さやは女子大に通う大学生。真面目な子だがお化粧やファッションも大好き。もちろんボーイフレンドもいる。ただ彼女の心を占めるのはまわりの女の子たち。否応なく彼女の生活と心に食い込んでくる。女友達とはなにか、女の友情とは。無為で有意義な〝学生だった〟女の子の物語。
by 金魚屋編集部
4 卒業(上編)
鐘が鳴る。授業の終わり。予定のない私は、ゆっくりと荷物をまとめる。黒板の文字を消していたら、フランス語の先生が声をかけてきた。
「あなた、進路届け出してないでしょ?」
「あ。はい」
「就職、できないの? それとも、したくないの?」
私がつまずいている点だ。考えないようにしていること。
「働きたくないわけじゃないです。けど、就職はしたくない気持ちがあります。大学院、受験してみようかと思ってます」
「どうして?」
「もう少し、考えたいんです。わかってもらえないなら、一人でいたいです」
この発言自体、理解されないだろう。
「私もよ。現実逃避して、勉強ばっかりしてたら先生になっちゃったの」
「え?」
「継続しないと結果なんて出ないのよ。好きだからなんとなく続けているうちに、どこかに到達することもあるのよ。合わなかったら続けられないし。行動って、その人自身の思想を反映してるのよ。理屈で入った人が案外挫折しやすいのって、感覚を無視してるからだと思うけど」
「はあ」
「考え込んだら、同じだけ行動してみないと。人生、予想通りになんていかないものよ」
冬の景色は寂しい。木を彩っていた葉っぱが、一枚。また一枚と枝を離れていく。外は昨日よりも寒いだろう。
「赴任先が北海道になるから。ついてきてくれるかな? すぐに慣れると思うんだ。卒業してからでいいから、一緒に暮らそうよ」
ポケットに片手を突っ込みながら、彼が言った。
私は、笑うべきだったのかもしれない。喜びを表明することを、彼は望んでいたのだから。第一に現れた感情は、安堵だった。これでもう、棚ざらしの果物のような気持ちから逃れられる、と。周囲には、まだ若いと言われながら。祝福されて。
「ありがとう」
私はバッグについている房をいじりながら答えた。落ち着かない。
「照れてるの?」
彼は得意げに聞いた。質問とは裏腹に、私の体温は下がっていった。
幼いころから、習い事で帰りが遅い時はいつも、親に迎えに来てもらっていた。高校生になっても、そのあとも、深夜の外出は禁止。
とにかく逸脱しないこと。「言葉づかいを崩しすぎてはいけません」長い年月、爪先立ちをしているような気持ちで生きてきた。
いつか会うだれかのために、と言われるとロマンチックに感じるけど、相手が具体化してしまうと味気ない。
「なんのため?」幼少時の私の口癖だった。
「いい男の人と結婚するためよ」
「それだけ?」
会話はそこで終わった。もともと、私は臆病だった。だから、突飛なことをする勇気もなかった。日和見主義。だから、波風が立ったことはなかった。
「いきなりで驚いているんだね」
黙っていると、彼自身が感じてほしいと期待する感情を投影してくる。私は、身動きもしなかった。
「たぶん」
そっけないので、もう一言加える。
「きっと」
彼は大声で怒鳴るような人でもない。お酒を飲みすぎたりもしない。毎日六時に起きる規則正しい生活をしているらしい。それに、安定した職業に就いている。出世しないかもしれないけど、クビになることもないだろう。私は、幸せなはずだった。
「わかるよ。環境も変わるし。戸惑うだろうな、ってことも予想してる。けど、沙耶ちゃんは順応力が高い人だと思うんだ。いますぐにとは言わないから、考えてほしい」
玄関の前に人影が見える。暗くて、だれだかわからない。
「ふっかちゃん?」
ブルーのトレーナーとベージュのコットンパンツ。足元は、スニーカー。上には、オレンジ色のダウンコートをひっかけている。セールで、安かったから無造作に買った感じ。ほとんどすっぴん。瓶底メガネをかけているときもある。髪は櫛が通っているかも怪しい。美貌の無駄遣いだ。
「留守なのかと思って。迷惑かもしれないけど、おすそ分けの林檎持ってきた」
「やった。ありがと。上がってお茶、飲んでく?」
「おかまいなく。うわっ! 襟なし着てる。しかも、Vネック。寒くないの?」
「うーん」
「デートか」
「まったく。最近の若いもんは。チャラチャラしてるね」
からかうような口調。第三者からはそう見えているのだ。
「怒った?」
「全然。これ、家に置いてから戻ってくる。駅前に、新しい喫茶店ができたの、知ってる?まだそんなに遅い時間じゃないし、行かない?」
「待っててあげるよ。あと、これ。木目込み人形。うちのババアが作った。邪魔だったら、捨てて」
「あ。もらうね」
家に入り冷蔵庫を開いた。もしかしたら林檎は、常温保存だろうか。不明なので、とりあえず入れておく。部屋に戻り、タートルネックに着替えてから外に出た。
「やっぱり寒かったんだね」
「じつは、ね」
皮膚の表面に、もぞもぞしたものが貼り付いているような感覚。彼の言葉のせいだ。振り払いたい。
「喫茶店駅のどっち口だっけ?」
「南口」
薄暗がりを歩く。街頭が、ぼんやりと辺りを照らしている。道路沿いを、ひたすらまっすぐ。目的の店が視界に入る。
「ただのスタバじゃん」
がっかりされてしまった。
「そう。でも、格段な進歩じゃない? この地区にしては」
「私たち都民じゃないような会話してるね」
ふっかちゃんは、歯を見せて笑った。
自動扉が開く カウンターが明るすぎる。
「チャイティーラテ。アイスのショートサイズください。ふっかちゃんは?」
「アイスミルクティー。一番小さいやつ」
トレーを持って移動する。対面に座る。
「ここ、座り心地いいね。で、どうしたの?」
「ただ、話したかっただけ」
「ふーん。どうせ、彼氏のことでしょ? くだらない」
「聞く前から、言わないでくださいよ」
「突然敬語? やめてくれる? で、なに? 結婚するしないの周辺の話でしょ? 頭弱そう」
仕方がないので、事情を軽く説明した。
「はー? 散々色目使っておいて、赴任先が気に入らなかったら逃亡するの? いい面の皮だね。相手も」
蓋を開けて、そのまま紙コップに口をつけている。
「答え、まだ決めてないじゃないですか」
「それ、終わるパターンだね。大人だから、わかるよ。だって私、さやちゃんの親でもいいくらいの世代だよ」
そうだっけ。分別がない態度が、ふっかちゃんを年齢不詳に見せていた。
「話、まとめないでよ」
「で、彼のどこが好きだったの?」
「優しいし」
「思いつめすぎじゃない? まだ数人としかつき合ったことないんでしょ? 決めるのは日本中の人と関わったあとにしなよ。結婚なんて一生もんなんだから」
要約されると、気が軽くなる。
「変だよ。その発想」
「私だって、親に聞かれたらそう答えてるよ。探してる途中ですって」
「唖然とされそう」
「だって、事実だもん。いい人がいたら結婚するよ。数人しかサンプルがないのに、たまたま適齢期に身近にいたから結婚するって、ロマンもなにもなくない?」
たしかにそうだ。説得されそうになる。
「はぁ……」
「うっかりしてると、流されてうちの母親みたいになるよ」
「そんなこと言って、お母さん近所で一番幸せな主婦に見えるけど」
チャイティーラテを飲む。甘すぎるくらいがちょうどいい。
「母親、うちの犬が散歩するくらいの距離が行動範囲だよ。趣味も、木目込み人形作りとかだし。内職みたいなことを、有料でやってるだけ。でも、私も細かいところに凝り性なところは受け継いじゃったのかも」
ふっかちゃんは、私の学校にはいないタイプだ。美大を卒業して、アクセサリーのデザイナーをしている。銀座にも卸していて、そこそこ有名らしい。本人いわく、「寝食を忘れるほど」没頭しているのだそうだ。けど、仕事のことを根ほり葉ほり聞いても答えてくれない。フランスに渡って修行していたこともあると言っていた。しばらく家を離れている間、パパとママをハラハラさせていた。
ふっかちゃんの指輪が、前回と違う。周囲に小さなダイヤモンドがぐるっと取り巻いているだけではなくて、側面が透かし彫りになっている。夜店に売っていそうな、いかにも指輪な感じのレトロなデザインで、スピネルが中央に配置してあるのも見たことがある。自分で手がけたものを身につけるようにしているらしい。
「ふっかちゃんのママ、パパから甘やかしてもらってるから羨ましい」
「たまに浪費できる程度だよ? あとは一日中洗濯と掃除」
うちの祖母と出かけたとき、ふっかちゃんのママが、パパに買ってもらった香水を見せびらかしていたらしい。祖母は、家に帰ってから私に、「結婚してからセーター一枚プレゼントされたことがない」と言って嘆いていた。
「専業主婦だから、働きに行かなくていいんだよね?」
「外からは評価されないってことだよ。それでもいいの?」
「わかんない」
「なんなのよ。優柔不断な人って、見てて疲れるよ」
そう言って、ふっかちゃんはソファーに深く腰掛けた。
(第09回 了)
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*『学生だった』は毎月05日にアップされます。
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