月子(つきこ)・楡木子(ゆきこ)・好女子(すめこ)・夾子(きょうこ)の医家に生まれ育った四人姉妹に、立て続けに事件が襲いかかる。始まりはあのとき。いや、違う。絡まり合った過去の記憶。あるいは謎の糸口は…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ノスタルジックでハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第5弾!
by 小原眞紀子
第十三幕(前編)
「ここはどこ?」
灰色の低い天井がのしかかってくるようだ。
首を横に回して見た。よく磨かれてないサッシ窓。オランダ風の民家の絵のカーテン。どこかのダイニングだが、どこだったろう?
その隣りの畳の間に、わたしは寝かされていた。
「お目覚めですか」
襖の影から彼が顔を覗かせた。見覚えのあるセーターに、微笑みを浮かべている。
夢だ、これは、と考えた。
あの生気に満ちた瞳は、もう失われたはずなのに。
「夕べ遅く、僕たちのアパートにお連れしたんです」
夕べ。二人を食事に招んだ。
それは夢ではない。
「あら。コショウがほしいの」
食卓で彼の顔を覗き込み、夾子が尋ねた。
「じゃ、粗挽きと白、両方持ってくるわね」
わたしはそう言い、立ち上がった。
無精髭まで生やして、幼児返りすることがあるか、と内心舌打ちをした。そこまでは記憶がある。
いや。その後、自分でタルトを切ったのを思い出した。
そうか、と寝たまま息を吐く。
「デザートシャンパンで悪酔いしたんだわね。みっともない」
いえ、と彼は再びあの笑みを見せた。
無精髭は剃られていた。窓の柔らかい逆光に、横顔が眩しい。夕べは薄汚く見えた面やつれが、好ましい成熟に映っていた。
「お酒の影響もあるでしょうが。やはりまだ、本復されたとは言い難かったんでしょう」
すると、また倒れたのか。
「ええ、まあ。でも、ゆっくりお休みになれば。出発の準備は済んでいるんでしょう」
「どうして、ここに」
「自宅におられると、雑用に追われて安静を保てないから、と。それに僕が出入りするのを、近所の人たちに見られても」
では、ここで彼がわたしを看るというのか。
「ええ。お嫌でなければ」
その声に紛れもない、あの少年じみたビブラートが滲む。耳に届いたとたん、思いがけない浮遊感が広がった。
「あなたになら、」殺されてもいい、と言いそうになった。
この薔薇色の夢見心地は、確かに二日酔いとは違っている。
「何か、注射を?」わたしは訊いた。
「夾子がさきほど、肝機能向上剤と精神安定剤を。ごく穏やかなものです。吐き気はないですか? 顔色はよくなってますよ」
夾子。
夫婦として当然の言葉だったが、わたしは鼻白んだ。驚いたことに、その不機嫌を臆面もなく表さずにいられなかった。
「あなたの顔色もいいようね」
つんけんした物言いを、取り繕う気も起きない。
「どうしてかしら。生き生きして、昨日とは別人だわ」
「仕事に戻れた気がするんで」
彼は照れくさそうに答える。「喜んでいるみたいで、すみません。久しぶりに白衣を着たいんですけど」
だめ、とわたしは言った。
「そのセーターが好きなの。どうしてか、わかるでしょ?」
何も思い出さないとは言わせない。途方に暮れた彼の顔つきは、かつてのようにあどけなさが残っていた。
「患者をあてがってもらえるなら、誰でもよかったのね?」
自分でも呆れるほど、ずけずけと言う。
いえ、と彼は口ごもった。
「あの、残りの片づけや出発の手続きは、引き受けるそうですから」
夾子が、という主語はもう使わなかった。
彼はスリッパを脱ぎ、畳の間に入ってくる。
「大丈夫ですよ」
枕元に膝をつき、耳元に囁く。わたしの顔を覗き込み、目を細めて唇を寄せた。と、それをふいにかわす。
まるで小学生じゃないの。
焦らす素振りに、わたしは笑い声を上げた。
なぜか愉快でたまらず、はあはあ息を吐く。楽しい冗談みたいだった。身体が軽く、横になった姿勢のまま、どんなことでもできそうだ。それでいて何も考えられない。彼の腕か、それより大きく柔らかいものに抱かれて、するする天に昇る感じだ。
突然、意識が遠のいた。
瞼を閉じると、昇った空から、すとんと落ちるように眠った。
次に目が覚めたとき、陽はさらに窓いっぱいに差し込んでいた。
「お粥、召し上がりますか? 少し前に炊けたんですが、よく寝ておられたんで」
「今日は何日なの」
あの浮遊感は続いていた。代わりに時間の感覚が失われている。
「まだ一日経ってませんよ」
彼は同じセーターを着ていた。
「さっきは午前十時頃で、今は午後三時二十分。西向きの部屋なもので、カーテンを引きましょうか?」
「内側のレースカーテンだけ、お願い」
夕暮れどきの光に、ガス台に向かっている彼の背中の線は見たこともないほど素敵だった。
やがて小さな土鍋を運んでくると、陶器の匙で七分粥を掬い、そっと吹く。熱さを確かめるため、唇に当てられた匙に、わたしは嫉妬していた。
「間に合うのかしら」
差し出した彼の手を、じれたように振り払った。
「飛行機の予約に。五日後よ」
彼は傷ついたように目を伏せた。その睫の長さも以前と同じだった。
「すぐ回復されるでしょうし、そのときは出かけるばかりになっているはずです。荷物もほら」
と、指差す畳の隅にキャリーバッグとハンドバッグが置かれている。今からでも空港へ向えそうだった。
すると、別れは迫っているのだった。が、それを告げる彼の表情は繭に包まれたようにどこか曖昧だ。わたしは納得できなかった。
「必要なものがあれば、おっしゃってください。家に残してきたものとか、海苔とか、緑茶とか」
細々したことを言いながら、潤んだ瞳がわたしの目を見つめた。彼の手が匙を運び、わたしの唇に温い匙が触れる。
指先に痺れが走った。それは親密で、キスより濃密な行為だった。
男は最近、別の女と結婚した。
突然、自分の脚本のメモが思い浮かんだ。
表面の出来事と、奥深い心の動きとのずれ。効果的に。抑えつけていた激情が露わになる。狂おしい愛しさの高まり。
そうだった、とわたしは呟いた。
「夾子に頼んで、好女子に電話してもらって。あの古い原稿の箱のことだけど、好女子がどうかしたんじゃないかしら」
わかりました、と彼は頷いた。
「勝手に処分されてないといいですね。美希ちゃんのお母さんなら、やりかねないな。会ったことはないですけど」
「それならそれで、仕方ないわ」
実家の荷物整理など、やった試しもないくせに、と思うと腹立たしい。が、再び好女子と悶着を起こすのは真っ平だった。
「もし見つかったら、ホノルルの方へお送りしましょうか?」
「ええ、そうね」
「だいぶ召し上がれましたね」
小さな土鍋は、ほぼ空になっていた。
「もう一度、注射しておきましょう」
いいわ、とわたしは囁き返す。
まるでベッドの誘いへの返事だ。
そう思ったら、また可笑しくて吹き出しそうになった。
ダイニングテーブルに用意してあった金属盤を、彼は運んでくる。骨っぽい長い指がわたしの腕を掴んだ。
ネグリジェの袖を捲られ、愛撫の記憶が蘇る。わたしの感応の仕方を、彼は上目遣いで確かめている。
それとも単に、患者の顔色に注意を払っているだけなのか。
上腕をゴムで縛る手の動きには無駄がなく、肌を滑る掌の感触に、わたしは落ち着きを失う。そんな変調をもミリ単位で推し量るかのように、彼は正確な指使いで注射器のピストンを押していた。
突然、鼻腔の奥にゴムのような薬臭さが広がる。
頭の芯が痺れた。あたかも身体の一部が離れてゆくように、彼はゆっくりと注射針を引き抜く。
「さ、また少しお休みください」
布団を肩まで引き上げられ、それでもまだ、彼に欲されている痕跡をわたしは求めていた。寝かしつけるかのように、温かな掌が肩と首筋に触れた。が、以前、あれほど貪った乳房を掠め、彼の手は畳の上の金属盤を取り上げた。
彼と交わったことなど、ない。
嘘のようだが、本当にそうだ。
疑われるだけ疑われたなんて、理不尽きわまりなかった。
「なんて美しい部屋なの」
ダイニングの壁は地中海の神殿のように白かった。寝ている畳の間は広々した麦畑のようだ。
わたしの声に、彼が振り返った。
ダイニングテーブルに向かい、クリスタルみたいに輝くコップに何かを注いでいる。そのシャツの肩から肌色の突出物、よく見ると翼が生えていた。と、彼は麦畑の上空を飛翔し、隣りに舞い降りる。
わたしは感嘆の溜め息を漏らし、夜明けの光そのものの神秘的な飲み物を受け取った。
「オレンジジュースですよ」
とても信じられないし、飲む気は起きなかった。ただ、生まれて初めて見る液体の美しさに絶句していた。
窓の外の空はどうやら曇っているらしかった。部屋に満ちた光は、空間そのものの内部からもたらされている。
「いったい、どうなってるの?」
「御気分はよさそうですね」
謎めいた彼の笑みも、この世のものと思われない。
「あなた、さっきの羽はどうしたの?」
背中をまさぐると、くすぐったそうに身をよじる。
「回復途上の過渡的な錯覚ですかねえ。でも、楽しそうで何よりです。怖い幻影を見る方もいますから」
「驚いた。何にでもなれるのね、天使にも」
彼はくすっと笑い、「あなたのためなら」と、からかうように言う。
わたしのことを何でも知っているかのような、あの眼差しだ。
「もちろん。あなたのことなら」
「今日、何日目かしら」
「ここへ来られて三日目の朝です」彼は壁のカレンダーを示した。
三日目。
食事とトイレを繰り返していることはわかっていた。が、記憶が薄くて実感がない。
「夾子は。どうして顔を見せないの?」
「夕べは当直でした。その前の晩は戻りましたが、よく眠ってらして」
昼夜ですれ違い、ということか。
目覚めるといつも明るく、照明装置付きの温室に暮らす植物になった気がする。
トイレに立とうとすると、いきなり重力を感じた。
それまでは一人で行けたのに、彼の手を借りなくてはならなかった。ダイニングの先へと、ダンスのステップを踏むような浮遊感。
(第27回 第十三幕 前編 了)
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