月子(つきこ)・楡木子(ゆきこ)・好女子(すめこ)・夾子(きょうこ)の医家に生まれ育った四人姉妹に、立て続けに事件が襲いかかる。始まりはあのとき。いや、違う。絡まり合った過去の記憶。あるいは謎の糸口は…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ノスタルジックでハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第5弾!
by 小原眞紀子
第十一幕(後編)
夢は見なかった。
ただ、肩がむず痒かった。手が縛られたみたいに動かない。
瞼は鉛の蓋のようだ。どうにか開くと、腕に繋がるチューブが見えた。
点滴。
食事が摂れないなら、点滴をしますよ。
だから食べていたではないか、と怒りがこみ上げた。あの味のない卵綴じも。
それがいつのことか、しかし判然とはしなかった。
首を回した。ぎゅっと捻られる音がしそうだったが、液袋も栓も視界に入ってこなかった。枕は高めに積み上げ、点滴の装置はベッドから離して置いてあるらしい。
薬の嚥下に抵抗しても、これでは無意味だった。眠っている間に何でも注入してください、と言っているようなものだ。
誰かの指示を受けたナースに。
あるいは外部の不審者に、でも。
もう一方の腕を動かした。ナースコールに手が当たった。
頭に血が上り、壁に投げつけた。が、白いコードに繋がれたそれは、力なく跳ね飛ばされただけだった。
反対側に腕を伸ばし、チューブをむしり取った。身体を横にした勢いでベッドから転がり出た。点滴液が漏れ、ずり落ちかかった白い掛け布団に染みをつくっている。
針が抜けて腕から出血していた。指でこすったが、その感覚は鈍かった。足も痺れたように立たない。
床を這い、廊下へ出た。窓からぼんやりと薄明かりが見える。
昼なのか、夜なのか。ともあれ前進することしか考えられない。
今が人気のない、明け方でありますように、と願った。非常口のドアノブに縋り、ようやく腰を立たせることができた。
ノブを回すと、病院の敷地に出た。
曇り空の夕暮れどきらしい。もう状況に構ってはいられなかった。逃げるのだ。灌木の枝に捕まりながら、植え込みを横切った。
万が一、入所者が迷い出ても。
赤ランプの点いたモニターで、その場所を表示します。
いや。ここには警報はないはずだ。見つかるとすれば、むしろテレビ局のカメラの方が。
前の通りに出た。初老の女がひっと声を上げ、パジャマ姿のわたしを避けた。歩道のガードレールを頼りに、病院の玄関と逆方向へ急ぐ。のめり込みそうな前屈みで、走っているともいえない姿勢だ。
が、あの角を曲がれば。
「大丈夫ですか」
いきなり、スーツを着た男性が手を差し伸べた。
何のつもりか。その手を払いのけた。と、男は気遣わしげな目で見やり、ポケットから携帯を取り出す。
病院の関係者か。
やめて、と叫んだつもりが、掠れた息が漏れた。生気を使い果たしたように意識が遠のく。
気がつくと、わたしはまだ路上にいた。
顔を覗き込んでいたのは、制服の警官と妹だった。
「姉さん」
ひどく動転したように、夾子は眉をしかめていた。
「いったい、どうしたの。さっきは眠ってたのに」
怖い、とわたしは囁いていた。
妹の白衣の袖を、残りの力を振り絞って掴んだ。「転院させて。どこでもいい、早く」
夾子は目を見開いた。唇を微かに開きかけたが、言葉は出てこない。
わかった、とやがて妹は頷いた。
「今からすぐ、退院の手続きを取るから」
抱かれるようにしてタクシーに乗り込み、環状線に出たとき、「ごめんね、楡木子姉さん」と夾子は言った。
「そりゃ怖いよね、あんな病院。部屋もがら空きだし」
その言葉を聞き、不覚にも涙が出そうになった。
「加勢するつもりでいてくれたんでしょ?」
面目なかった。警察まで出てきて、加勢どころか、また噂の種だ。
「ぜんぜん平気よ」と、夾子はなだめるように笑う。
「警官を呼んだのは薬屋のプロパーだもん。あんたのとこの薬の副作用で朦朧としてたのよ、ってどやしてやった」
薬の副作用。
その言葉に、ふと思い当たるものがあった。
個人差はあれ、眠気はごくありふれたものだ。そして夢と現実の混同。
あの手紙を見たのも、副作用からくる幻覚だったのか。
「しばらくは、自宅にいてもらうしかないけど」
夾子の往診鞄はぱんぱんに膨れ、タクシーの前席から後部座席に点滴液を下げるポールが突き出している。
「とりあえず三日ばかり休みを取った。わたしが診るから、安心して」
「なにも、付ききりでなくても」
そう言いかけたきり、申し訳なさで顔がまともに見られない。
「いいの、たいして忙しくないの、まだ患者数が回復しないから。もし長引くようなら、在宅ナースも考えるけど」
看護師なら、いる。
そう思っても、彼のことは口に出せなかった。
「いずれ近いうち、都大病院のベッドが空くと思うわ」
夾子もまた、それに触れる素振りをみせなかった。
いまや義弟となった彼を、わたしが恐ろしがっている。
釈放されたとはいえ、未必の故意の殺人犯と目された真田を。
聖清会病院から逃げ出そうとした以上、そんな誤解を受けても仕方あるまい。
が、もしかしたら。
病室の前の廊下を横切った人影。本当に、それが釈放された彼では、と考えた瞬間があったのだろうか。
そして、わたしの枕元にあの手紙を置いたのも、と。
あり得ない。わたしは、むしろ彼を待ってすらいたはずだ。
「体調のせいだから」
なかば見透かしたかのように、妹は微笑んだ。
「過剰な不安感は、単に体力が落ちている証拠よ。ある意味、身を守るための本能が働くみたいなものなの」
そんなときは存外、我が家が一番かも、と言う。
当然のことだったが、自宅は以前と変わってなかった。引っ越しの荷造りをしかけたまま、急な旅に出たようなものだ。リビングのテーブルには空のティカップが置かれていた。
カレンダーの上では、あの日、夾子と待ち合わせの中華街へ向かってから十日ばかりが過ぎていた。
その間に真田の事件は収まり、わたしは体力を失った。
「信じられないわ。こんなはずじゃなかったのに」
こうやって歳をとっていくのか、とふと思った。周囲の事物はたいして変化せず、自身の身体だけが思うようにならなくなってゆく。
まあ、ねえ、と夾子は息を吐いた。
「十歳は若く見えるってのが自慢だって、三十六歳なわけじゃないから。更年期の症状が出始めてもおかしくない年齢って、覚悟しなきゃ」
だが不思議なことに、自分の家の中では、誰の手を借りずとも立っていられた。リビングのソファに掛けると、深く沈んだときの具合に、やっと帰ってきた実感が湧いた。
新しい寝間着に着替えさせてもらい、一階奥の寝室に落ち着く。その部屋も前の通りだった。はめ殺しの強化ガラス窓。マットな白の壁紙。二つのシングルベッドの植物文様のカバー、生成りのシーツは、自分で三越で選んだものだ。
夾子は往診鞄から薬や注射器、聴診器を取り出した。
「これはハラマメズシン。そう書いてあるでしょ?」
確認させるように、透明な点滴薬の袋の表と裏を見せる。
「ごく一般的な肝機能改善薬と栄養補助成分よ。なるべく経口で、と考えてはいるけど」
夾子は点滴薬をポールに下げると、隣りの文彦のベッドに掛け、わたしの左腕を探った。
「細いわねえ。静脈がすぐ見つかる」
ちくりと微かな感触だけで、その針刺しはなかなか上等だった。
妹は金属容器を持って寝室を出た。二階のキッチンへ上がってゆく足音が聞こえた。
管の中で点滴薬が落ちるのを、わたしはずっと眺めていた。
我が家が一番かも。その通りだ。少なくとも、ここに他人が入ってくることはない。
三〇分ほど経ったろうか。夾子が緩い重湯を運んできた。
妹の作ったそれも、やはり何の味も感じられなかった。
だが半分ばかり啜り終えると、胃の底から深い安堵感が沸き上がってきた。
もたらされた眠気は、今までのものとはまるで違っていた。
(第24回 第十一幕 後編 了)
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*『幕間は波のごとく』は毎月03日にアップされます。
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