妻が妊娠した。夫の方には、男の方にはさしたる驚きも感慨もない。ただ人生の重大事であり岐路にさしかかっているのも確か。さて、男はどうすればいいのか? どう振る舞えばいいのか、自分は変化のない日常をどう続ければいいのか? ・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第5弾!。
by 金魚屋編集部
こうして目が覚めても布団から出ず、カーテンの隙間や開けっ放しのドアからの外光で、ぼんやり明るくなった部屋を見ていると、思い浮かぶフレーズがある。光のどけき春の日に、というアレ。二日酔いでもない限り、ほぼ毎朝浮かぶ。そしてしばらくすると、声が聞こえてくる。これもほぼ毎朝のこと。
「パパちゃーん、おきてー」
ほら、来た。ならばと目を閉じ、近づいてくる声と足音に耳を澄ます。ねえねえ、と布団越しに身体を揺すられること数回、顔を大袈裟にしかめて「まだ眠いよ」と訴えるが「ダメー、おきてー」と断られる。こんなやり取りを何度か楽しんでから上体を起こし、目を開けると「やっとおきたー」と永子が笑っている。
身長九十センチ、体重十二キロ。あれ、これは一つ前に測ったヤツだっけ。まあいいや、と手を伸ばし柔らかな髪を撫でる。フフフ、と身体を傾けながら笑い続ける姿は「光のどけき」にぴったりだ。
「ほら、ちゃんと起こしたよって教えてあげないと」
うん、と頷きトコトコと部屋を出ていく永子。「ママー、おこしたよー」と声を張る度、全身をきゅっと伸ばしているはずだ。
気付けばマキが「ママ」で、俺が「パパちゃん」。ちゃん付けの理由は分からないが、何となく気に入っている。一度「ママちゃん、でいいじゃん」と提案したが、「ちょっとやだ」と採用してもらえなかった。
時間は六時四十五分。毎朝「早いな」と思うが、起きるのが辛いわけではない。多分慣れてしまったのだろう。
永子が産まれて数ヶ月後に、この喫茶店「ピース」は改装した。その間、二階に住んでいた両親は千葉にいる兄貴の家で暮らし、最終的にその近所の小さな平家を購入して引っ越した。きっと全部親父が決めたのだと思う。結果、俺は予定より早めに店を継ぎ、この二階へ越してくることになった。とはいえ、両親とも毎日来てくれるし、あまり継いだという実感はない。
カーテンを開け、一気に雪崩れ込む光に唸り声をあげる。この家からはちょうどスカイツリーが見えない。永子が好きな世界一の電波塔まで歩いて三十分。リフォームしたてのこの二階が、我々家族のマイホームだ。広さは前の住処とあまり変わらないが、マキは収納スペースが増えたと喜んでいる。
「もうトースト焼いちゃっていい?」
階段の途中から尋ねてきたマキに「お願いしまーす」と答える。時間は七時ジャスト。開店まであと三十分。いつも通りだ。
店のカウンターに座っての朝食は、いまだに落ち着かない。とっくに食べ終わっているマキはモップで床を拭き、永子はその後をトコトコ追いかける。少し前におむつが外れた。もうトイレ関係は大丈夫。こんなことが積み重なって、あっという間に大人になってしまうんだな。
食器を流しに片付けたら、そのまま顔を洗って準備完了。エプロンを着けながら、有線のクラシックを流し、目隠しのブラインドやカーテンを開ける。今朝は誰もいないが、週の半分は並んで待っているお客さんが一人か二人はいる。リニューアルはしたけれど、BGMもオープンを報せる札も前のままだ。両親が働いているうちは変えないと思う。
店を開けて三十分。まだ一人目のお客さんが来る前に、マキが出かけていった。一年前から自由が丘のパン屋で週三日働いている。何でも以前の勤め先の先輩がオープンした店で、じわじわと人気が出てきたらしい。最初は出かける度に泣いて嫌がった永子だったが、数ヶ月で聞き分けよく「ママ、いってらっしゃい」と送り出すようになった。
どんなに遅くても八時半までには、何組かお客さんが来てくれるし、その頃には両親も到着して段々と店が回り始める。
どっちに似たのか永子は手間のかからない子で、空いている席でひとり絵を描いたり、眠くなったら二階で横になったりと、動きに無駄がない。しかも両親から人見知りは遺伝しなかったらしく、年寄りの常連さんにも愛想を振りまいてくれる。
「お前なんかより、永子ちゃんの方が売り上げに貢献してるな」
そう父親にからかわれても悪い気はしないし、むしろ嬉しく思うのは立派な親バカの証拠かもしれない。
昼飯はランチタイムの混雑が落ち着いてから。気分転換がてら永子を連れて近所の公園に行き、コンビニで買った物を食べることが多い。今日もそうだった。
公園に着くまで、お客さんに声をかけられること三回。さすがに少し多いぞと思いつつ、これも仕事のうちだと永子を見習って笑顔で挨拶を交わした。
「パパちゃん!」
マキが作ったお弁当を食べながら、歌うように永子が呼ぶ。
「ん?」
「ようちえん」
やっぱり今日もか。ここ最近、永子の興味は来年から通うことになる幼稚園に向けられている。何かを尋ねるわけでもなく、こうして「ようちえん」とだけキーワードを投げてよこす。テーマはあげたから、なにかお話してちょうだい。その意図は承知しているが、あいにく俺も幼稚園について詳しくない。なので「どんなところだと思う?」とか「永子ならすぐに友達できるよ」なんて、まあまあ不毛な会話をする羽目になる。
でもそれでいい。いや、それがいい、という結論に俺は達している。幼稚園、小学校、中学校、習い事、友達付き合い、とこの先永子は忙しくなるばかりだ。こんな風にのんびり過ごせる時間は決して長くない。思いきり楽しむに限る。
たっぷり満喫した俺とちょっぴり物足りなさそうな永子が店に戻ると、客層が若返っていた。近くの専門学校の生徒たちが五、六名。エイコちゃんだ、と手を振ってくれた女の子にトコトコと近付く後ろ姿。ついこの間まで、ヨロヨロと危なっかしい動きだったのにたいしたもんだ。微笑みながら学生さんたちに頭を下げてカウンターの中に入ると、母親が小さな椅子に座ってウトウトしていた。この椅子もBGM同様、昔のままだ。
「二階で寝てたら?」
「え、いや、大丈夫よ」
毎度のことだけど、この人はマキに遠慮して二階に上がろうとしない。
「せっかく仮眠用のソファーベッドだって置いてるんだから使ってよ」
「いいのよ、もう充分寝たんだし」
もしかしたら自分が嫁役だった時に、相当苦労したのかもしれない。そんな想像をしてしまうと更に粘るのは難しい。気をつけてよ、という頼りない言葉を選んで、俺が二階へ上がった。
物置き代わりの六畳間に入り、パソコンをオンにしてジャズを流す。引っ越して来る時に俺とマキの物はずいぶん処分したが、スピーカーだけは新しくした。
今はパソコンで我慢だが、近い将来にはちゃんとしたプレイヤーでジャズを聴く。最後にデュークのバーへ行った時に、そんな話をした。あれからどれくらいだ? と考えながら電子タバコをくわえる。紙タバコは外出用、家ではコレで我慢。たしかあの夜は暑くて、デュークにモヒートを作ってもらった。ということは、二ヶ月くらい前になる。
引っ越したものの酒を飲む店は変わらない。月に二、三度は「夜想」にも顔を出している。ここから徒歩圏内にも良さそうな店はたくさんあるけれど、煩わしさが先に立つ。さっきみたいに外でお客さんと出くわすのは昼間だけでいい。
店に下りると一番端の席に、永子と父親が座っていた。近付くとテーブルの上にはアンパンマンのパズル。
「ジイジがこれって」
「おお、良かったな」
ありがとう、と告げると父親は目を合わせずに軽く手を振った。この人は、こういうちょっとしたモノをよく買ってくれる。俺が小さい頃はそんなこと、なかったけどな。末っ子だからだろうか。今度、兄貴にどうだったか訊いてみよう。
一組の会計を済まし、食器を洗っていると姪のリッちゃんが制服姿でやって来た。相変わらず大人びている。マキの言葉を借りれば「ようやく」去年、両親が離婚した。山梨からこの近所へ引っ越してきたのはその直後。頼って、という程でもないが、近くに妹がいる安心感はあるのだろう。
区域こそ違うが、リッちゃんの通う中学校もここから近い。たまにこうして顔を出しては、永子の相手をしてくれる。今も隣に座って一緒にパズルを始めた。父親が手際よくアイスコーヒーを作って、リッちゃんに持っていく。息子の嫁の姉の娘が、どういう続柄かは知らないが、案外うまくコミュニケーションは取れているようだ。遠目で見ると、孫娘二人とお爺ちゃんに見えなくもない。
夕方近くにマキからLINEで写真が送られてきた。半月後に控えた永子の誕生日のプレゼント候補が数枚。パン屋の帰りに渋谷へ寄ったらしい。
まだ俺たちの間で意見はまとまっていない。マキが考えているのは、いわゆる知育玩具かお化粧セットで、対する俺は三輪車。別に深い考えはなく、一緒に公園で昼飯を食べている時に、三輪車に乗っているよその子を目で追っていたからだ。
送られてきた写真の中には、ちゃんと三輪車も入っていた。このフェアなところはマキらしい。無論、俺の意見を押し通すつもりはないので、多分プレゼントは知育玩具かお化粧セットになる。そんな胸の内を見透かしているのか、この間、寝る前に言われたことがある。
「永子に対して結構ラフだよね」
ラフ? と聞き返した俺に「ほら、男親は娘を大事にしたがるとかあるじゃない? いや、別に大事にしてないって言いたいんじゃなくて、割とフラットっていうか、息子に接している感じっていうか……」と言葉を選びながら話してくれた。言わんとすることはぼんやりと分かっていたが、「息子」という単語で自覚したことがある。
俺は一度も会うことなく亡くなった息子、強のことをどこかで意識している。忘れない、という感覚とは違う。顔さえ知らないからかもしれないが、思い出す対象としてではなく、守るべき教訓として強は俺の中にいる。コケモモが聞いたら嫌がるかもしれないが、真実だから仕方ない。その結果、永子に対して望むのは「生きている」ということ。
さすがにそれだけではないが、割合としてはかなり大きいと思う。生きてさえいれば、頭が良くなくても、綺麗でなくても構わない。それは世の親たちも同じだろうけど、少し俺は感情的に、むきになって願っているかもしれない。
名前だってそうだ。強が俺の中にいるから、「永」という字を選んだ。できれば永遠に、永久に生きてほしい。さっきから「ママ、かえる?」と数分おきに尋ねてくるこの子に、俺はそんな望みを託している。
(第22回 了)
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