月子(つきこ)・楡木子(ゆきこ)・好女子(すめこ)・夾子(きょうこ)の医家に生まれ育った四人姉妹に、立て続けに事件が襲いかかる。始まりはあのとき。いや、違う。絡まり合った過去の記憶。あるいは謎の糸口は…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ノスタルジックでハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第5弾!
by 小原眞紀子
第十幕(中編)
「でも人生は、劇以上ですよね」
高木マネージャーは呟いた。「患者さんからは日々、教えられます。高齢者の方々の挙措動作はひとつひとつ、意図された以上の凝縮した意味がこもっている」
と、そのとき手前の作業台に、車椅子の患者の一人がやってきた。
あらかじめ広げられた紙に、黒の環をぐるぐると描き、その脇に緑の細い棒線を足し、赤のクレヨンを食べはじめる。
「大丈夫です。口に入れても無害なので」
そう言いながらもマネージャーは歩み寄り、クレヨンを吐き出させた。
老人は構わず、さらに黒と灰色でぐるぐるを巻き続けている。
わたしは惹きつけられたように、その絵に近づいた。
無邪気だが、稚拙ではなかった。子供が描くのとも違っている。歳を経て、理性やら雑念が衰え、生来の絵心が現れ出たものなのだろうか。
「院長代理だよ」
禿げ上がった頭の老人はふいに振り返って言った。その目は輝き、ひどく楽しそうだった。
「白衣で来られるのは、たいてい院長代理なので」
マネージャーの口調は、どこか言い訳めいていた。となると、この移動する曲線は、太った三和子の白衣の輪郭ということか。
その考えが伝わったかのように、老人は正面を見たまま頷いた。
震える指で、今度は焦げ茶のクレヨンを取り、少しずれたところに丸いぐるぐるを描き添える。
「刑事よ、刑事も。忘れなさんな」
大テーブルから、あの母に似た後ろ姿の老女が声をかけた。
が、作業台の老人は、そのときには目の前に置かれた砂時計に魅入られ、じっと動かなかった。
ガラスのくびれた部分から、銀色の砂がこぼれ落ちている。
やがて老人はゆっくりと、箱からオレンジ色のクレヨンを取り、黒と灰色のぐるぐるの合間に太い四角の塊を突き立てた。ぼくん、どわん、とよくわからない擬音を口の中で呟いている。
「嘘ばっかりしゃべる」
白髪の老女が叫んだ。
「あの女、何でもかでも、ぺらぺらぺら」
「気にしないでください」高木マネージャーが早口で囁いた。
「お嫁さんと折り合いが悪いらしくて。ところで検査のお時間は?」
老人は両手に黒と焦げ茶のクレヨンを持ち、緑の細い棒を塗り潰さんばかりに、ぐるぐる画面に描きまくっている。
わたしは急に胸が悪くなった気がした。
「あんた、姉妹の何番目かね?」
はっと振り返ると、白髪の老女が松葉杖を突き、真後ろに立っている。
老女は素早く砂時計を取り、覗き込んだ。その目がガラス越しに歪んでいる。片腕を広げ、平板な表情は古代の占い師のようでもある。
「二番目です」と、つい真顔で答えた。
「じゃ、だめだ」と老女は言い放つ。「親に悪いことをしただろう。だから、こんなところにいるんだ、孝行なのは末娘だけ」
はは、とマネージャーは笑い、エレベーターのボタンを押した。
「リア王をね。夾子先生がやろうとなさったんですが、物語としてねえ、ご高齢者には切実すぎて」
それで結局、呂実夫と朱里絵に、と言ったとき、チンと音を立ててエレベーターが開いた。
病室に戻ると、スーツを脱ぐこともできず、そのままベッドに倒れ込んだ。何だかひどく疲れていた。
採血にやってきた小久保ナースが見て驚き、すぐに夾子を呼んだ。
「二、三〇分だけって言ったのに」
着替えを手伝いながら、夾子はがみがみ怒っていた。
「だって高木マネージャーが」
話し好きなケアマネに、あれからさらに十数分、表玄関でも引き留められたのだった。
「彼に関することだったから。施設の患者さんに一番人気だったって」
真田の名を避けるかのように口にしなかった高木が、最後になって言い出したのを、聞かずに帰るわけにはいかなかった。
「人生はわからないものですね。夾子先生と婚約されて、幸福の絶頂だと思ってましたのに。無論、患者さんに対する殺人未遂なんて、信じてませんけど」
わたしは夾子を手招きし、その耳元で囁く。
「と、言っていたものの、あの高木ってマネージャーは嫉妬深そうね。他人の境遇をじっと観察してる、って感じ」
が、夾子は首を横に振った。
「人生訓が好きなだけよ。認知症の老人の相手をしてると、表現がいちいちオーバーになるの」
そう、確かに。
ただの新米の女医を捕まえて、幸福の絶頂とは大げさだ。
それも男の子が好きそうな、美しい年増でもあるまいに。
採血の後、静脈に注射しようとする妹の横顔を眺めて、わたしは目を閉じる。
誤解と嫉妬は、いつも一綴りだ。
どんな他者の人生も、そう羨むほどのものではない。それがおそらくは演劇から得た、わたしの唯一の人生訓であり、悟りだった。
蛍光灯の光の加減だろうか。
洗面台の鏡の中で、わたしの顔は土ばんだ色に映っていた。
「やっぱり今ひとつ、肝機能の数値が改善しないのよね」
廊下のナースから名札付きの食事を受け取り、それを運ぶついでのように、軽い調子で夾子は告げる。
白衣の妹は医師なのだ。
がみがみ言われるより、こう無表情に首を傾げられると、何やらそれらしい。
「薬を変えてみようか。新薬でいいのが出てるし」
夾子の処方に文句はない。もっとも新薬なら、少しは保険点数も嵩むのだろうか。このところ、三和子も病室によく顔を出す。
「老健施設、見てくださったんですって?」
「ええ。素晴らしい環境ですね」
三和子の得意げな笑みは、屈託がないと言ってもいいぐらいだった。
「ここもいいでしょ。六人部屋独り占めで、しかも今、世界で一番安全な病院ね」と、巻き髪を揺らした。
この院長代理の誤診で、小児患者を別の救急病院へ搬送したことがある。
ほかにも投薬の指示ミスが二、三回。
いずれも夾子がここへ来る前のことだった。以来、古参のナースは院長代理のカルテを念入りにチェックしているという。
「だけど、そういうミスは別に、三和子さんに限ったことでもなし」
年輩の検査技師から聞き出したという、その情報を知らせる妹の口は重かった。
「医者なら誰も、偉そうには言えないな。明日は我が身だもん」
「そりゃそうだけど、頻度ってものがあるでしょ」
あの、おっちょこちょい。
「でも月子姉さんに言わせたら、わたしなんかきっと、おっちょこちょいじゃ済まないよ。トロいし愚図だし、偏差値低いし」
「医者の愚図は、おっちょこちょいや早とちりより、数段ましよ」
夾子が出てゆくと、部屋の静けさのせいか、食欲がなくなった。
半分以上、残した膳を入り口に下げようとしたとき、足元がふらつき、みそ汁を床にぶちまけた。
体力が落ちている。
それも急激に。突然、言いようのない不安に襲われた。
が、ともかく主治医は夾子なのだ。
診療報酬がどうあれ、院長代理がおっちょこちょいであれ、薬剤の指定に他の医師が手を出すことはできない。
しかし、もし。
カプセルの中身が詰め替えられたら。
たとえば川本ナースの担当ときだけ、別の薬を飲まされていたら。
廊下に出た。足はまだふらついていた。
ホノルルは、まだ深夜とはいかないはずだった。
文彦は三コールで出た。
「まだ病院なのか?」と訊いた。
「ええ。何だか、病状がはっきりしなくて。転院してみようと思うの」
気がつくと、息せき切ってしゃべっていた。
「やっぱり、事件なんかに巻き込まれている病院は、信頼がおけないでしょ? 航空チケットの有効期限もあるし、こう足止めを食らったんじゃ」
公衆電話の受話器の向うで、夫は黙って聞いていた。
「明日にでも夾子に話すわ。一通りの検査も終わったし、東都大病院か南里総合病院でもう一度、さっと診てもらって、」
「少し落ち着け」
わたしは黙り込んだ。
みろ、いわんこっちゃない、と言われるとばかり思っていた。
「もちろん、移るのはいいさ。だけど、こっちに来るのを急ぐ必要はないだろう」
航空チケットは売ってしまえ、と言う。
「転院は医療上の理由だろ。セカンドオピニオンを求めるのは常識だ。専門医しか発見できない、珍しい病気が隠れている可能性だってある。でも事件のことはまだ、どうなるかわからない。少なくとも君は、それを理由にする立場じゃない」
寒々しい病院の廊下で、わたしは受話器を握りしめていた。
わたしの立場。
今さら、何を指摘されているのか。
しかもナースに聞き込みじみた真似までして、妹たちの手助けのつもりですらいたのだ。
受話器を置き、体調のせいだ、と自分に言い聞かせた。
感じたことのない、こんな罪悪感に苛まれるのは。
何やらひどく眠かった。まだ陽も残っているというのに、どういうわけか、やたらと眠たくてたまらなかった。
(第21回 第十幕 中編 了)
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*『幕間は波のごとく』は毎月03日にアップされます。
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