月子(つきこ)・楡木子(ゆきこ)・好女子(すめこ)・夾子(きょうこ)の医家に生まれ育った四人姉妹に、立て続けに事件が襲いかかる。始まりはあのとき。いや、違う。絡まり合った過去の記憶。あるいは謎の糸口は…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ノスタルジックでハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第5弾!
by 小原眞紀子
第十一幕(前編)
それを知ったのは、夕方近くなってからだった。
「脳MRIの後も、ずっとお休みでしたから。お昼のワイドショーが第一報で」
小久保ナースの弾んだ声に一気に目が覚め、ベッドサイドの小型テレビを点けた。
精神安定剤のシートの窃盗以外、証拠不十分により不起訴。
昨晩、彼が釈放された。
テレビの音量を上げ、廊下や向いの病室に響かんばかりにした。久しぶりに食欲も戻ったようだった。
その夕飯の途中で、夾子がやってきた。
「脳検査のとき、どうして教えてくれなかったのよ」
「夕べは当直だったから、わたしもまだ会ってないの。家に連れて帰るって、弁護士さんが連絡くれたけど」
さすがに晴れ晴れした表情に見える。
「報道で流れるまで、ぴんとこなくて。また何かの理由で再逮捕されるんじゃないか、って」
お祝いよ、と夾子は生クリームでデコレーションされたプリンを出し、入口に置かれた薬缶のお茶を注いだ。
ワイドショーでは、「自白を期待したんでしょうが。被疑者に関して証明できないというより、事件そのものの存在すら確証が持てない」と、警察OBがコメントしたと言う。
「それを聞いて、やっと現実感が湧いてきた、ってとこ」
「院内の反応はどうなの?」
「他のスタッフの前で、あんまりはしゃいでもね」
夾子は肩をすくめた。「でも中傷した連中だって、内心ほっとしたんじゃないかな。結局、自分で自分の首を絞めてたって気づいたろうし」
そんな楽天的な見方は、まさに夾子に特有のものだ。
「あれこれ証言が多すぎて、その食い違いが説明できなくなったんだろ、って玉井先生が笑ってたわ」
彼を陥れることになった病院の記録も、その杜撰さが露わとなり、かえって検察に不利な証拠となりかねなかったと言う。
「警察が二の足を踏んだんだろう、って。姉さんの件でも、危うくミソをつけるところだったし」
だが、三和子は姿を見せなかった。
病院自体は果たしてどう考えているのか、と気になったものの、やはり安堵したらしく、夕食後は再び睡魔に襲われた。
日本のニュースは、ホノルルでもケーブルテレビでフォローできる。今頃は、夫も成り行きを知っているに違いなかった。
事件のことは、まだわからない。
あなたが言った通りだった、と電話したかったが、どうにも億劫で身体が動かなかった。
「肝機能が少し悪いぐらいだと、ねえ。やっぱり難しくて」
東京の大学病院に当たったが、今すぐはベッドの空きがない、と声が聞こえていた。
「三、四日したら、また訊いてみるからね」
どうやら夾子と、話をしているらしかった。
とにかく眠かった。「そうして、みて」
枕から頭が持ち上がらない。眠りに引きずり込まれる寸前の状態で、今、この会話も夢の一部でないという確証がなかった。
「それに、あと数日いてくれると、実は助かるのよ」
妹とおぼしき声は言っている。
「まだ取材が来ていてね。入院患者さんは全員、何事もなかったように治療を続けておられます、ってコメントしたいんだって」
どうにか首を動かし、頷いたつもりではあった。
相手は夾子でなく、もしかして三和子なのか。
個室に移りたい、と頼もうとしていたのをふと思い出した。
検査でベッドを離れる際に、この六人部屋では入口に錠がない。
しかしどうせ、あと数日のことならば。
消えた白い封筒のことなど、説明する気力もなかった。
奇妙な夢を見ていた。
柔らかな髪の少年が胸の谷間に顔を埋めている。
逢いたかった、と繰り返し囁く。
わたしも。臆面もなく答えていた。
乳首を噛まれた。いけない、と言う。
「いけない、だって」
顔を上げた彼は実際より幼かった。「家族なのに」と、呟く。
家族。
「そうですよ。殺人者の」
わたしは必死で瞼を開いた。
まだ昼日中だ。
カーテンがはためいて見える。窓は開いてないはずだ。すると、あれは衝立なのか。
人影が横切った。
あなたなの? やっと口を動かす。
少しだけ目が覚めた。そう、家に戻ったなら、ここへ来たっていいはずだ。力を振り絞り、瞼を持ち上げていようとした。
会いに来てくれたのね。
黒い影がのしかかる重みを感じた。
「そう、殺人者の家族に」と、耳元で囁く。
殺人者じゃないって、ニュースで言ってたじゃないの。
違う。
便箋の上で言葉が上下する。家族の殺人者。
胸に顔を埋めた少年は、みるみる縮んだ。赤ん坊となり、乳房の間から滑り落ちた。
階段でつこけて。いや、死にはしないはずだ、あんなことで。
だって、と院長代理の三和子が頷いた。
「ここは今、世界で一番安全な病院じゃないの」
「この近所で、たびたび彼を見かけたという通院患者の証言がありましてね」山城刑事が言っていた。
そりゃそうだ。釈放されたのだから、と、わたしは言い返していた。
人影。
昼日中の病院の廊下を人影が再び過ぎる。女の子の、家の周囲を。
うろつく、中学生じゃ、あるまいし。
それ以上は、瞼を開いていられなかった。
「お薬の時間です」
窓の外は暗かった。蛍光灯がついた病室は、真っ白な闇に覆われたかのように妙に距離感がない。
また、見たことのないナースだった。
あるいは、あるのかもしれない。朝と昼にも薬を飲まされた気がする。
「お食事は無理でしょうが、胃薬が入ってますから」
大きな匙でゼリーか何かを押し込まれ、吐き出した記憶が蘇った。
小久保さんは? と言おうとして、舌が上顎に貼り付く。
ナースの掌に剥き出しの錠剤、カプセルと粉薬があった。
「飲んで下さい」コップの水を押しつけられた。
いや、とわたしは首を振った。
「飲まないと、いつまでもよくなりませんよ」
いや、いや、と言い続けていた。なぜこんなに眠いのか。部屋は明るいのに視界がぼやけ、ナースの名札も読めない。
「だったら点滴にしますか?」
点滴。三方栓。
いや、とわたしは叫んだ。
ナースの太い腕がわたしを掴んだ。口に無理矢理にコップを当てる。
「開けなさい」と、怒鳴った。
唇の間に錠剤が入った。歯と歯の間をこじ開けられ、粉を流し込まれた。「ほら、妹さんが恥をかきますよ。ぐっと飲み込んで」
もう消灯の時刻なのか。
ナースが出て行くと、部屋の灯りが消えた。
夜の闇は不分明な悪意の重なり合いから出来ている。だからなお暗い、と意味不明なことを思い、一瞬で意識が遠のいた。
次に瞼が開いたときには、窓からいっぱいに光が射していた。
薬を飲まされたのは夕べのことなのか、それとも何日か経ったのか。身体で感じる時間の経過はあやふやだった。
ナースコールを押すと、今度も見知らぬナースがやってくる。
「夾子は?」
当直明けでご自宅です、と平板な声で答える。
「先ほど院長代理が様子を見にいらっしゃいました。何度か来られたんですが、ずっと眠ってらして」
横になったまま、背中に悪寒が走った。
すると人の気配は三和子だったのか。身体に覆い被さり、息がかかるようだった黒い影も。
「昼食は冷めてしまいましたが。できれば少し召し上がってから、お薬を飲んでください」
無表情だったが、前のナースよりは怖ろしくなかった。
わたしは頷き、卵綴じを半皿ばかり食べた。塩が薄いのか、何の味もしない。それから渡されたカプセルと錠剤を掌に転がした。
変わっている。印刷された文字。わずかな色調の差。サイズ。
どことは言えないが、以前に飲んでいたものとは違っている。
「大丈夫ですか?」
コップを手渡し、ナースは促した。薬は確かに今、シートから出したものだった。
二つの錠剤と一つのカプセルを、わたしは一度に口に入れる。
「口を開けてみてください」ナースは言った。「嚥下が弱っていると、残ることがありますからね」
あの腕の太いナースから、申し渡しがあったに違いない。
ナースは何も言わずに、わたしの舌の下からカプセルと錠剤をつまみ出し、再び口に水を流し込んだ。
薬は体内に収まり、もはや吐き出しようもなかった。
「鏡を、取ってちょうだい」と、言いながら手を伸ばした。
サイドテーブルの封筒が目に入った。が、それは茶封筒だった。
中にはテレビの使用料の計算書が入っていた。
受け取った手鏡に映っていたのは、落ちくぼんだ眼窩、黄ばんだ白目、こけた土色の頬だった。
彼が来ないのは幸いだ、とあらぬことを考える。
寝てはだめ、と言い聞かせながら、わたしはまた眠りに落ちていった。
(第23回 第十一幕 前編 了)
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*『幕間は波のごとく』は毎月03日にアップされます。
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