私の姿を取り戻すことができずに宙吊りとなり、統合できないまま引き裂かれてしまった私の復権を、喪われた故郷への帰還を、あるいはそのための物語の再構築をうながしているようにみえる。人間とはことばである。物語である。ことばも物語もそのとき、そのような根源的な水準にある。だがいっそう重要なことは、そもそもあるべき私などというものが、故郷などが存在するのだろうか、という問いではあるまいか。精神科医がその手法として自ら演じる代理人や巫女が、あるべき存在を媒介するものと思ったら大きな誤りだろう。かれが巫女になりうるとしたら、可能性はひとつしかない。「人間の外部の空間に立」つことによって、げんにある、もしくはあったにもかかわらず、死者として葬り去られた亡霊の声――多くはそうと気付かず「私はここだよ、ここにいるよ」と自らの存在を訴え続ける亡霊の声――に憑かれ、共振することである。故郷とは喪われたものの謂ではない。当の存在=亡霊そのものである。だからこそ故郷は到達不可能であるというより、到達すべきものなど端からなかったのだ。証しというものはとどのつまり、おのずから「ある」ことそのこと以外の何ものでもない。それゆえ、真の証しはたとえ神であろうとも不可能である。無言の痛みとは、そういうことだ。こうして復権すべき私も、帰還すべき故郷もありはしないと「覚知」させられた患者は、精神科医とのある絶対的な関係に入っている。これを愛の関係と呼んで何の差し障りがあろう。その者は自ら痛みを受け容れ、自らが亡霊であることを受け容れるだろう。「治癒」とはそのような事態であり、たんに「治る」(元へ戻る)ことではない。
(第06回 了)
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