月子(つきこ)・楡木子(ゆきこ)・好女子(すめこ)・夾子(きょうこ)の医家に生まれ育った四人姉妹に、立て続けに事件が襲いかかる。始まりはあのとき。いや、違う。絡まり合った過去の記憶。あるいは謎の糸口は…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ノスタルジックでハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第5弾!
by 小原眞紀子
第十三幕(後編)
ドアに捕まり、ようやくターンした。ネグリジェを捲り上げないまま、とりあえず便器にかける。
「今夜、夾子が帰ったら、必ず起こして」と、ドアを閉めながら言ったのは、恥ずかしいのを隠すためでもあった。
「わかりました」と、彼は頷く。
「夜は寝かせておくように、と言われてますけど。体調不良からくる気鬱を避けるには、光に当たる時間が長い方ほどいいんです」
ほんとの植物じゃあるまいし、そんなことがあるのか。
再び手を借り、布団に戻ると、彼は注射の用意を始めた。
艶めかしい指の動きに、再び心臓の鼓動が激しくなる。
「魔法の注射ね」囁いた声は掠れた。
「そうですよ」
ダイニングテーブルでアンプルを切りながら、あの笑みを向ける。わたしと触れ合うことで、繊細で知的な感受性を取り戻したかのようだ。
「なんて薬なの?」
ミクロマイシン、と彼は答えた。
「体力の回復を早める新薬です。焦る必要はありませんが」
吸いつけられたように、わたしは彼の指を見つめていた。
爪の形。節の膨らみ。指紋の襞に至るまで、視界の中で異常なまでにくっきりと存在を際だたせている。
何か、意味深い秘密を囁きかけるかのように。
「飛行機は疲れますからね。よい状態で出発しないと」
アルコール綿で腕を拭いてくれる彼に、何も応える気が起きない。
ひどい脱力感の中で、こんな幸福に包まれた病人がいるだろうか、と思った。行動する意欲は消え、今ここにいること以外、すべて馬鹿げていると感じはじめていた。
素晴らしい香りがする。
ローズ・ド・メ。五月の薔薇、それにジャスミン。
微かにスパイシーなのは、枯れたシダの匂いか。
薄く瞼を開いた。
暗い中に白い平板な空間が切り開かれている。右上には丸いオレンジそっくりの灯りが二、三個、宙に浮いていた。
夜なのだ。
と、真ん中からもう一つ、丸いものがぽんと飛び出してきた。
「夾子」わたしは思わず笑った。
また、ずいぶんと太ったものだ。ペパーミントグリーンのワンピースが弾けそうではないか。彼女の身体の中心から、水輪が広がるように波紋が横切ってゆく。
どうやら少し、目のレンズがおかしい。
「姉さん」
呼ばれた声が、水の中みたいに籠もって聞こえる。耳も変になっているのだろうか。
「あの人は、」と訊く自分の声も、ぶよぶよと響いた。
彼の名前が思い出せない。
夾子の夫。
そう思ったら突然、死ぬほど可笑しくなった。
「わたしの、天使ちゃんは?」
笑いを堪え、はあはあ息をするのがやっとだ。
「姉さんの家よ。夜は交替するの」
ぴたりと笑いが止んだ。
いきなり背中を叩かれたようだった。
「交替って?」
「ずっと病人のそばにいるのは疲れるのよ。看護師でも」
ここへ来て、初めて現実的な言葉を交わしている。
現実的すぎて、非現実的に聞こえた。
「それとね。姉さんの家に、美希を置かせてもらってるから」
「美希を、ですって? 病院じゃなかったの?」
そんな勝手なことを、と言おうとしたとき、再び透明な水輪が夾子の姿を横切り、丸々した腹を波打たせた。
「いーいじゃなーいの、空き家だもーん」
水にふやけたような返答が聞こえ、わたしはまたげらげら笑い出した。
確かに、いい。
何もかも、どうでもよくなった。
福笑いじみたへの字に曲がった妹の眉が、急に泣き出しそうになる。
にゅうっと耳まで裂けた口で「胃の辺りはどう? 痛みはない?」と訊く。
痛みって?
笑いすぎて、腹が痛くなる。
「だったら、いいの。モルヒネが効いてるんだ。またやっておこうね」
モルヒネ。
何のことだ。
夾子に腕を捲られて、初めて不安が襲った。
「ねえ、視界が変なのよ。耳も。注射のせいじゃないかしら」
注射器を握った夾子は、凹レンズから外れたように普通の体型に戻っている。
「出発まで、これは欠かせないのよ」
出発。ホノルルへ。
それも何だか可笑しく、また笑いがこみ上げた。
ハワイでわたしは何をする。
「ホノルルじゃないのよ」
針先を凝視したまま、夾子は言った。
わたしは妹の顔を見た。
「ホノルルじゃない、って?」
「アメリカには違いないけど。ワシントンDCの病院」
妹は注射針から目を逸らさずに答えた。
「どういうこと」
「姉さん、落ち着いて。メールでやりとりして、やっと話がついたの」
「そこへ入るの、わたしが?」
夾子は黙って頷く。
胃の辺りはどう? 痛みはないの?
「胃癌なのね」
妹は再び頷いた。
「でも半年前は、異常なかったのよ」
「リスクは知ってると思うから。隠してもしょうがない」
遺伝要因があると言われ、わたしと月子は半年に一度は検査を受けている。それでも間に合わなかったとは、亡くなった実母と同じ、進行性のスキルスよりほかに考えられない。
「いつ、わかったの?」問う声が震えた。
「うちの病院に入院してから、検査で。もしかして、美希の件や何かで、ストレスが引き金になったんだったら」
ごめんね、と妹はうつむいた。
すると退院してからの回復は、一時的なものとわかっていたのか。
彼も。
もしかして月子も。
胃の底がちりちりと焼けつく気がした。
「ワシントンのその病院がアメリカの最先端。つまり、世界一の実績を持っているの。そこでの検査結果によっては、手術が可能かもしれない」
一瞬、頭が混乱しかかった。
国内で緊急手術しても、意味がないほど進行している、のか。
「もし、手術不能なら」
妹は苦しそうに眉をしかめた。
「痛みは味わわせない。キリスト教国だから、神の恩寵を与えるように」
ターミナル・ケア。
ここへ来てからの幸福感。天使に見えた彼の幻影、慈悲めいた眼差し。
それらがすでに恩寵だったのだ。
「でもね、最高についてたのよ」涙で曇った目で、夾子は続けた。
「お義兄さんの家族扱いで、アメリカの医療保険が使えるようになってたの。日本人として普通では考えられない、」
「わかった。もういいから」
わたしの返事は呂律が回っていなかった。
部屋は空虚な光に満ちていた。
意識があってもなくとも、時間の流れが止まっているかのようだ。
もしかして、わたしはすでに死んでいるのだろうか。
あるいは、と思い返した。悪い夢だったのかもしれない。
怖い幻影を見る方もいます、と彼は言った。
隣りのダイニングで、その彼が注射の用意をしていた。
「目が赤いのね」
金属盤を運んできた彼は、あまり寝ていない様子だった。
「夕べはわたしの家にいたんですって? 美希のお守りも大変ね」
彼はぴくりと肩を震わせた。わたしの顔を伏し目がちに窺い、しばらく躊躇してから頷いた。
やはり現実の出来事だったのだ。夾子との会話は。
「電話をかけさせて」
彼は顔を上げた。「どちらへ?」
主人に、とわたしは言った。
「ハワイは真夜中じゃないですか?」
「ええ。でも、電話の音で起きてくるわ」
だけど、と彼は言葉を濁した。「きっと、いないと思いますよ」
「いないって。ホノルルにいるわよ」
夫に嫉妬しているのか。病を得た身体で、まだそんなことを思った。
「大学近くのコンドミニアムには、ということです」
「でも今は学期中だし。向うだって平日じゃないの」
ここへ運び込まれる直前まで、自宅のパソコンからメールでやりとりしていた。
「メールなら、どこにいても受信できるでしょうが」と彼は呟く。
「どこにいても、って、どこなの?」
彼は蒼ざめた唇を閉ざした。
「言いなさい!」わたしは叫んでいた。「知ってるんでしょ?」
「お願いですから。興奮しないでください」
「興奮させてるのは、誰よ!」
アパルトメントだそうです、とついに口を割った。「ホノルル郊外の」
「いつからなの?」
「たぶん、数ヶ月前から」畳の縁を見つめ、彼は言う。
「夾子が調べたんです。弁護士の先生に、海外調査ができる探偵事務所を紹介してもらって」
「なんで、そんなことを」
「あなたの胃の病変を知らせようとしたとき、ずっと留守で。大学の研究室に電話して、やっと捕まえて」
文彦の妙な戸惑い方に、夾子は何かを感じ取ったのだと言う。その日のうちに依頼した探偵は、翌晩には事情を突き止めた。
「女なのね」
彼は頷いた。
「日系の二〇歳の学生だそうです」
「あなたと同い歳ね」
わたしは笑おうとした。衝撃というより、滑稽だった。
「大学にばれたら、まずいんじゃないかしら」
学会があるからと、夫はいそいそホノルルへ帰っていった。
美希の一件があって、いや、それが落ち着いてからも、互いの身体に触れることはなかった。長年の夫婦だ。今さら、そんなことを不審にも思わなかった。
彼は正座したまま、居心地悪そうに身じろぎした。
「あなたから、いつ電話があってもいいように、ご主人には家を空けないと約束してもらいました。それでも夜遅くには出かけてゆくようで」
「今はいない、というわけね」
熟睡して、ベルの音でも目が覚めなかった。
そんな言い訳が、わたしに通るはずもないのに。
「最初は、あなたがホノルルに来るまでのつもりだったようです」
こっちに来るのを急ぐ必要はないだろう。夫はそう言った。
航空チケットは売ってしまえ、と。
「短いアフェアだからと、アパルトメントに入り浸っていたらしくて」
そして現在は、深夜から朝までをともに過ごす。
そんな仲が終わりになるはずもなかった。わたしの方がむしろ、この世から去ろうとしている。
「夾子はものすごく怒ってました。でもとにかくアメリカで治療を受けられるのだから、社保制度上の家族なのは助かる、と」
奈落に落ちる。目の前が真っ暗。そんなレトリックは馬鹿げていた。
絶望というのは、どこまでも真っ白に広がる平原のようなものだ。
「注射してちょうだい。早く」
彼の膝元に置かれた金属盤を指差し、わたしは言った。
あのとろけるような幸福感はもう、どんな薬でも得られるまい。
だが苦悩も痛みもなく、眠りに落ちることができれば。
暫時、そこがわたしの、この世での居場所なのだった。
(第28回 第十三幕 後編 了)
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