角谷昌子さんの連載「俳句の水脈・血脈―平成・令和に逝った星々」第九回は沢木欣一。大正八年(一九一九年)生まれ、平成十三年(二〇〇一年)没。享年八十二歳。奥様は俳人の細見綾子さん。金子兜太、原子公平さんと同い年で欣一は社会性俳句を代表する俳人としても知られる。師は加藤楸邨。結社誌「風」を主宰した。
角谷さんは前回第八回で楸邨を取り上げておられたが、楸邨は色々な意味で面白い俳人である。言うまでもなく中村草田男、石田波郷と並ぶ人間探求派の一人として知られる。楸邨主宰の結社誌「寒雷」から兜太、公平、そして欣一らとその後の俳句界で活躍した数々の俳人が出たのでその系譜は楸邨山脈と呼ばれたりする。今でも俳壇では楸邨に深い敬意を表しその作品を称揚する俳人が多い。ただ俳壇外では――というか作品主体に見れば――楸邨俳句は淡い。草田男、波郷の俳句と比べるとインパクトが弱いと言うべきか。
棉の身を摘みゐてうたふこともなし 加藤郁乎
斑鳩の塔見ゆる田に藺は伸びぬ
鰯雲人に告ぐべきことならず
寒雷やぴりりぴりりと真夜の玻璃
灯を消すやこころ崖なす月の前
外套の襟立てて世に容れられず
火の奥に牡丹崩るるさまを見つ
死ねば野分生きてゐしかば争へり
楸邨の句は静謐と言えば静謐、消極的と言えばそうとも言える諦念に包まれている。それがまた多くの俳人を魅了した。俳人は評釈――基本的には誰がいつどこで何をしたのかを完全解明する俳句解釈が大好きだからかもしれない。
「鰯雲人に告ぐべきことならず」「外套の襟立てて世に容れられず」などは楸邨の鬱屈と不満を表現しているわけだが、それらは彼の実人生にピタリと当てはめて評釈することができる。評釈によって味わい深くなる。噛めば噛むほど味が変わってくる句である。自分に当てはめて読者が俳句解釈に参加できるんですね。
降る雪や明治は遠くなりにけり 中村草田男
折々己れにおどろく噴水時の中
秋の航一大紺円盤の中
浮浪児昼寝す「なんでもいいやい知らねえやい」
蟾蜍長子家去る由もなし
萬緑の中や吾子の歯生え初むる
妻抱かな春昼の砂利踏みて帰る
林檎掻き出し掻き出し尽きし其籾殻
波郷は病床句が有名なのでちょっと置いておくが、同じ人間探求派でも草田男俳句は全然違う。「萬緑の中や吾子の歯生え初むる」などは評釈で解釈できるだろうが「秋の航一大紺円盤の中」になるとやってみても牽強付会になるでしょうな。草田男と楸邨、犬猿の仲でした。
芭蕉「古池」を盤石の俳句の始まりする俳句界では、平明単純で言葉ですべて解釈できるにも関わらず、なお余韻というか解釈の余白がある句を最高とする。俳句はわかりやすくてかつ謎めいていなければならないということですね。それが一対一の現実対応を探る評釈という俳句独自の鑑賞方法として定着していったわけだ。
ただ評釈は本質的に、意味で解釈できるがすべては解釈し切れない句を最高とする鑑賞方法だとも言える。そういう意味では「秋の航一大紺円盤の中」「林檎掻き出し掻き出し尽きし其籾殻」などは表面的な意味を超えた何事かを表現している。それが詩本来の表現だとも言えるわけだが、あまりにも現実対応の評釈に慣れた俳人たちはこういった句を謎句としてあまり高く評価しないことが多い。
で、話がわき道に逸れてしまったが、角谷さんの連載を読んで「沢木欣一かぁ」と遠い目になってしまったのだった。今ではあまり論じられることのない俳人である。欣一は、まあ言ってみれば兜太などよりもずっと楸邨門だった。流れに沿って淡々と生き俳句を読んだ。同時代と後世では欣一俳句の印象がずいぶん違うでしょうね。
水浸く稲陰まで浸し農婦刈る 沢木欣一
塩田に百日筋目つけ通し
塩田夫日焼け極まり青ざめぬ
欣一というとこの三句がまず頭に浮かぶ。社会性俳句を代表する句でもある。評釈すれば「塩田に百日筋目つけ通し」は塩田で海水を早く蒸発させるために、ひたすら筋目を付けている農夫の重労働を表現している。ほかの二句も同様の解釈が可能。ただま、今から振り返るとこれらの句が発表当時とても話題になり、高く評価されたという社会状況(俳壇状況)はわかりにくい。
銀行へまれに来て声出さずに済む 林田紀音夫
黄の青の赤の雨傘誰から死ぬ
消えた映画の無名の死体椅子を立つ
見えない階段見える肝臓印鑑滲む 堀 葦男
ぶつかる黒を押し分け押し来るあらゆる黒
沼いちめん木片かわき拡がる慰藉
同様のことは林田紀音夫や堀葦男にも言える。関西前衛派で社会性俳句で戦後俳句でもある。こういった分析というか位置付けは川名大さんの「昭和俳句史―前衛俳句~昭和の終焉―」に詳しい。
もちろん紀音夫や葦男は無季無韻のまごうことなき前衛俳句なのだが、共に兜太「海程」に参加している。社会性俳句は同時代への批判意識だけでなく当時の前衛的表現方法も包含していたわけだ。これも脇道に逸れるが、兜太はそういった実験成果を積極的に取り入れていった。
ただ欣一の社会批判的姿勢は一過性のものだったと言っていいと思う。紀音夫や葦男は前衛的意地を張り通したが、昭和四十年代後半、一九七〇年代の高度経済成長期から社会との接点を徐々に見失っていった。批判すべき社会の前線が見えなくなったということだ。この頃欣一は、戦前戦後の俳句に質的な差はないと言っている。楸邨系に回帰したわけだ。このあたりがまあ、戦後俳句の限界だったと言っていいのではないかと思う。
あめつちのくづれんばかり桜ちる 沢木欣一
八雲わけ大白鳥の行方かな
永へに明日香の畝の青さかな
乱世にあらずや桜白過ぎる
あめつちのみどりの極み雉子走る
欣一の後期から晩年の句である。欣一は「即物具象」を提唱したが、これがまたよくわからない。一番すっきり来る解釈は、流れに従って無理せず折々の句を詠むということか。なるほど「あめつちのくづれんばかり桜ちる」「八雲わけ大白鳥の行方かな」といった句は構えが大きい。雄渾な境地を表現しているとも言える、が、どこか嘘くさい。表現として浮いている気がする。言葉が表層的に感じられて「へぇ、カッコイイ」で終わってしまいそうだ。
楸邨最大の教えは色気を捨てよということだったかもしれない。楸邨俳句は淡いが俳句の最前線で旗を振ってやろうという色気とは無縁だ。社会性俳句を含む戦後俳句は同時代をどう捉えるのかという試金石だったと思う。前線に参加した者が後退するときに足をすくわれることが多かったと思う。
岡野隆
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