妻が妊娠した。夫の方には、男の方にはさしたる驚きも感慨もない。ただ人生の重大事であり岐路にさしかかっているのも確か。さて、男はどうすればいいのか? どう振る舞えばいいのか、自分は変化のない日常をどう続ければいいのか? ・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第5弾!。
by 金魚屋編集部
日帰りで京都に行ったことは、もちろんマキに言っていない。マキだけじゃなく「夜想」のマスターにもトミタさんにも、「余り者」の連中にも両親にも内緒だ。
あの日、コケモモは「当分連絡はしないと思うけど、アドレスや番号を変えるなら教えて」と言っていた。「奥さんにもよろしく、とは言えないか」と少しだけ笑い、「子どもって可愛いよ」と呟いた。それが最後の会話。もうすぐ産まれるんだ、とはやっぱり言えなかった。
あの茶封筒が届いてから二回、マキの実家に顔を出した。出産予定日は十月十四日。土曜日だ。平日じゃなくてよかったね、とマキはカレンダーを指差し、俺も「そうだな」と微笑んだ。
でも内心は「あのまま一緒に暮らしながら、ちゃんと赤ちゃんを産む自信が持てなかったんです」と綴ったマキのことが怖い。だから、と言っていいのか、また外で飲む機会が増えた。「夜想」はもちろんのこと、妻子持ちのヤジマーにも久しぶりに会って相談をした。俺と一緒だとなんで産めないんだろうな、と尋ねる俺に「心当たりはないのかよ、新米」と訊き返すヤジマー。そこを突かれると弱い。
やっぱりマキは、サクラちゃんのことを勘付いていたのだろうか。また京都まで行ったことや、その理由も見通しているのだろうか。考えても答えは分からない。そしてツヨシのことは、生涯誰にも打ち明けないつもりだ。
飲む機会が増えた分、仕事にも精を出すようにしている。十月になり、実家の喫茶店「ピース」にも学生客の姿が目立つようになった。数日前から俺もエプロンをつけてコーヒーを運び始めている。年配の常連さんたちには母親が紹介してくれた。
「これ、一番下の息子なんですよ」
よろしくお願いします、と頭を下げると「よ、若旦那」とからかわれた。それ以来、店では「若旦那」と呼ばれている。
ランチメニューのスタートや、クーポン券制度の導入はもう少し待とうと思った。「ピース」という店名もこのままでいい。今は目の前にあることを、ちゃんとこなせるようになりたい。ここでも俺は新米だ。
実際に働きだしてみると、時間が経つのは早かった。見ている分には気付かなかったが、喫茶店というのは意外と細かな作業が多い。どうして父親も母親も忙しそうに見えないんだろう。それがキャリアというヤツかもしれない。改めて両親の仕事ぶりを見直しているうちに週末が来て、俺はまたマキの実家へ顔を出した。予定日まで一週間。俺はいつものように二時頃に着いた。ドアを開けてくれたのは、かなりお腹が大きくなったマキだ。
「お父さんたち、デパートに行ってるのよ。ほら、そろそろ入院するからその準備でね」
もう妊婦姿のマキを見るのも最後だな、と思った。来週にはこのお腹の中にいる子が産まれてくるんだ。
「天気いいわね」
「ああ」
「ちょっと庭に出ない?」
大きな居間を通り抜けて庭に出る。そんなに広くはないが、綺麗で眺めがいい。幾つか飾ってある盆栽は義父の趣味だろうか。
「へえ、こんな風になってるんだ」
そう言った俺に「あれ? 庭に出たことなかったっけ」と首を傾げるマキ。
「ないよ、初めて」
「あ、そっか」
俺は縁側に座る。マキはサンダルを履き、庭に置いてあるビーチベッドに腰掛けた。よいっしょ、と言いながら直角気味に背中を預ける。
「辛くないのか、体勢」
「うん、寝そべっちゃうと苦しいんだけどね」
「そうなのか」
「だって、こんなにお腹大きいんだもん、バランス取りづらいのよ」
マキは俺に背中を向けて座っている。もうそろそろだな、と言うと「そうね」と返ってきた。何だか照れくさくて他の話をしようとしたが、うまい話題が見つからない。そうこうしているうちにマキの方から「どう? 喫茶店の方は」と振ってくれた。店の近況報告だけでなく、もうしばらくは電話営業のバイトも続けておこうと思うこと、ヤジマーたちから出産祝いのリクエストを出すように言われていることも話す。
「そうだよね、喫茶店のマスターになるんだもんね」
背中を向けたまま、振り返るようにして答えるマキに、今後のプランを話した。将来的には今の倍近く稼げる店にしたいんだけどな。その言葉は多少大袈裟ではあるが、意気込みとしては何ひとつ間違ってはいない。
「一家の大黒柱としてバリバリ働くよ」
そう冗談めかして宣言してみる。当然マキから何らかの反応があると予測したが、特に返事はなかった。大口を叩く夫に呆れてるのかな、と立ち上がり顔を覗き込んでみる。マキは、泣いていた。
予想外の涙に慌てる。どうした? と声をかけても首を振るばかり。こういう時は、あまりしつこくしない方がいい。俺は縁側に座り直した。のどかで静かな日。マキの鼻をすする音だけが聞こえる。
「ごめんね」
そのマキの言葉を受けて、もう一度「どうした?」と尋ねる。その問いには答えてもらえず、逆に「手紙、読んでくれた?」と訊き返された。来た。遂にあの件だ。
「ああ、読んだよ」
沈黙が続く。俺は待った。一時間でも二時間でも待つ覚悟だった。ずいぶん長い時間だったような気がするが、本当はそうでもないのかもしれない。鼻をすすって二度咳をした後、あのね、とマキが喋りはじめた。
「あのね、ずっと今みたいに話してくれなかったじゃない? 仕事のこととかさ」
相槌を打とうかどうか迷ったが、何も言わないことにした。
「怖かったのね、ずっと。妊娠してから、ずっと」また鼻をすすって咳をする。「避けてるっていうか、あまり喜んでない感じがしたのよ。私から見るとね」
そう言った後、少し言葉がきつかったと思ったのだろう、「ごめんね」と謝った。
「だからね……、私……、何も、話せなく、なっちゃっ、たのよ……」
最後の方は嗚咽に変わっていた。しゃくり上げる度に大きく肩が震え、ビーチベッドが軋んだ音をたてる。俺はそんなマキにかける言葉を見つけられないまま、色々な場面を思い出していた。
机の上に置いてあった母子手帳、実家に電話をしながらメモを取るマキ、ヨガ教室のグレース――。話してくれればよかったのに、とは言えなかった。俺はきっとマキに話しかけさせないような雰囲気を出していたはずだ。そして好き勝手に飲み歩いて、好き勝手に喫茶店を継ぐと決めて、好き勝手に女と旅行なんかしていたんだ。
マキ一人に相当背負わせちゃったなと気付く。気付いただけではない。やっぱり弱くてダメなのは俺だけなんだと落ち込んだ。
「あと、エコー写真もね、見せれなくって……」嗚咽の中の声。「本当は見てほしかったんだけど……」
そういえばいつか「夜想」で、まだエコー写真を見てないのかと誰かに言われた。そうか、持っていたけど見せれなかったのか。それだって、見せないように仕向けていたのはこの俺だ。手紙に綴られた「一緒に暮らしながら、ちゃんと赤ちゃんを産む自信が持てなかった」という言葉の意味を、俺は理解しようともせずただただ怯えていた。それだけではない。自分の隠しごとがバレているのではないか、と見当違いの詮索までしていた。
徐々にマキの嗚咽は鎮まり始めている。肩の震えも落ち着いてきた。その背後で弱くてダメな俺は相変わらず無言だ。初めて会った時さ、と話し始めるマキ。普通の声に戻りつつある。どんな話をしたか覚えてる? と尋ねられたが何のことか分からなかった。
「ほら、下北のビルの四階にある狭いバーよ」
そう言われて、二人が初めて会話を交わした日のことだと理解する。視線を決して逸らさなかったマキは鮮やかに覚えているが、話の内容までは覚えていなかった。
「地球とか環境とかの話だったのよ。みんなでワイワイ話しててね、私も酔っ払ってたし、ほら、まだ若かったからさ、そんなに地球の環境が大事なら人間なんかいない方がいいって、調子に乗って言ったのよ、私。人間が地球を破壊するんだってね」
もう何年も訪ねていない店の様子を思い出す。そこにあの頃の二人を並べてみると、たしかにそんな話をしたような気がしてくる。
「で、あの時、私の意見に唯一賛成してくれたでしょう? 人なんかいるから地球がダメになる、人は無駄なんだってね」
覚えてはいないが、そういう極論めいたことを俺は言いかねない。本音かどうかなんてどうでもいい。デタラメが好きな俺にはそういうところがある。
「もう何年も前のことなのに、なんか気にしちゃってね。馬鹿みたいだけど、本当に悩んだのよ。この子がどうなるかなんて分からないじゃない? とんでもない犯罪者になるかもしれないし、私たちがこの子に殺されるかもしれないしさ。なんか怖くなっちゃって、やっぱり無駄なのかなって思ったしね」
無駄、という言葉はきつい。俺も自分なりに不安を抱えてはいたが、マキが抱えている不安の方が数倍刺々しく、そして重い。
「今もそれは変わんないのよ」
ゆっくりとビーチベッドから降り、マキがこっちを向く。頬に涙の跡を残したまま、だけど軽く笑みを浮かべている。何か声をかけたいけれど、新米の俺には言葉が見当たらない。そんな役立たずにマキは優しく語りかける。
「この子、無駄よ」
胃の辺りが踏みつけられたように痛んだが、俺はマキから目を逸らさなかった。お腹を撫でながら「この子、無駄よ」と言う姿を見たくはないが、どうにか必死に踏ん張った。
今、目を逸らしたらダメなんだ。一生戻れないぞ、と踏ん張り続ける。今、逃げたら確実に見捨てられるだろう。
でもね、とマキが優しい表情を見せてくれた。目を逸らさなかったことへのご褒美に違いない。
「でもね、無駄って大事よ」
堪えていたものが溢れ出した。強く目を閉じ頬に流す。最近すっかり涙もろくなってしまった。年齢のせいではない。愚かさのせいだ。マキはくるりと背中を向けると、俺が一度も見たことのなかった庭を踏みしめ、力強くゆっくりと歩き出していた。
――無駄って大事。
縁側に取り残された俺の頭の中を、その言葉がぐるぐる廻っている。盆栽の前に立ち止まり、いつもの声で「ねえ、もっとこうやって話し合ってればよかったね」とマキが言う。
本当にそうだ。俺は子どもがいるマキの腹、マキは空っぽの俺の腹、互いに相手の腹の中を探り、そして怯えながら今日まで来てしまった。よいっしょ、と俺の隣に座ったマキが、サンダルを履いたまま脚をブラブラさせながら言う。
「来週さ、立ち会わなくてもいいから、ちゃんと病院に来てくれる?」
当たり前じゃないか、と言いながら再び涙が溢れてくるのを感じた。この人に、今までひどいことばかりしてきてしまった。
「だって男の人って立ち会うと、女房を女として見なくなるんでしょ?」
「バカ言うなよ」我ながら情けない涙声。
「そんなのイヤだから病院の廊下でドキドキしながら待っててね、ドラマみたいにさ」
顎までつたった涙が落ちて行く。泣けて仕方がなかった。泣き顔を見られたくないので俯いたが、鼻をすする音は止めようがない。
「あとさ」
「ん?」
「喜んでね」
俺は俯いたまま「今までごめん」と謝ったが、全然声になっていなかった。
「ほらほら、もうすぐお父さんたち帰ってくるわよ」
そう言ってポケットからハンカチを出して俺に渡すと、またよいっしょと立ち上がり庭に出る。その水色のハンカチはいい匂いがした。
――マキはこういうお母さんになるんだろうな。
そんな想像をしたことはなかった。今までずっと腹の中のことばかり考えていた。
「早く泣き止まないと、この子が男か女か言っちゃうわよ」
「え?」
「聞きたくないんでしょ?」
まだ涙で滲んでいる景色の中、新しいお母さんは勝ち誇ったように胸を張り、おどけて腕を組んでみせた。
(第22回 了)
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*『オトコは遅々として』は毎月07日にアップされます。
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